ep37
やっと家の前にたどり着いた時には、意識が朦朧としていた。ずっと、飲まず食わずで走っていたのだ。車に轢かれそうにもなり、山中も彷徨った。気がつけば、身体中は傷だらけになっていた。
力を振り絞り、ドアをノックする。しばらくするとドアが静かに開いた。
ノックの音に応えて出てきたのは、視力を失った女性——翔の母だった。
「翔なのかい? 急に帰ってくるなんて…」
「……ああ。ただいま」
ショウはそれだけを答えた。
「おや? 怪我をしているね。大変だ。ほら横になった方がいい」
ベッドまで手をひかれ、寝かされた。彼女は慣れた手つきで救急箱を持って来る。
「じっとして。ああ、そうだ。そのままで。まったく、久しぶりに帰って来たと思ったら。なんだい、このざまは」
ショウの意識は、彼女の声を聴きながらどんどん遠くなっていった。
どのくらい時が経ったのだろう。ショウは陽の光で目を覚ました。これだけぐっすり眠ったのは久しぶりだった。
「ああ、やっと目が覚めたのかい?」
傷はまだ痛むが、それでもゆっくりと休めることはありがたかった。
翌日からは彼女に言われるがままに、家の手伝いをして日々を過ごした。彼女は一人暮らしで、隣近所との付き合いもないようだった。ショウはできるだけ彼女の手助けをした。畑を耕し、買い物に行く。話し相手をして、一緒に食事を食べる。
彼女は自分を翔だと思っているのだろか。自分のために食事を作り、世話をしてくれる。
——翔が言っていた。
「親孝行らしいことなんて、何もしてやれてないんだ」と。
ならば、自分が代わりにそれを果たそう。
そう思うようになっていた。
ショウがここに来て、一か月が過ぎた頃。彼は何気なくテレビを見ていた。
画面には全国各地のニュースが流れていた。
『桜が見ごろになった城山では、多くの観光客で賑わっています。日本さくら名所百選にも指定されたこの場所では、地元の花見客も多く訪れます』
山の上にそびえ立つ城の周囲に、桜が咲き乱れていた。大勢の人が、桜の木の下で写真を撮ったり、食事をしたりしている。別のカットでは老木の地面に、広がった桜の花びらの絨毯が映し出された。
何気なくその風景を眺めていた彼の目に、ふと一組のカップルが留まる。
桜の花びらが敷いたピンクの絨毯、そのそばを歩いている男女。黒髪で端正な顔をした長身の男が女に話しかけていた。彼は白いTシャツの上に白い麻のシャツを羽織り、ブルーのデニムとラフな格好だ。
隣に並ぶ、淡い紫色のワンピースに白いカーディガンを羽織った彼女は、嬉しそうな笑顔を男に向けている。
彼女の笑顔を見たとたん、ショウの呼吸が止まった。
テレビに近づき、画面を食い入るように見つめる。
「レイラ?」
画面は次のニュースに切り替わる。
——あれは、レイラだ。
画面はすぐに切り替わったが、確信は揺るがなかった。彼女は、生きている。あの場所はどこだ。行くしかない。この目で確かめなければ。
夜中、ショウは誰にも気づかれぬよう、そっと布団を抜け出して部屋を出た。玄関の扉を静かに開くと、外は漆黒の闇に包まれていた。
「出かけるのかい? こっそり出て行こうとしても、私にはわかるんだよ。耳が良いからね」
声に驚いて振り向くと、背後には彼の母親が立っていた。
「その、僕は……実は……」
言葉を選びかねて口ごもるショウに、彼女は静かに微笑んだ。
「気づいていたよ。あんたが来た日からね。バカにしちゃいけない。息子かどうかなんて、目が見えなくても分かる」
その口調は穏やかだった。
「……騙してすみませんでした」
ショウは深々と頭を下げた。顔を上げられず、黙ったままだ。
「きっと……息子はもう、この世にはいないんだろう? 一時は、あんたが私を殺しに来たのかと思ったさ。でもね、あんたの手はあの子そっくりだった。それに、そう悪い人にも思えなかった。だから、騙されたふりをしてやってたんだよ」
全てを見透かされていた。ショウはゆっくりと顔を上げ、正面から彼女の目の前に立った。
「あなたの言う通りです。翔くんはもういません。僕は彼を助けることができなかった。ただの……友達です」
そう言って、ショウは翔との出会いから別れまでのすべてを語った。彼女は静かに、ただ頷きながら話に耳を傾けていた。
「翔くんから預かっていたものがあります」
ショウは長い間渡せずにいた腕時計を差し出す。ボタンを押すと、時計が時刻を告げた。険しかった彼女の表情がやわらぎ、笑みを浮かべて時計を受け取る。
「あの子らしい。これは目の見えない人向けの時計だね。こんな気を遣う暇があるなら、さっさと帰ってくれば良かったのに」
そう言って、彼女は背を向けて家の中へと歩き出した。だが、玄関先で立ち止まり、もう一度振り返る。
「あんたには、きっと行くべき場所があるんだろう。早くお行き」
「また戻ってきます。本当にありがとうございました」
もう一度、深く頭を下げてから、ショウはその家をあとにした。
「それからレイラを見つけるまで、何年もかかったよ」
ショウは、遠い記憶を辿るように話を続けた。
「一瞬だけ、テレビで見かけただけだったし、一緒にいた男の素性も分からなかった。まさか、警察組織の中にいるなんて、想像もできなかったからさ」




