エピローグ
――そして、二年の歳月が流れた。
今、二人はある国の人里離れた山奥に、小さな小屋を構えて暮らしている。森の奥深く、外界とはほとんど接点を持たないその場所に、雪はないものの、冷たい空気がまだ肌を刺す。だが、今日だけは陽の光が差し込み、静けさの中に穏やかな時間が流れていた。
窓の外では、キツネが雪解けの湿地を跳ねていた。人の気配のないこの森の中で、レイラとリュウジは静かに、新しい命とともに、今日という日を積み重ねている。
小さなベッドから起き上がった娘が、ぽかんとした表情で二人を見つめていた。ふんわりとしたブラウンの髪に、くりくりした大きな瞳──その顔立ちは、亡き父親にどこか似ていた。
「もう、リュウさんが大きな音を立てるから、マリアが起きちゃったじゃない」
「悪かったな」
「お父さん、ママに怒られているの?」
目をこすりながら娘が問うと、リュウジはにやりと笑って答えた。
「ああ。ママは怖いからな」
「怒ってないわよ」
レイラは苦笑しながら娘の頭を優しく撫でた。
「お父さんは、とても素敵な人。怒るわけないでしょ?」
「ふうん……」
「ねえ、ママ。パパって、なんだったっけ?」
レイラの目がわずかに揺れる。
「あなたのパパはね、とても優しくて、勇敢だったの」
パパとは──ショウのことだ。
リュウジは、いつかきちんと話すべきだとレイラに告げた。そしてマリアには、「お父さん」と「パパ」がいることを説明していた。
──あのとき、リュウジは言った。
『生まれてくる命に罪はない』
国外に脱出しようとしていたときのことだ。リュウジは突然、レイラに「お前は妊娠している」と告げた。自覚のなかったレイラは、驚きと戸惑いで言葉を失った。
彼はポケットから一つの石──ラピスラズリを取り出して見せた。それはレイラがずっと持っていたはずのもので、確認すると彼女の手元からは消えていた。
「俺は両親の顔を知らない。どんな人間だったかもわからない。恨んだこともあったし、憎んだこともある。でも、命を奪わなかったことだけは、感謝してる。お前が抱えているその命は誰にも奪わせたりはしない。それが、俺の使命だ」
──ここまで来るのは、決して容易ではなかった。この地にたどり着くまでに、彼らは密航者として貨物船に紛れ、偽造書類を手に北方の国境を越えた。地図にも載っていない辺境の村の外れ、古びた狩猟小屋を修繕して住まいにした。電気はわずかな太陽光発電に頼り、水は近くの川から汲んでくる。暖房は薪ストーブ。リュウジは斧で薪を割り、レイラは慣れない手つきで干し肉や保存食を仕込んだ。雪が降る季節には外界との接触が完全に絶たれ、彼らは文字通り世界から隔絶される。
だが、レイラもリュウジも、それを不便とは思わなかった。むしろ、誰にも追われず、誰も傷つけずにいられるこの場所は、かつて夢見た自由そのものだった。マリアの笑い声が小屋に響くたび、レイラの胸の奥で何かが報われていく。
レイラがふと遠い記憶を思い返していると、リュウジが背後から彼女をそっと抱き寄せ、問いかける。
「お前の復讐は、果たされたのか?」
レイラは、静かに息を吐いた。
「復讐……ね。たぶん、みんなが本当に望んでいたのは、穏やかに暮らすことだったと思う。殺された仲間たちも……自分の生まれてきた意味を知って、復讐なんて望まなかったと思う。ただ静かに、生きていたかった」
彼女はそっと身体を返し、リュウジを見上げた。
「争いはきっとなくならない。でも、それをなくす努力はしなきゃ。この子たちの未来のためにも」
「その言葉、どこかで聞いた気がするな」
リュウジがふっと笑う。
「この現実は、お前が望んだものとは違うかもしれない。でも、これからは俺と生きろ。あいつの分まで。この子のためにも」
レイラは、目を潤ませながら小さく頷いた。
「ありがとう。リュウさんを巻き込んで……ごめんなさい」
「いや」
リュウジはゆっくりと首を横に振る。
「あいつに言われたんだ。俺は、これからもっと強くなる。それが人間である俺の試練だと」
「ショウが、そんなことを」
「人間の細胞は、何度も入れ替わる。お前たちが最初は造られた存在だったとしても今、お前を形作っているのは、お前が呼吸し、生きてきた証だ。俺とお前に、違いなんてない。万物は流転する。細胞の一つひとつも然りだ」
レイラは静かに窓の外を見上げた。灰色の空から淡い日差しが漏れ、空の色は徐々に変わりつつあった。
了
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