ep38
それから数日後。
北へ向かって歩き続けるあたしたちの前に、雪に覆われた山並みと、白く染まった田園風景が広がった。まるで時間が止まってしまったかのような、静寂に包まれた景色だった。
「ここだよ」
ショウが指さした先に、小さな平屋の家が見えた。雪の積もる屋根が、どこか懐かしいようで、胸の奥がふっと温かくなる。
ショウが何度か声をかけると、中からガタガタと音がして、やがて引き戸がゆっくりと開いた。顔を出したのは、杖を手にした小柄な女性。60代くらいだろうか。白髪まじりの髪をひとつに束ね、じっとあたしたちを見つめていた。
「……誰だい?」
「お久しぶりです」
ショウの低く穏やかな声に、彼女の頬がふわりと緩んだ。
「戻ってきたのかい。あら、一人じゃないね」
「こんにちは」
あたしがそう声をかけると、彼女は優しく微笑んでくれた。
「また、戻ってきました」
ショウも微笑んだ。彼の横顔は、どこか懐かしさと寂しさが入り混じっていた。
「まあ、寒かっただろう。早く入りな」
そう言って、彼女はあたしたちを家の中へ迎え入れてくれた。
家の中はこぢんまりとしていて、けれどとても整っていた。リビングとダイニングがひと続きになった空間に通されて、私たちはソファに腰を下ろした。床の素材が部屋ごとに違っているのは、きっと彼女の目が不自由だからだろう。キッチンも近くにあり、無駄のない生活の工夫が感じられた。
ふと視線を向けると、部屋の隅に小さな仏壇があって、その上に、あの腕時計がそっと置かれていた。
「寒いうちはここにいなさい。このあたりの冬は厳しいからさ。息子の部屋が空いているし、布団は押し入れにあるよ。勝手に使いな」
湯呑みをトレーにのせながら、彼女が穏やかに言った。
ありがたかった。でも――。
「ありがとうございます。でも、僕たちには、やらなければならないことがあります。早めに出発します。その前に、ちゃんとお礼を言いたくて」
そう伝えたショウの言葉に、彼女の表情が少し曇った。
「もう会えないってことかい」
その一言が、胸に突き刺さった。あたしは何も言えずにうつむいた。ショウも沈黙したまま、空気が重く張り詰める。
「あんたたちのこと、ニュースで毎日のように耳にするよ」
彼女のその言葉が、沈黙を破った。
「すみません。息子さんの名前を、指名手配犯にしてしまって」
ショウが深く頭を下げる。それに続いて、あたしも彼に倣って頭を下げた。
だけど彼女は、静かに首を振ってくれた。
「昔、警察官を名乗る男から電話があったんだ。低くていい声の人だった。彼は『タカガキショウ』の同僚だと言って、息子が使っていた物を送ってくれと頼んできた。そのとき、ピンときたんだよ。あんたが、息子の名を借りて警察官になったのだと。そして、きっと事情があるのだろうって」
すぐに思い当たった。――リュウさんだ。
「その警察官は一度ここまで来たよ。顔は見えなかったが、きっと男前だったに違いないね。仏壇を見て、私が嘘をついていると気づいたようだった。今いる『高垣翔』は誰なのかと問われたけれど……私は何も詮索しないでくれと頼んだんだ。すると、何も言わずに帰っていった」
きっと、リュウさんはその時点ですべてを悟っていた。
その家で、あたしたちは二泊した。柔らかな布団で眠るのは、本当に久しぶりだった。
出発の日、彼女は食料や毛布まで持たせてくれて、ショウは何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。お身体には気をつけてください」
あたしたちが背を向けて歩き出そうとしたそのとき、彼女の声が背中に届いた。
「私には見えるよ。あんたたち二人に、可愛い赤ちゃんができて、三人で幸せに暮らしてる姿が」
あたしは思わず立ち止まり、ショウと顔を見合わせた。
「元気でおやりよ。どんな事情があるか知らないけれど、せっかくの命だ。粗末にしちゃいけない。息子の分まで、生きてほしい」
胸が熱くなった。視界が滲みそうになるのをこらえながら、あたしははっきりと言った。
「絶対に、生き抜いてみせます」
その隣で、ショウは険しい表情を浮かべたまま、静かにうなずいた。
しばらく歩いたあとで、ショウが口を開いた。
「100キロほど先の港から、外国行きのコンテナ船が定期的に出ている。そこを目指すつもりだ。でも、町を通るわけにはいかない。山をいくつか越えよう」
「うん、わかった」
あたしたちは再び前を向き、歩き始めた。
だけど、現実は甘くなかった。雪は日に日に深くなり、進めない日もあった。足の感覚は薄れていき、寝る場所さえ見つからない夜が続いた。
それでもあたしたちは、歩き続けた。――生き抜くために。




