ep7
——あれは、桜が満開の季節だった。
非番のリュウさんに「どこか連れてって」とせがむと、城山に連れて行ってくれた。
彼はTシャツに白シャツを羽織り、ラフなデニム姿。いつも見慣れた制服でも、スーツでもない。その姿に、思わず胸が高鳴った。
山の上の城を囲むように、桜が咲き乱れていた。天守閣と満開の桜。人々は写真を撮ったり、レジャーシートの上で賑やかに食事をしている。ニュースで流すのだろうか、テレビカメラも回っていた。
桜を見ながらしばらく歩いていたら、彼がふと足を止める。老木の足元に、花びらの絨毯が広がっていた。
「どうだ、少しは気分転換できたか」
あたしは、ただ頷く。
桜って、こんなに綺麗だったんだ。もしかすると、記憶をなくす前のあたしは桜を見たことがなかったのかもしれない。図鑑で知っているだけの名前。それが今、目の前にあって、風に揺れている。
「こんなに綺麗な桜、初めて。リュウさん、ありがとう。……大好きだよ」
風が吹き、花びらが宙を舞った。あたしの気持ちを、後押ししてくれている気がした。
「あのね。あたし、ずっとリュウさんのことが好きだった。でも言えなくて……。妹じゃなくて、恋人になりたい。だめかな」
勇気を振り絞って、告げた。リュウさんは一瞬、険しい顔をした。しまった、言わなければよかった。怖い。嫌われたかもしれない——そう思った瞬間。
彼の胸元に、引き寄せられた。
白いシャツに顔を埋める。リュウさんの匂いがする。
「俺も、お前が好きだ。レイラ」
耳元に響く、低くて静かな声。少し速い心音。温かくて、強い腕があたしを包む。その腕に、全てを委ね
た。
顔を上げると、彼の瞳があたしを見つめていた。鋭くて、真っ直ぐな視線。
「お前がどこの誰であろうと、俺はこの先、お前を離す気はない」
あたしは一度目を閉じて、もう一度しっかり彼を見つめ返す。
「リュウさん……」
「冷えてきた。そろそろ帰るぞ」
彼は身体を離し、歩き出す。あたしは慌てて追いかけて、彼の腕にしがみついた。
「もう少し、一緒にいたい」
「おい……」
リュウさんは少し困ったように眉を顰めた。
「あたし、リュウさんと一緒にいたい。お願い」
その想いを、しっかりと伝えた。
「……わかった」
——そしてあたしたちは、初めて本当の意味で、想いをひとつにした。
掃除を終えた頃、玄関のドアが静かに開いた。
二人が付き合っていることは、班のメンバーしか知らない。
エイジ班長があたしたちの微妙な空気に気がついて、リュウさんがいない時を見計らって聞いてきたのだ。
あたしの報告を聞いたアンは「だからそれは、インプリンティングだって。まぁ、レイラがいいなら何も言わないけどさぁ。リュウジって外見は良いけど、中身がアレだよ。きっと苦労するよ」と呆れ、トウリは「リュウジってロリコンだったんだ」と笑った。エイジ班長は「まぁ、対象者と色恋沙汰になるよりはいいだろう。ほどほどにしておけよ」とよく分からないアドバイスをくれた。
昔を思い出しながら掃除をしていると、玄関のチャイムが控えめに鳴った。ドアを開けると、黒い半袖Tシャツにデニム姿のリュウさんが無言で部屋に入って来た。
彼は6畳の和室に入ると、ローテーブルの前に座った。
「久しぶりだね。ここに来るの」
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、腰を下ろした彼に手渡す。
「ああ」
彼は感情を抑えた声で返し、缶を受け取ってプルタブを開けると、一気に喉へ流し込んだ。
「最近、忙しい? 庁内でぜんぜん見かけないから」
「まあな」
「制服姿のリュウさん、やっぱかっこいいよね。でも……その前髪、何も言われないの?」
黒くてさらりとした前髪が鋭い目元を隠している。手を伸ばしてその髪に触れた瞬間、頭にズキンと痛みが走った。
「大丈夫か?」
「ううん、ちょっと頭痛がしてて。最近ひどくてさ。疲れてるのかな」
頭の奥がじんじんと痛む。そんな私を見て、リュウさんがポケットから何かを取り出した。こぶしほどの
紙包みを手のひらに載せる。
「なに、これ?」
「お前にやる」
そう言って視線を逸らした。怪しげなものでも入ってるのかと、恐る恐る紙を開くと、中には青く光る美しい石が入っていた。
「わぁ、綺麗。あの日に見た空の色みたい」
「捜査中、露店で買わされた。ラピスラズリって言うらしい。気休め程度だが、強運を呼んで、頭痛にも効くらしい。お前に持たせたいと思って」
あのリュウさんが露店で? 神仏も信じない彼がそんなことを? 思わず吹き出した。想像するだけで可笑しい。
「言っておくが、これは瑠璃色。群青とは違うらしい。……持ち主が本当の意味で成長するための試練を与えるとか。越えなければならないものを教えてくれる……そういう石らしい。お前に必要だと思った」
ちょっとムッとしたような口調だった。
「そっか。あたしへの試練か。きっと……自分の正体と向き合うことだね。ありがと、大事にする」
石を見つめていると、リュウさんが真顔で顔を覗き込んだ。
「レイラ、本当に大丈夫だったのか?」
「何の話? ああ、高垣翔のこと? 平気だよ。あの人、ちょっと怪しいけど。でも……どうしてそんなに気にするの?」
今までも対象者に近づく任務はあった。色仕掛けはアンが得意だけど、私だって何度かやってきた。なのに、今回は何か違う。
「いや……嫌な予感がした」
彼は静かに呟き、ビールを飲み干した。
「ふふ、確かにアイツ、すごい女たらしだね。でも、あたしはああいう男は無理。何かあっても、自分のことは自分で守る。リュウさんも、知ってるでしょ? 私が誰を好きかなんて」
そう言って笑った瞬間、彼の腕が強く私を抱き寄せた。
「リュウさん?」
「俺は、惚れていいのか」
逞しい腕の中、耳元に落とされた声に、思わず頬が熱くなる。
「ズルいな、そんなの。あたしにはリュウさんしかいないのに」
私の言葉に、リュウさんの身体が僅かに震えた。
「……おい、煽んなよ」
掠れた声と、目と目が絡むように見つめ合う。自然に顔が近づき、静かに唇を重ねた。熱と吐息が絡まり
合い、甘い夜が静かに幕を開けた。