第76話『歴史に刻まれた名前』
そう言って微笑むアイシクル。美人の微笑みは花畑に咲く花よりも美しい──はずだが、迅鋭はどこか不気味に感じた。
「アイシクル……いい名前じゃな」
「ありがとうございます。ぜひ、『アイス』とお呼びください」
「アイスはどこから来たんじゃ」
「宅配で持ってきました」
……ちょっと、いやかなり不思議な人だ。愉快とも言える。
「迅鋭さんはどうしてここへ?」
「儂はここよ社長に招待されての。なにやらブラ──胸を押えて倒れている男を助けたら、その男がたまたまファーブル社の社長でな」
「ブラ、なんです?」
「噛んだだけじゃ。気にするな」
下手くそな誤魔化し方だが、誤魔化しきれたようだ。多分。
「アイスはどうしてここへ?」
「私の父がファーブル社の社長さんと仲がよくて。私も誘われちゃったんです」
「社長さんと……てことは、お主は結構偉い立場なのか?」
「とある大企業の幹部クラスですね」
「お、おぉ……」
そう言われると威厳がある。見た目の美しさも金持ちと言われれば納得だ。
「顔と髪が綺麗なのに納得しましたか?」
……本人に言われるとなーんかその気が失せる。さっきまで見えていた威厳がどっかに消えた気分だ。
「お主は変な奴じゃな」
「よく言われますね。『天才は変人が多い』ってのもよく言いますよ?」
「……自信があるのはいい事じゃ」
これまでにないタイプ。どう接すればいいか分からず、迅鋭は少し混乱していた。
自意識過剰。高い自信に見合った容姿はしているが、こうも自画自賛をされると褒めずらい。
「損な性格とよく言われんか? 女子はもっと謙虚な性格じゃないと、男に言い寄られんぞ?」
「見た目さえ良ければ男は言い寄って来ますので。あと、そんな古臭い概念は捨てた方がいいですよ? 昔じゃないんですから」
「それはすまんの。訳あって世間の事情には疎くて」
「……へぇ」
──アイスが意味深に笑う。迅鋭はその姿を視界に収めることができなかった。
「ねぇ迅鋭さん。──武器っていいとは思いませんか?」
立ち上がり、ガラス張りの奥にある銃の数々を眺めながら、アイスは話す。
「どうした急に?」
「ふと思ったんです。だって武器さえあればなんでもできるんですよ? お金は稼げるし、話し合いも武器さえあれば一瞬で終わらせられる」
「……物騒な考え方じゃな」
迅鋭も立ち上がり、アイスの隣へと移動した。
「武器を使えばむしろ話し合いは長引く。話し合いに暴力を使って悲惨なことになったのを、儂は何度も見てきた」
「ですが、必ず終わりは来ます。『話し合い』に正解はありませんが、『暴力』ならば簡単に白黒を付けられる」
「……勝った方が正義。負けた方が悪、と?」
「はい」
自分を褒める時と同じように。アイスは自信満々に意見を発する。
──迅鋭の性格として、その意見には賛成できない。だから同じく真っ向から自信満々に反論した。
「それがまかり通れば人間社会は崩壊する。傷つかずに物事を決するため、人間には言葉という機能が付いておるんじゃ」
「弱肉強食はこの世の摂理。これまでの歴史も暴力の上にあります。徳川家康が日本を統一したのも、アメリカが実質的に世界を支配したのも。それは彼らが勝利したからに他なりません」
「そうじゃ。だから徳川家は最終的に亡びたし、今の時代はアメリカは一つの国でしかなくなっとる」
「それは結果論です。これまでの日本も弱肉強食によって歴史が積み上げられてきました。世界だってそう。暴力こそ自然の摂理。言葉はその副産物でしかありません」
「暴力に支配されるのは動物だけの話。お主が言う『副産物』が人間に与えられた意味を考えるべきじゃ」
白熱した討論。互いに言葉は強くなっていき、やがてお互いの姿しか見えなくなる。
譲れない。譲りたくない言葉の戦争は二人のボルテージを上げていった。
「過去、暴力で得た頂点は全て消え去っておる。現在の日本の頂点は言葉と安全な方法で決めたものじゃ」
「違いますね。現在の日本の頂点は暴力によって決められたものをズルズルと引きずってできたものです。──この時代では、貴方が一番よくご存知なのではないですか?」
──迅鋭が狼狽える。
全てを見透かすような瞳。過去の記憶を眺められているような不快感。
あれほど美しかったアイスの瞳は奇形の化け物のように変化した……ように見えた。
「お前……」
「一八六八年。慶応四年の一月に明治政府は設立されました。それから紆余曲折はありましたが、今の日本政府は明治政府と地続きと言えます」
「明治政府ができた理由。できるまでの過程……貴方はよくご存知でしょう?」
「っ……!!」
アイスに掴みかかる。展示品の前に貼られたガラスが大きく振動した。
周りの人々は驚き、二人に注目する。
「お前……俺のなにを知っている……!」
「貴方の言う貴方のことは知りませんよ。ただ──こうして私を掴んでいる貴方のことはよく知っています」
「どう言う意味だ」
「そこは自分でお考えください」
