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第69話『悪辣なる翁』

「最近の世の中は物騒だよな。アスナロとツクヨミが毎日のようにドンパチ。そこかしこで殺し合いをしてる。巻き込まれちゃ俺らのような一般人はコロッと命を落としちまう」


 どの口が言っているのだ。──なんて、思うことすらできない。

 代わりに発言したのはヴィンクルムだ。


「我ら……特にエンテイ様なら巻き込まれても問題ないでしょう」


「ははは! そうだな!」


 手を叩いて。腹を抱えて。涙を流しながら老体は笑う。そこまで笑うか、と問いたくなるほど笑う。


「はははは! こりゃ傑作だ!!」


 笑う。笑う。笑う。こちらはクスリとも笑えない。

 そんな中でも無遠慮に。なんの配慮もせずに笑っていた。


「ははは──お前これ笑うとこだぞ」



 ──刺さった。確実に背中に何かが刺さった。背骨を断ち切られ、首も縦に断ち切られ、頭蓋を左右に半分に叩き割られる。


「か……」


 ──事実とは異なる。エンテイは何もしていない。ただ提案しただけ。『笑った方がいいよ』と。『笑った方が楽しいよ』と。

 その提案がクインの恐怖心を殴りつけたのだ。今までに感じたことの無いレベルの『殺意』をクインはその身に受けた。


「す、すみま、あははは!」


 笑う。拒否できない提案を受け入れて笑う。笑えているのか。今のクインには分からない。



「変な笑い方だなぁ。親から笑い方を指摘されなかったのか?」


「あ……」


「さっきの発言を取り消したくなるぞ」


 間違えたのか。選択肢を間違えたのか。嫌な汗は出し切ってしまった。悪寒と乾いた汗で真冬のように寒い。


「──って。話が逸れた。君とお喋りしてると話がよく逸れるな」


 批判……されたのか。指摘……されたのか。謝るのか。謝るべきなのか。


「す……すみません」


 ──結果は不正解。エンテイの顔が険しくなるのが、見なくても分かった。


「君。なんでも謝ればいい、って訳じゃないんだぞ」


「ごめんなさ、あ、違っ、あ──」


「──もういい。話を続けよう」



 爪先がコンクリートを叩く。奥歯も前歯も動きが止まってくれない。

 不機嫌にしてしまった。エンテイが不機嫌になる──これが意味することはつまり、『死』が一歩近づいたということ。


 これまでの人生で『死』など感じたことの無いクインにとって、相手に生殺与奪の権を握られているというのは、多大なストレスとなっていた。


「どこまで話たっけ……思い出した。世の中物騒って話だったな」


 声色は先程と変わらない。──それが怖い。この男なら、声色どころか、顔色一つ変えずに人を殺せるはずだからだ。


「そんな物騒な世の中で必要なのは『安心』だ。スーツ、拠点、護身用の武器。これらに共通するものとしては金だ」

「金って凄いよな。これ一つでなんでもできる。なんでも買える。愛も友情も安心も。──君なら分かってるんじゃないか?」


 エンテイの言う通りだ。クインはそのことを知っている。身をもって体感している。金で全てを手に入れた。愛も友情も安心も。

 だが──この状況に『安心』などあろうか。あるはずがないであろう。

 自尊心は粉々にされ。信じていた金にすら裏切られ。クインはどんな気持ちなのだろうか。


「俺も色々と規格外だが、金はやっぱり必要だ。──そこでだ。君に頼みたいんだよ。お金を提供してくれないか?」




 ──金。裏社会の帝王ならば幾らでも持っているであろう金を。エンテイは要求してきたのだ。

 その程度でこのような地獄の状況から抜け出せるのなら、全財産だって投げ捨てられる。


「わ、分かりました。その……どれくらい出せば」


「全部だ」


「……全部?」


 ──本当に全財産を出す、となると話は変わってくる。さっきの考えは比喩だ。金は余るほどあるが、無くなると困る。生活できなくなる。

 だいたい初めて出会って数分の男にポンと全財産をあげられるわけがない。拒否しなくては。「嫌だ」と言わなくては──。


「分かりました……」


 ……言えるはずもなく。クインは了承せざるおえなかった。


 この男に交渉は通じない。なぜなら妥協も譲歩も一切しないからだ。絶対に自分の思い通りにする。そしてそれができる力を持っている。

 警団連に言ったところで無意味。「お引き取りください」と言われるのがオチだ。


「うん。やはり言葉を取り消すのはやめにしよう。君のご両親はしっかりと君に愛情を向けて育てたようだ」


 お世辞など慰めにも賛美にもならない。渡さずにバックれる……それができたら、この男は裏社会の帝王になぞなっていないだろう。


 なんで自分がこんな目に。どうしてこんなことになっているのだ。

 どこで間違えた。ここへ来た時か。手紙を受け取った時か。父親の言うことを聞かなかった時か。もしや──生まれてきたことそのものか。


 普通なら考えもしないネガティブな言葉が脳内で駆け回る。


「じゃあどうしようか。現金も捨てがたいが……そうだな。やはり電子マネーだ。明日……別に今日でもいいぞ。持ってきてくれ」


 ──これを翻訳するなら『今すぐさっさと持ってこい』だ。なんたる傲慢。だが否定などできようはずもない。


「……」


 だがこれで……この重圧から解放される。金は稼ごうと思えば稼げる。ただ貧乏生活がしばらく続くだけだ。しかし命は一つ。無くせば消える。この男にかかれば、生きていた証すら跡形もなく消しされるだろう。


