第47話『少女の終わりは穏やかに』
──同時期の控え室では、みんな仲良く固まって迅鋭の戦いを見ていた。
男衆はペットボトルや丸めた雑誌を持って迅鋭の応援をしている。野球観戦をしているかのようだ。
そしてイヴ。普段では考えられないほど心配そうな表情でテレビを見つめていた。
「……心配ですね」
様子を見たユダがイヴの隣に座った。
「べ、別に。心配じゃないし」
「強がっちゃダメですよ姉御!」
「強がってないもん……」
「心配するのはいいことです。今は劣勢そうですし」
イヴの心配は間違いではない。誰がどう見ても劣勢なのは迅鋭。頭部からの出血、あの膝蹴りで肋骨も一本はやられただろう。
ここからどう巻き返すのか。コアンの精神状態からして、迅鋭を殺すのは確実。何か策でもあるのだろうか。
「……だ、だいっ、大丈夫。あいつは……あいつは強いから。私ほどじゃないけど」
「素直じゃないですね」
「うるさい」
なんてことを言いながらも、イヴの顔には依然として『心配』の文字が張り付いていたのであった。
──先手はコアン。さっきよりも数段早い攻撃を繰り出す。
それを弾いて、いなして、躱す。目で追いつけないなら頭で。頭で追いつけないなら体で。経験を積んだ肉体は反射的に行動の最適解を選んでいた。
「っ──ぐっ──!」
防ぐ。防──ぐ。徐々に。徐々に防ぐ回数が減っている。
防いでカウンター。躱して反撃。いなして切り返し。防戦一方と思われた打ち合いは、コアン本人も知らないうちに攻守逆転していた。
「な、なんで……!?」
方や十四の小娘。片や七十二にもなる侍。戦闘経験の差など考えるまでもない。
相手がするであろう行動──その場所に刀を振るう。攻撃をやめるしか防ぐ手立てなどない。
手首から如意棒を射出──また避けられた。
踏み込んで次へ。肋骨に向けて棒を──叩く前に迅鋭が動いた。肩を掴んで体を引っ張り、コアンの背中を叩く。
「っ!? ぐぅ……!!」
打撃はさほど痛くもない。だが──今のが刃だったら。ダメージはそんな程度じゃすまなかった。
──そんなの許せない。逆上したコアンは迅鋭の首筋に如意棒を振り下ろした。
──手首を掴んだ。
何度も言うがパワーはコアンの方が上。どう足掻いてもそれは変わらない。ならば手首を掴んだところで攻撃を止めることなどできないはずだ。それを分かってるはずだ。
分かってる。もちろんだ。分かってて手を出したのだ。
「──え?」
──コアンの視界が百八十度回転。天井が床に。床が天井に切り替わる。
は。何を喰らった。何をされた。頭の中が混乱する。いつもと違う重力が脳で暴れ回る。
何をしたのか。されたのか──それが分かるまでに数コンマ。自らの手首を見て理解した。
合気だ。振り下ろしを受け止めながら足払い。相手の力を操作して体を回転させる。
普通ならできるはずがない。だがコアンのパワーはスーツを着て増幅されている。合気とは相手の力を利用する技。なら力の強いコアンなら効力もその分大きくなる。
──しかし迅鋭の技術はそれを加味しても神がかり的。その事実を覆すことなどできない──。
──顔面に衝撃。コアンは吹っ飛ばされた。
「ぶ、バ──!?」
水色の床がコアンの血で汚れる。混乱が脳で錯綜する。
鼻血……何をされた。冷たいのか温かいのか分からない。だが血が流れると不思議と冷静になった。
喰らったのは打撃。鼻の痛みからしてそれは確実。だが迅鋭の片手は刀で塞がっており、もう片方の手もコアンの手首を掴んでいた。
じゃあ喰らったのは──気がつくのはそう遅くはなかった。
「負けそうになったから本気を出す……と言うとかっこ悪いか。じゃが儂だってプライドはある。実力を見誤れるのは我慢ならん」
「まぁ十四の小娘にそんなことを言っても、やはりかっこ悪いがな」
かっこ悪い。腹が立つほどかっこ悪い。だが──今コアンはそんな男に負けている。
背中を刃で斬られていたら。今の攻撃だって峰打ちじゃなく刃だったら。死んでいたのはコアンだ。
「……降参はせぬか」
──降参。してしまえば楽になる。痛みからも。恐怖からも。解放される。
