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第59話『天賦の才を持つ者の極地』

 ──外れた。


「──え?」


 外れた。というより外された。

 眼前まで迫っていたはずの鞭先があらぬ方向へと道筋を変えたのだ。

 鞭が「人を傷つけたくない!」なんて急に心変わりでもしたのか──なわきゃない。

 つまり軌道が変わったのはマザーの手元が狂ったか、もしくは──。


 一発外したならもう一発。仕切り直して音速を超えた鞭で迅鋭を叩く──。

 ──また外れた。また軌道が変わった。今度は確実に当てる気だった。手元だって狂っていない。


「……な、にを」


 だったら可能性は一つしかなくなった。──幻水迅鋭が何かをしたのだ。


「何を──か。儂はただ弾いただけじゃ」


「弾く……!? ア、アタシの鞭をかい!?」


「それ以外に何がある」


 血に染った顔が不気味に笑う。それがあまりにも恐ろしく、マザーの頬に冷たい汗が伝った。


「さっきまで……最高速度の鞭はさっきまで見切れてなかったはずだよ!? それがなんで急に……い、いや、そもそもどうやって──」


「──勘が戻った、とでも言おうかの」


「勘……!?」


「まぁ兄弟子の言葉が移ってそう読んでるだけで、この時代じゃ違う言葉になっとるのかもな」


「な、何を言って……るの?」


「説明が難しいんじゃよなぁ。これは」


 一定のリズムでこめかみを叩く。どう説明したものか。この怪奇現象とも言える事柄をどう説明するのか。マザーにとっても気になる内容だ。



「──人は例外なく、動く直前に信号を放つ」


 ──静まり返ったリングの中で。迅鋭は言葉を出し始める。ポツポツと。分かりやすいように言葉を選びながら。


「人は頭から発せられた信号を受けてから動くからの。つまるところ──信号が放って動き出すまでの間は無防備となる」

「時間はまばたき程度のごく短いものじゃが、もしもそのタイミングで相手を攻撃できたら。相手が動く前に倒すことができる」


 理論上は。そんな言葉が枕詞につくほど、迅鋭の言ってることはバカバカしいとも言える内容だった。

 だが──その言葉を言っているのは他でもない迅鋭自身だ。音速に到達したマザーの一撃を見切った迅鋭の言葉なのだ。

 これが多少武術の経験のある者くらいなら信じられない話だろう。しかし。この幻水迅鋭という男が話すなら。誰も疑うことなどできやしない。


「これを習得するのは随分と精神を病んだぞ。なにせ命の危機くらいでないと全然育ってくれんからな。最悪な思い出ばかりの幕末の動乱期でも、これを授けてくれたことにだけは感謝しとる」


 痛みなど消えたように。迅鋭は嬉々として話をしている。それほど戻ったのが嬉しいのだろう。


「じゃがしばらくは鍛錬すらも離れておったからの。こっちに来て鈍りに鈍っていたから戻すまでが大変じゃったわ。やはり時間が空くと勘が鈍ってしまう」


「……さっきから。なんの話をしてるの?」


「お主が聞きたいと言ったんじゃろ。まぁ話が脱線しすぎたのは事実じゃな。それじゃあ種を明かすとしようかの」


 ──こめかみを人差し指でトントンと叩いた。


「──幻水流奥義『先の点』。分かりやすく言うと擬似的な未来予知じゃ」




 幻水流の奥義が一つ。名を『先の点』という。

 説明は迅鋭がした通り。相手が行動を始める信号を感知し、相手が動く前に動く。先読みの極地とも言える技だ。


 敵自身のよりも早く本人の意志を感じられたのなら──攻撃を捌くことなど容易である。特に命のかかった場面では一手の違いがそのまま生存率へと直結する。

 そのような状況で後手に回るなど言語道断。防御に回るなど悪手の極み。必要となってくるのは相手よりも速く動く技術だ。


 熾烈を極めた『戊辰戦争』では上下左右、後ろからも攻撃がやってくる。防御や回避に頼っていては生き残ることなどできやしない。

 だからこそ進化が必要だった。生き残るための進化。相手よりも先に動く。行動するよりも。相手が動くよりも早くに──。




「相手の意志を感じられればどんな攻撃をしようとしてくるかも自然と理解できてくる。ちょくちょく戻りかけてはいたが、完璧に戻ったのはお主のおかげじゃ」


「アタシのおかげ……?」


 汗を垂らしながらキョトンとした顔で迅鋭を眺めるマザー。


「先の点を戻すには強者と命を賭けた戦いをするのが手っ取り早い。人は死を避けるためなら限界をいくらでも越えられる生き物じゃ。儂もこの目で何度も見てきた。前まで持っていたものを取り返すことなど造作もない」