「……はい」


「じゃあもう行っていいぞ」


 言葉に従い立ち上がる。痺れた脚を無理やり動かして出口へと歩いた。

 自分を簡単に殺せる人間に背を向けるというのは、なんとも生きた心地がしない。だがもうすぐだ。もうすぐで解放される。この地獄から──。




「──あ、少し待て」


 ──現世への扉は、クインを前にして離れていった。


「な、なにか……?」


「……つまらん」


 ……。何を言っているのか分からなかった。「つまらん」と言ったのか。他人の全財産を手に入れようとしている男が。


「つま……らない?」


「そうだ。このまま手に入れるのもいいが、それだとつまらん」

「俺を前にするとな、ほとんどの人間が萎縮するんだよ。従順になるんだ。ほら、俺って圧が強いからさ。そうなるとなんの苦労もなく金なんて手に入っちゃうんだよ」


 怒り……は湧いてこない。あるのは恐怖だけ。まだ何がするのか。これから何を言う気なのか──という恐怖だけだ。


「ダメだよなぁそんなの。苦労ってのは適度に必要なんだ。ストレスだって全く無いと体に悪影響を及ぼすだろ。だから俺も苦労をしておきたい。後で『あれは大変だったなぁ』とか『あん時はあぶなかった』とか言える金の稼ぎ方をしたいわけよ」


