ep18
パタ…パタ…と靴音が響く。巡回の人かと思って前方を見ると、人影が近づいてきた。
「おい、どうした? 定時で帰れるはずのお前が、こんな時間に何をしてるんだ?」
エイジ班長だった。
「班長こそ、こんな時間に何してるんですか?」
思わず、質問を質問で返してしまう。
「やっと帰るところさ。任務が忙しくてな。会計課の仕事が山積みで手をつけられなかった」
そう言って苦笑したあと、ふっと鞄を探り出し、私に何かを差し出してきた。
「ほら、これ。お前にだ」
受け取ったのは、保険証と病院の診察券。脳神経外科と書いてある。
「あ、もう頭痛はすっかり治りました。睡眠不足だったのかも。大丈夫です」
あたしは平静を装って、なるべく明るく返す。
「いや、念のために行っとけ。頭痛は記憶喪失と関係があるかもしれん。何か思い出すきっかけになることもあるだろう」
あの記憶を取り戻してから、頭痛は嘘みたいに消えた。でも、班長には何も言えなかった。心配そうな目が、胸に刺さる。
「本当に今は大丈夫です。もしまた調子が悪くなったら、そのとき使わせてください」
「そうか」
しぶしぶといった様子で、班長はカードをしまった。
「ところで、リュウジとはうまくやってるか?」
「ええ、まぁ」
あたしは曖昧に笑ってごまかした。
「どうした? 痴話げんかか? あいつは昔から頑固だからなぁ。相手がレイラでも容赦しないだろ」
「リュウさんは、何も悪くないです。あたしがはっきりしないだけで」
「どういう意味だ?」
班長が不思議そうにあたしを見た。これ以上はまずい。話したら全部バレそうだった。
「あっ、いえ、なんでもないです。そうだ、班長って動物好きなのに、どうしてペットを飼わないんですか?」
わざと話題を変えた。すると班長は、何かを思い出すようにゆっくり目を閉じた。
「好きだから、飼わないんだ。留守にする日も多いしな。俺がまだ中学生の頃、市内の動物センターに行ったことがあったんだ。山の中にあって、そこで年間何千頭もの犬猫が殺処分されるって知った。職員の人たちは、それでも最期まで面倒を見ていた。餌をやって、糞尿を処理して、それから自分たちの手で命を絶つ。そんな仕事があるなんて、俺は知らなかった」
班長の声には重みがあった。
「しかも、そんな人たちに平気で心ない言葉をかける人間がいる。悪いのは、捨てた人間だ。俺はその日、痛感したよ。無知なこと、無関心なことって怖いんだなって。それから俺は自分ができることをやるって決めた。だから、飼わない。現実を知ること、やれることをやること。それが俺のモットーだ。いや、ちょっとカッコつけすぎたな」
「いえ、すごくよくわかります」
あたしの声は自然と真面目になっていた。
「レイラ、お前は時々、警察本部に来る小学生たちの案内をしてるだろう? あの子たちはこの国の未来だ。いろんな経験をさせて、いろんなことを考えさせてやれ。俺の中学時代の記憶だって、今の俺に影響している。子供だからって手を抜かずに、真剣に向き合ってやってくれ」
「はい」
あの日、社会科見学に来てた女の子の顔が浮かぶ。
「お姉さんみたいな警察官になりたい」って言って、握手してくれた子。
——もしあたしがみんなを裏切って逃げたら、あの子の夢まで壊してしまうかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。
班長はあたしと違って、別の方向にあるアパートで一人暮らしをしている。
「またな」
「さようなら」
別れてからも、とぼとぼと歩き続けた。官舎まで、あと数百メートルなのに、ものすごく遠く感じた。
部屋に戻って、とりあえずシャワーを浴びた。
お腹は空いているはずなのに、何も食べたいと思えなかった。
とにかく寝よう。ベッドに倒れ込んだけれど、眠れなかった。
明日の夜、ショウから連絡が来る。
彼が一緒に戦ってくれるなら、班のみんなにはどう説明すればいいのか…頭の中がぐるぐると回る。
「現実を知ること。やれることをやること」
班長の言葉がふと、胸の奥に響いた。
あたしの家族は殺された。誰かに、理由もわからず。
なぜ集落が襲われたのか。
誰が、何のために、あんな残酷なことをしたのか。
あたしは、それを知るために生き残った。
10年そばにいてくれたリュウさん、班のみんなを裏切ることになるかもしれない。
それでも、あたしにはやらなきゃいけないことがある。
——あたしは、戦う。記憶を取り戻した以上、逃げられない。
翌朝。のそりとベッドから起き上がる。結局一睡もできなかった。でも、今日も仕事だ。
「よし、頑張ろう」
自分に言い聞かせながら制服に着替えた。今日は警務部に顔を出そうと、正面玄関に向かう。警務部は3階。出勤時間のエレベーターは混んでいるから、大抵は階段を使う。
2階の交通部フロアと交わる踊り場に着いた時、前から歩いてくる人影が見えた。制服姿のリュウさんだった。一瞬目が合ったけど、彼は何も言わなかった。胸がちくりと痛んだ。
「白兎さん、ちょっと」
警務部のフロアで、噂好きの先輩に呼び止められる。
「秘書がこんなところにいていいの? 高垣管理官、昨夜刺されたんでしょ?」
「え?」
ショウが刺された。
「あれ、知らなかったの? 重症らしいよ。女遊びが過ぎて、トラブルになったんじゃないかって噂」
動揺するあたしを見て、先輩はさらに口を滑らせる。
「白兎さん、管理官と付き合ってたよね? もう捨てられた? でも、巻き込まれなくて良かったじゃない」
「あたしと管理官は、そんな関係じゃありません!」
声を荒げ、その場を離れた。
――ショウが死んだらどうしよう。幼い頃からいつも一緒だった。一緒に勉強して、くだらない事で笑いあった。告白された時は嬉しかったし、ずっと一緒だと思っていた。
ショウを失いたくない。ショウのいない人生なんて無理だ。
もう嘘はつけない。リュウさんにも、あたし自身にも。
あたしは覚悟を決めた。