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第16話『爪を研ぐ猫と牙を磨く狼』

 気を取り直して。男が向かった先は大往町(だいおうちょう)の中でも一際大きな廃ビルであった。

 外装はほとんど()がれ落ち、中も爆発したのかと思うほど荒れ果てている。よくある落書きなんかも壁いっぱいに描かれていた。結構上手(じょうず)なのが腹が立つ。


 近くに落ちている看板を見るに、ここは元々ホテルだったようだ。火事でもあったのか。それとも建設途中で投げ出されたか。あるいはアスナロとツクヨミの戦いに巻き込まれたか。


「もったいねぇな……」


 そう呟きながら男は中へと入っていった。



 壊れかけの床。壊れかけの扉。壊れかけの壁に。壊れかけの階段。ヒビなんかは無い場所を探す方が難しい。それほど中はボロボロだ。

 だが広さはある。なのでホームレスの溜まり場としては最適。ここにも死にかけのホームレスたちが焚き火を囲んで座っていた。手にはカップの酒を握っている。


「よっ、爺さん昼間っからビールか?」


「違ぇよ。スープ飲んでんだ」


 溜まり場に嬉々として近づく男。ホームレスたちが飲んでいる液体を覗き込んでみる。

 透明の液体。そこに浮かんでいるのはピンクのブヨブヨとした物体。なんだろうか。肉……というより内蔵のようにも見える。


「これなんだ?」


「俺ら特性のミートスープ。野犬の内蔵を煮込んで作ったんだ。お前も飲む──って、飲まねぇか。口に合わんだろうし」


「……いや、くれるなら貰うわ」


 カップを手に取った男は一口でスープを飲み干した。──見事なマズさ。生臭い。それでいて味などしない。これを美味しそうに飲んでいるホームレスたちは味覚が死んでいるのだろうか。


「……まじぃな」


「おいおい。貴重なスープをあげたってのに感想はそれかよ」


「ん、感謝はしてるさ。感謝は大事だからな。だって感謝しないと相手に意思が伝わらないだろ? テレパシーなんて言葉は昔からあるが、今の技術でもそんなことはできないし、やっぱり口に出す方が──」


「──もういいもういい。来た理由はあれだろ?」


 男の話を遮って指を上へ向ける。


「そうだ。今いるか?」


「おう。多分な」


「感謝する。これは謝礼だ」


 ──さっきの時と同じように札束をホームレスたちの前に放り捨てた。


「……兄ちゃん。底抜けの馬鹿だな。こんなことしちゃ、俺たち付け上がっちゃうぜ?」


「堕ちるのはアンタたちだ。俺は知らない」


「かー厳しいこった! ……じゃあありがたく貰っとくぜ」


「おう。もし恩返しするなら、三倍で頼む」


「二倍で勘弁してくれ」



 寄り道も程々に。男の目的となる場所までたどり着いた。ここに来るまではホームレスがうじゃうじゃと居たのだが──今は一人を除いて誰もいない。

 だだっ広い部屋の中央に座る男へ肩を揺らしながら歩いていく。


「──あんたが依頼人のハクだな」


「ご名答。花丸あげちゃう」


 ハクは男の前で立ち止まった。


「そういうお前は──『白狼のアルク』だな」


「見た目で分かるだろ?」


「そりゃそうか」


 ──アルクの姿は通り名そのままであった。頭に生える白い耳。尾てい骨から生える白い尾。人間の体に狼の耳と尻尾をつけたような姿だった。

 それだけなら可愛いものだが、残念ながら威圧感が凄まじくある。その理由が『見た目』だ。

 筋骨隆々。まさにその言葉が似合う。百九十に達するであろう身長。百は超えているであろう体重。もちろん脂肪じゃない。仁王像のような筋肉が服を張り裂けんばかりに膨らませていた。