「は、はぁ……」


「だからさ、ゲームをしよう」


 そう言うと、ヴィンクルムがエンテイにある物を手渡した。──それは銀色のコインであった。



「ルールは簡単。それでいて単純明快のコイントス。俺が投げるから、君は表か裏かを当てるんだ」


 コイントス。確かに簡単だ。確かに単純明快だ。こんな状況で、こんな相手じゃなかったら「バカバカしい」の一言で片付けられるくらいシンプルなゲームだ。

 だからこそ絶望感がある。気まぐれに起こしたなんて事ないゲーム。その勝敗でこれからの運命が決まってしまうのだ。


「当てられたら金は要らないや。俺の負けだし。ただし……君が外したら。金ともうひとつ。大事な物を貰おうか」


「大事な物……?」


「──可愛い妹さんが居たよね。君」




 天上において。天下において。我ほど尊い者はいない。実際には『天上天下唯我独尊』は違う意味らしいが、クインはその言葉を座右の銘として生きてきた。

 それは家族においても変わらない。父親、母親、親戚。そして──妹であっても。


 だが『愛おしさ』だけは違う。『愛らしさ』だけは例外。この世でたった一人。クインが心の底から愛するのは妹だけだ。


 クイン程じゃないにしろ頭が良く。

 クイン程じゃないにしろ顔が良く。

 クイン程じゃないにしろ体も良く。


 運動もできて。勉強もできて。才能もある。そして何より可愛い。

 クインが自分の命よりも大切だと唯一思っている人間が妹なのだ。天上天下唯我独尊の自分であっても、妹だけは守る。妹だけは助けると。そう昔に決めたのだ──。




「欲しいんだよねぇ……最近は『小屋』の中身が減ってきたからさ。そろそろ補充したいんだよ」


 この男の一声で。妹は連れていかれる。その先はクインにも分からないが、少なくとも幸せにはなれない。絶対に。確実に。


「あ……ぁあ……」


 妹だけは守らなくては。しかしどうする。戦っても確実に負ける。全財産を出したとしても意味がない。

 どうやったら妹を守れるのか──その答えは既にエンテイが出していた。


「どうする? やるもやらないも君の自由だけど」


「──やらせてください」


 ──このコイントスに勝利する。それがクインにできる『妹を守るための行動』だ。



「いいな。そういうの大好きだ。それじゃあ──どっちにする?」


「……」


 命が決まる。幸福が決まる。妹の、そして自分の人生が決まる。


「──表で」


「よし。それじゃあ早速やるとしようか」


 コインを親指に乗せて。──弾く。


 クルクルと。表と裏を見せながら空中を転蛇する。灰色の周りとコインの色が重なり、数瞬の間コインを見失ってしまった。

 クルクルと。一回転する度に時間がスローになってくる。死の間際は時間が遅く感じると言うが、その現象だろうか。

 クルクルと。コインが頂点まで達し、自由落下を開始する。速度はどんどん増していき。コインはエンテイの手の中へと堕ちていく──。


 ──パン。と、乾いた音と同時にコインはエンテイの手に覆われた。


「緊張の瞬間。ってやつだな」


 軽口なんて聞こえない。今はただ。コインの表裏が知りたい。


 クインの真剣さに応えるように、エンテイはゆっくりと手を上げていく。コインの光が反射し、中から現れたのは──。




 『百』と記された光り輝く面。これはつまり――。


「やった……表だ……表だ──!!」


 勝った。あのエンテイに勝った。完全勝利だ。金も失わず、妹も失わなかった。やはり自分は神に愛されているのだ──。




「──残念。裏だな」




 ……裏? クインの思考が停止する。


「君は当てられなかった。残念だったな……金も妹も。全部失うことになる」


「は……え、な、なんで!? これっ、表っ……!?」


「ん? 君……何を勘違いしてるんだ?」


「え……なにを──」


「──俺は一言もどちらが表かなんて言ってない」


「……へ」


 言っていない。エンテイは言ってない。確かに言ってない。それは事実だ。否定しようもない。

 ──だからといって、そんな屁理屈がまかり通るか。通るわけなんてない。


「ふ、ふざけ……そんなことが許されると……!?」


「許される。俺だからだ」


 なんてふざけた理由だ。しかしそんな理由を通してしまうのがエンテイという男。


「あ──あぁ……」


「男なんだから言い訳なんてするなよ。約束は約束だ。全財産と妹は貰う。できれば今日、さっさと持ってきてくれると嬉しいんだが?」


 優しさに似た脅しを受け、クインは絶望する。視界が暗闇になって思考も何もかもがぐちゃぐちゃになる。

 絶望的な恐怖の中で──クインはしてはいけないことをしてしまった。




 それは──逃亡だ。悪魔に背を向け、地獄から駆け出し、現世への扉へと走り向かう。

 このままなら確実に終わる。だが逃げれば。万に一つでも可能性ならあるはずだ。

 さっさと逃げて妹と家族を連れ出す。自家用ジェットを使えば海外に逃げられる。見つからない、とまでは行かなくとも、対策を考える時間くらいはできるはずだ。

 その後は軍隊にでも行こう。アメリカ軍ならエンテイも簡単には手を出せないは──。



「ぁ──」


 重力が何倍にでもなったかのように体が地面へ墜落。


「あ……あ──?」


 痛みがする。脳髄に直接電撃を流し込まれているような。


「あが──ああああぁああぁああああ!!??」


 脚がない。膝から下が無くなっている。綺麗な切断面の脚はクインの真横に力なく横たわっていた。

 赤黒い血が止まることなく流れ続ける。痛みを耐えようとして奥歯を噛み締めるが、ギシギシとした不快な感覚と共に砕ける音がした。




「……残念が二つ目。ここへ来て悪手しか打ってないよな。君は」


 痛い。無くなった脚が痛い。痛い。脚の中で生体電気が暴れ狂っている。

 怖い。この後が怖い。痛みによって動けない今、逃げようとした自分を確実にエンテイは殺しにくる。それが怖い。


「どうなさいますか?」


「そうだな……小屋に入れろ。プライドがへし折れるところを見るのは楽しいぞ」


「お金と妹の方は?」


「持ってこい。財産になるようなものは全部だ。ご両親には……適当に住む場所を用意してやれ。今の仕事も辞めさせて、違う仕事を紹介してあげろ」

「妹は……クイン君と同じ小屋だな。自分よりも大切な妹が目の前で陵辱され、拷問され、辱められる。これ以上の嫌なことはないだろうな」


 蜃気楼のように消えゆく意識。襟首を掴まれて引きずられる。──クインが最後に見たのは、悪辣なるエンテイの顔であった。




「──本当に。お人が悪いんですから」


 静かになった部屋で。オブスキュラはエンテイに寄りかかる。


「本当はお金なんて要らないでしょう?」


「まぁそうだな。やろうと思えば日本銀行を襲って金を全部持ってくことだってできるし」


「それじゃあなんであんなことを?」


「……お前なら分かってるだろう?」


「ふふふ……分かっておりますわ。貴方のことなら」


 老腕はオブスキュラの女体を淫猥にまさぐる。なぞる箇所が下へ下へと落ちるにつれて、その顔に恍惚としたものが浮かんできた。


「体調はどうだ? 痛いとことかないか?」


「少し頭が……ですが問題などありません。貴方が私に触れてくれるなら」


「それなら触り甲斐があるな」


 巨大な大胸筋に顔を押し付ける。トラックのエンジンのような。とても大きく、とても雄大な音がオブスキュラを安心させる。包み込む。

 エンテイに漂う血の匂いを鼻腔に溜め込みながら、オブスキュラは感度をあげていく。


「私なんかの体調を気遣ってくださり、ありがとうございます……」


「大切なんだよ。お前のことも。これからのことも」


「これからのこと……?」


 エンテイの首筋をなぞりながら問いかける。


「俺も年老いた。長くはない。だから昔からやろうと思っていたことを実行に移そうと思ってな」


「何をやるのですか? 私はどこまでもお供しますよ」


「あぁ……頼りにしてる」


 オブスキュラの接触に腰を撫でて返しながら──老獪は答えた。


「──そろそろ裏社会の帝王も飽きた。この日本を支配させてもらうとしようか」

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