アイスは、この女は。自分が何者かを知っている。そして自分の過去も──。
大の男に掴まれているにも関わらず、アイスは冷静だった。掴んでいる腕に優しく触れながら、囁くように言葉を出した。
「──掛川右門」
「……え」
「彼とは旧知の仲でしょう。右門が書いた『曙川』にてこんな一文があります。『京都での戦にて、鬼の如し活躍を見せた剣客がいた』と」
──また、狼狽えた。
掴んでいた手を離し、数歩アイスから距離をとる。
「その書物の最後にはこう綴られています。『波乱万丈なる彼の人生は、ゆめ報われることなく幕を閉じなむ。なるがそれこそが彼の魅力。報われることがなかりきとすれども、彼は最後まで後悔するは無しべし』。……本当に、貴方は最後まで後悔しませんでしたか?」
──迅鋭の脳裏に過去の記憶が蘇る。
「──迅鋭よ。お前の本を書こうと思ってるんだが」
この時代にはそぐわない、チャラい雰囲気を醸し出す男だった。
古風な剣客と肩を並べるには似合わない悪役側の雑兵のような顔つき。袴から見える胸板には筋肉というものが一切なく。殺し合いなど知らないかのような傷跡のない体をしている。
隣に立つのは幻水迅鋭。年齢は四十三。端正だった顔立ちもシワが増え、体の心配をされ始める歳となっていた。
「幻水って呼べよ。弟子がどっかで見てるかもしれない」
「はぁ、固くなったなお前。昔は『右門兄』と可愛く近寄ってきてたのによ」
「何十年前の話だよ……」
迅鋭と右門は幼馴染とも言える間柄であったようだ。
ワザらとらしい悲しい演技をする右門を冷めた目付きで迅鋭は見ていた。
「じゃあ幻水さんよ。お前の人生を本にしようと思うんだ。俺の人生最後の一冊としてな」
「最後って……なんでまた俺のことを?」
「謙遜しなくていい。幕末最強と噂された『剣鬼』が、誰にも知られずに消えていくのは俺としては寂しい」
「……ふん。俺の名前なんて消えた方がいい。平和になったこの時代に人殺しの名前なんて伝わる必要は無いだろ」
ぶっきらぼうに言い放つ迅鋭にすぐに反論した。
「そりゃダメだ。むしろ平和になったからこそ伝えていくべきだろ? 平和な時代にするために尽力した男の名前をよ」
「……いいんだよ。忘れられても」
遠い場所。見えている場所よりももっと。セピア色になってしまった過去を見つめながら。迅鋭は答えた。
「産まれてくる子供たちが『戦争って何?』なんて。『幻水迅鋭? 知らないよそんな人』とか。平和ボケして笑うような……そんな未来になってほしいんだよ」
「……馬鹿だよな。昔からそうだ。そこだけは変わらない」
「うるせぇよ」
迅鋭の見ている昔の景色をかき消すように。今の右門が迅鋭の前に立つ。
「俺は書くぜ。お前がこれから先の未来でも消えないように。『幻水迅鋭って凄い男がいたんだ』って。『俺の弟分はすげぇんだ』ってな」
「……ふ」
嬉しさと、感謝が混じったため息を出す。
「右門兄も変わらないよな。昔から」
「変わらないさ。これからも。お前がどんな人間になろうとも。俺はお前の兄貴分だよ」
二人だけの世界で、二人は笑い合う。
この時の迅鋭はまだ知らない。一年後の日中戦争で、右門が帰らぬ人となることに──。
拳を握る。眼前にいるアイスを睨みつける。
「貴方は何もかもを暴力で片付けてきた側でしょう。なぜ今更になって言葉を使おうとするのです?」
「……だからこそだ。暴力は何も生まないことを俺は知ってる。知ってるから、やらせたくないんだ」
「とことん甘い人ですね。偽善者の言葉がピッタリ」
そう言うと、敵意を剥き出しにしている迅鋭の横を、何事も無かったかのように通り過ぎた。
「──せっかくの二度目の生。これからどうするかは貴方次第です」
人混みの方へ。出口の方へと、アイスは足を運んでいく。
何者なのか。誰なのか。言うだけ言われて、引き下がることはできない。
「おい、お前は……一体なんなんだ?」
「……私ですか」
──人の波に消える直前。アイスは振り返り、こう言った。
「──アイシクル・アヴァランチ。この世にただ一人の私です」
「いずれ来る最厄に備えておくといいでしょう。それまでに覚悟を決めておいてください。──暴力で全てを解決する覚悟を」
アイスはその言葉を言い残し、人混みの中へ消えていった。
「……」
取り残された迅鋭は黙ったまま椅子に座る。
「──ごめんね、遅くなっちゃった! トイレがすっごい混んでてさぁ」
──入れ替わるようにやってきたロアとパッカー。変わらぬ明るさが暗くなっていた迅鋭を眩しく照らしつける。
ロアは少し違和感に気がついた。どことなく迅鋭が暗い。何かあったのか。心配になる。
「どうかしたの? 嫌なことでもあった?」
母親のように心配してくれるロア。迅鋭は目を瞑り、その優しさを噛み締める。
「……なんでもない。ちょっと頭が痛んだだけじゃ」
「そう? 気圧差かしら。迅鋭は高いとこ慣れてないもんね」
──ぎこちない笑顔を浮かべながら、迅鋭は答えるのだった。




