ep1
10年後。
関東某所の山奥——人里離れた場所に、灰色の建物がひっそりと佇んでいた。まるで武装施設のような異様な存在感を放つ廃工場。もともとは昭和20年代後半に建てられた縫製工場らしいが、今やその面影は皆無。蔦に覆われた外壁には、後付けされた鉛色のパイプが何本も這い、監視カメラが無造作に取り付けられている。小さな換気口があるだけで、窓という窓は分厚いトタンで完全にふさがれ、中の様子は一切見えなかった。
ここに来るまでの山道には、朽ちかけた廃屋がいくつも点在していた。かつては人が暮らしていたはずの村も、今は完全に廃村と化している。20年前から誰も住まなくなったというこの地は、近寄る者もなく、不気味な静寂に包まれていた。上空からも容易には発見できない、深い木々に抱かれた場所――まさに潜伏にはうってつけだった。
今回の任務は、防衛に関する国家機密を盗み隣国へ持ち出そうとしている人物の排除。
発端は、大物政治家の息子がハニートラップにかかり、親の名を使って隣国のスパイを防衛施設に招き入れたことに始まる。その結果、機密データはスパイの手に渡ってしまった。
まずはデータの奪還が急務。そして、同行していると思われる息子は「保護せよ」との命令が下っている。一方で、スパイたちは——始末しても構わないらしい。
敵はまもなく出国するはず。残された時間は少ない。
まず、あたしが道を切り開かなくちゃ——。
白兎レイラは、物陰から灰色の工場をじっと見据えた。
彼女が警察に保護されてから、10年の月日が流れた。
未だ身元は不明。身元不詳の彼女はいま、TNTと呼ばれる警察の特別任務捜査班の一員として活動している。
レイラの推定年齢は20代半ば。
白い肌にアーモンド形の瞳、整った顔立ち。肩まで伸びた薄茶色の髪は、無造作に束ねられている。
任務の先陣を切ったレイラは、ドアのロックを解除し、迷いなく侵入した。
表向きはただの廃墟――だが、その中には確かに敵が潜んでいる。
レイラは先陣を切って工場内に侵入した。昼間であるにも関わらず、建物の内部は真っ暗だった。天井までの高さ、間取り、避難経路――あらゆる情報は、すでに頭に叩き込んである。
古びたミシンや、カビ臭い布の山をすり抜け、彼女は慎重に足を進めた。目の前には、裸電球の光の下に立つひとりの男。退屈そうに欠伸をし、壁にもたれかかっている。
レイラは無言でサプレッサー付きの自動拳銃を構えた。ためらいなく引き金を引くと、男は音もなく崩れ落ちた。彼女は周囲に耳を澄ませる。会話の声はするが、こちらに気づいた様子はない。
(まずは、みんなの経路を確保してと)
耳元のインカムから、仲間たちの準備完了の合図が届く。外で配置に就いた仲間らは、もうすぐ突入を開始する。
レイラはインカムに向かって呼びかける。
「こっちもオッケーだよ。みんな、派手にやって」
『了解』——複数の声が応じる。
数分後、耳に響くのは、銃声と悲鳴だった。
そのころ、工場の一角では、男女が密やかに言葉を交わしていた。場違いな真紅のワンピースを身にまとった美女が、小太りの男に笑いかける。
「素敵な場所でしょう? 私、廃墟マニアなの」
「こんな山奥に何があるのかと思ったら廃墟かぁ。確かに、二人きりにはぴったりの場所だね」
女はにっこり笑い、男の首にそっと手を回した。その手には、鋭く光るナイフが握られていた――。