「私は……私は──」
なんのために戦っていたのか。
──コアンが覚えている最初の記憶は、土の味であった。
苦くて、臭くて、不味い。吐き出しそうになるほどの嫌悪感。だが食べなければ死んでしまう。吐きそうになるのを我慢しながら必死に飲み込んだ。──あの感覚は今でも鮮明に思い出せる。
生まれてから一度もコアンは母に抱きしめられなかった。乳すら与えられず。食べ物は自分で採らされる。
何度か山の中に放置された。『一週間は生き延びろ』という命令を受けて。
どこかも知らない山の中。泣いて、泣き喚いて。命からがら母の元てたどり着いた──それを母は許さなかった。
何度も。何度も殴られて。また山の中へ放置される。命令は絶対。破れば次は本気で殺される──。
だから生きた。必死に生き延びた。一週間を終えた時は初めて『生きている』という実感が湧いたものだ。
──しばらくして母に連れてこられたのはこの場所だ。
初めての実践。蛇や野犬ではなく人間との戦い。怖かった。動物とは違う怖さを感じた。
最初の試合──これは勝った。というか勝たせてくれた。相手の男は見た目に反して、子供を嬲る趣味がなかったらしく、手加減してわざと負けてくれた。
だけど──その男は母に殺された。
「戦いの場で手加減するような男なんて死んだ方がマシだからね」
それからは敗北と死の恐怖に耐えながら戦った。
不思議なことに人はどんな状況にも慣れてしまうようで。最初はあれだけ怖かった試合も、今や心拍数すら上がらなくなった。
母に対して憎悪は湧かない。嫌悪も湧かない。だけど憧れもしない。
──ただ愛されたかった。あの人に愛されたい。認められたい。その手で優しく触れてほしい。
そのために。そのために戦っている。金なんか要らない。使い方すらほとんど分からないものに興味なんてない。
だからこんなところで──挫けてなどいられるか。
「──戦う。降参は死んでもしない」
如意棒を前に。未だ消えない闘志を目に宿して。眼前に立つ迅鋭を目に収める。
「そうか」
──刀を地面に突き刺し。前へと向ける。刃は自分の方へ。峰打ちにする気なのは変わらない。
「誰にされたのかは知らん。矯正するには時間がかかる。──今はその歪んだ精神性を認め、一人の武士として決着をつけてやろう」
如意棒を構えた。両手に持つ二刀流。片手は下段の攻撃を防ぐため。片手は相手を攻撃するために。
先手を取られようと、後手に回られようと。この構えならどちらに動いても攻撃を防げる。
静止する均衡。心臓が止まるほどの拮抗。固定。始まりの合図は彼らにしか存在せず。誰にも分からないまま最後の攻防が始まった──。
──僅かにコアンが早く動いた。これなら攻撃はコアンの方が先に到達する。
狙いは脳天一択。ここで幻水迅鋭を下し。『戦の母』──母親に到達する──。
「──え?」
──跳んだ。
迅鋭は上──もっと言うなら斜め上に跳んだのだ。
下段は封じられてる。だが構えを解けばそこを狙われる。だから下段の攻撃はせざるを得なかった。
──ならばどうするか。上段に移動すれば良いのだ。
下をガードされているなら上にジャンプする。単純なことだ。そうすれば空いている顔面に技を放つことができる──。
峰を蹴って威力をあげる『逆滝流れ』。本来は地面でおこなう技を空中で出した。
如意棒は空振り──同時に迅鋭の刀がコアンの顎へと衝突。全身を使って刀を振り抜いた。
「──」
勝敗を分けた理由は実力と経験の差──だけでない。
コアンは迅鋭の煽りによって精神が安定していなかった。もっと冷静なら。勝てないまでも、もっと戦えていたはずだ。
だがそれを言うならもっと前。迅鋭がダウンしている時に攻撃できていたら──それができなかったのには理由がある。
痛いから気が逸れていたのではない。怖かったのだ。迅鋭のことが。
痛い怖さじゃなく。
野生の怖さじゃなく。
母親の怖さでもなく。
コアンが味わったことのない。もっと恐ろしい物を迅鋭から感じたのだ──。
まぁそれも終わったこと。とにかくこの戦いは決着。たらればを語るのは無粋だろう──。