 そんな体に犬耳と犬尻尾がついたところでホンワカするわけが無い。追い打ちをかけるように顔も死ぬほど怖いし。


陰陽姉弟(いんやんきょうだい)の片割れ……なるほど。俺も思わず汗を流してしまったぞ」


 懐からこれまた高そうなハンカチを見せつけるように出して冷や汗を拭き取る。


「だが……それでこそ信頼できる」


「そうか。こっちが信頼するかは別の話だがな」


 ――アルクの前にある木箱に札束を叩きつけた。今まで出てきた金額と違う。二倍、三倍も厚さがあった。


「お前には家の警護をしてもらいたい」


「あ? 警護?」


「《《とある奴ら》》が近々刺客を送り込んでくる。まぁ可能性って話なんだが念には念をだ。おそらく普通のやつらじゃ対応できない。お前くらいの実力が欲しいんだ」


「照れるじゃねぇか――んで、報酬はそれか」


「違うな。これは前金だ」


 アルクは木箱の上の札束を一枚一枚数え始めた。


「五百はある。殺せば倍だ」


「ダメだ。最低七百といこう」


「じゃあ千だ。殺せば倍の二千万。どうだ?」


「……太っ腹だな。最低七百なのに、そんなに出していいのか?」


「こんだけ出せばお前だってやる気くらい出るだろ?」


「……いいじゃねぇか、最高だなお前。乗ってやる」



 肩の荷が降りたのか、ダランと力を抜くハク。そんなハクを横目にアルクはポケットから葉巻を取り出した。


「……それいくらだ?」


「五十万。一本でな」


 葉巻を咥えて火をつける。──灰色の煙。至福の悪煙(あくえん)。あまりの美味さに怖い顔の笑みが生まれる。


「お前なんでこの場所で暮らしてるんだ?」


「どこで暮らしたっていいだろ別に」


「お前。俺ほどじゃないにしろ、金はあるだろ。こんな場所じゃなく、もっと高級な場所に住めばいいのに。目黒とか赤坂とか」


「うーん……思い入れがあるからな。ここには」


「思い入れねぇ。俺には分かんねぇよ。俺は何者にも縛られねぇ男だからな」


「縛られないねぇ……羨ましいよ」


「その言い草だと《《何かに縛られてる》》みたいになるが」


「……実はその通りだ」


「は──?」


 ギシ。ギシと音がする。人か。というよりこれはまるでロボットのような──。


「あ、やっべ──」




 などと反応した時点で時すでに遅し。音の主は巨体のアルクへ飛びかかる。


「──こんの馬鹿アルク!!」


 ──子供だった。身長はアルクよりも圧倒的に下。高く見積っても百四十五くらいか。

 黒髪のセミロング。肌は褐色。幼さの残る顔。だがどこかアルクの面影もある。特に目元はそっくりだ。

 特徴はそれだけじゃない。──耳と尻尾だ。アルクと同じように獣の耳と尻尾を持っている。違うのは色、そして形がイヌ科のものではなく、猫のものであることだ。


「まーた葉巻なんて無駄遣いして! あれほど葉巻は買うなって言ったのにぃ!!」


 もうひとつ大きな特徴があった。──両手足だ。生身じゃない。小さい体には不釣り合いな重厚感のある手足。機械が歩くような音はこの少女の義手義足によるものであった。

 そんな手で引っかかれ、そんな足で蹴られるアルク。体格差は一目瞭然。いくら重そうな義手義足であるとはいえ、相手は吹くだけで吹っ飛びそうなものだ。

 しかしアルクは抵抗しない。されるがまま引っかかれ蹴られている。


「いてて、ごめ、ごめんって」


「もー許さない! アルクのお小遣いは減らすから! 百万から十万に格下げです!」


「はぁ!? ちょっ、それは勘弁してくれ!」


「もーだめ。聞き入れないもーん」


「そんなぁ」


 あんなにも威圧感のあったアルクがたった一人の少女に頭が上がらない。なんだか面白い光景だ。


「可愛い娘さんじゃないか。種類が違うのは母親の影響か?」


「いや……娘じゃなくてだな」


「え?」


 ──ヌッ、とハクの前に顔を出す。いつの間にか接近されていた。驚きで腰を抜かしてしまう。


「ふふふ……娘。いいねぇ娘って言葉! 私ってば、そんなに若く見える?」


「若くって……え?」


「……通り名。思い出してみろよ」


「え?陰陽姉弟(いんやんきょうだい)──」


 陰陽姉弟(いんやんきょうだい)。そう、姉弟である。つまり。この少女は──。


「──そう!私こそ陰陽姉弟(いんやんきょうだい)の片割れ!『黒猫のアイ』よ!」


 ──アルクの姉なのである。似てる似てない以前に身長差があまりにも違いすぎる。


「ま、マジか……何歳?」


「二十六歳だよー」


「そ、それでか……俺と二個しか違わねぇじゃねぇか……というより白狼! お前何歳だ!?」


「俺か?二十二だけど」


「お前はお前で若すぎねぇか!?」


「ははは。照れるな」


 同じポーズで照れている。──間違いない。この二人は正真正銘の姉弟だ。



「さてと──あなたがアルクの言ってた依頼人?」


「そうだが……大丈夫か?」


「強さのことを言ってるのか? 確かに見た目はこんなだが、場合によっては俺より強いぞ」


「見た目に惑わされちゃダメだよ♡」


「……はは、ま、金は払うんだ。きちっと仕事してくれよ。そしたらお墓くらいは豪勢にしてやる」


「まっかせなさい!」


 アイは不敵な笑みを見せた。


「──この陰陽姉弟(いんやんきょうだい)がきちっと仕事をこなしてみせるから」

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