 平然と言い放つ迅鋭にマザーは焦りと恐怖を覚えていた。

 迅鋭の言っていることが本当なら、もはや勝負に勝ち目がない。どんな攻撃をしたとしても全て予知されるのだから。

 だがもっと問題となること──迅鋭の言葉が全て正しいのなら、迅鋭はとてつもない修羅場をくぐってきていることになる。それもマザーでは想像もできないような地獄のような修羅場を

 そんな相手と戦っている。──今まで人間として見えていたはずの迅鋭の姿が、『剣を持つ鬼』に変化したかのように見えた。



「それでじゃ。お主のおかげで勘が戻ってくれた。そのお礼を二つほど用意してやろう」


 そう言うと迅鋭は刀を持った手を前に突き出した。


「技を一つを見せてやる。──ほれ、もう鞭を振るってみよ」


「……は?」


 挑発とも取れる──否、挑発だ。悪い感情が渦巻いていた脳内だったが、迅鋭の言葉により『怒り』の感情が浸透していく。


「今度は見えるくらいに速度を落としてやる」


「──調子に、乗るな!!!」


 怒りに任せた一撃。先端を後方へ流し、轟音を引き連れながら迅鋭に向けて振り下ろす──。




 ──マザーの目に。信じられないものが映った。


 迅鋭の体に一瞬、ほんの一瞬だけ布が現れたのだ。半透明の薄い膜のようなもの。それはまるで天女が纏う羽衣のようで──。

 その膜は迅鋭の体を土星の周りに舞う円盤のように佇み──鞭を弾いて消えていった。


「……」


 何が起きたのか。分からない。そんな顔をしている。


「これも幻水流が奥義の一つ『羽衣』じゃ。習得の難易度で言うと、おそらくは幻水流の中でも一番難しいじゃろうな」




 幻水流奥義の一つである『羽衣』。

 これは刀を握らずに挟むことによって可能とした幻水流奥義『鏡面の波』を習得した者が使える絶対防御技である。


 物体というのはその速度が速ければ速いほど側面からの衝撃にめっぽう弱くなる。

 例えを出すとしたら銃弾だ。銃弾を相手の胴体に放ったとしても、そのまま直進して貫通するわけじゃない。柔らかい内蔵で跳弾し、あらぬ方向から飛び出してくる。

 それほどまでに速い物体は側面からの攻撃に弱いのだ。


 『羽衣』はそれを利用した技。神速の剣技で相手の攻撃の側面を叩く。やってくるはずだった攻撃は横へと逸れ、見事外れる。

 もちろん神業ともいえることだ。反射神経に優れた人物でも確実に防ぐのは難しい。──そこで出てくるのが『先の点』だ。

 『先の点』が使える者ならば攻撃を予知することができ、ほとんど確実に相手の攻撃を逸らせることが可能となる。

 『鏡面の波』と『先の点』が使えることが前提となる技。幻水流の中でも習得するのは最難関とも言えるが、その分会得した時のリターンは大きい。


 速いほど効力が上がる『羽衣』にとって、マッハの速度を持つマザーの鞭は格好の獲物。『先の点』で未来が見えていれば、弾くことなど容易いことなのだ。




 ──マザーの表情は一転。また焦りと恐怖が顔を覗かせ始める。


「さてと――もう一つのお礼といこうか」


 ──刀を鞘に収めながら、鞘を腰から外す。


「自分の娘を殺そうとしたことは許してなどおらん。それは何をしようと揺るがない」


 鞘と柄を手に取り──体を縮こませる。片足は体を支え、片足は大地を踏みしめる。


「じゃが──その強さには敬意を表そう」

「儂は昔の経験から人を殺すのは避けておる。せいぜい殺すのは『儂から見た悪人』か『殺さねば殺される時』なのじゃが──今回はそのどちらでもない」


 踏みしめる脚からは血が未だに吹き出ている。よく見ると青白い神経までもが隙間から確認できる。神経を空気に晒す痛さなど考えたくも無いはずだ。

 それでも痛みを顔に出すことなく。言葉すら詰まる様子もなく。迅鋭は喋り続ける。


「その強さを手に入れるために研鑽を積んだのじゃろう。そしてこの場所の頂点としての誇りもあるのじゃろう。それでも儂は『生きろ』と言ってやりたいが──今回だけはそれを無視する」


 その構えはあまりにも独特。どうやって攻撃してくるか不明。──だがどんな攻撃なのかは分かる。

 納刀状態から放たれる一閃であり、剣術の中でも特に有名な技術。──居合切り、抜刀術である。


「──構えろ。これにて終幕とするぞ」

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