ep9
あたしが秘書として働き始めて一週間ほど経ったある日、高垣翔の自宅へ書類を届ける任務があった。
彼が住所登録しているのは例の高級マンションではなく、警察官舎だった。
本来なら玄関チャイムを鳴らして応対を待つべきだ。しかし、彼の正体に疑念を抱いていたあたしは、屋上からロープでベランダに降り、室内の様子を窺った。
彼は椅子に腰かけ、何かをじっと見つめていた。写真だろうか。表情は真剣そのものだった。光の加減で写真の中身までは見えない。あと少し、もう少し手を伸ばせば――。
その瞬間、彼が突然顔を上げ、こちらを見た。目が合う。しまった。
彼は慌てることなく写真を隠し、無表情でこちらに歩み寄ってきた。
「白兎さん、変わった場所に立ってるね。玄関は、そこじゃないよ」
――いや、突っ込むところは他にあるでしょ。
「ええと……管理官、こんばんは。書類を……届けに来たんです」
しどろもどろに答えつつ、頭の片隅では最悪のケースを想定する。この狭いベランダで戦えるか? いや、官舎で銃撃戦は論外。逃げる? でも、ここからどうやって?
「ふふ。TNTの人は玄関を使わないのかな。それ、ありがとう」
彼は何事もなかったかのように封筒を受け取った。
「さっき、慌てて隠したもの。何だったんですか?」
「何のこと? 今日はお疲れさま。また明日ね。ああ、今度は玄関から出て行ってよ」
にこやかな笑顔を崩さぬまま、彼はそれ以上何も語らなかった。
あの写真には何か秘密がある。ただの恋人の写真かもしれない。でも、もっと重大な――たとえば、誰かを殺されて復讐を企んでいるのかもしれない。その復讐にあたしを利用しようとしている?
彼は、あたしの銃の腕を見込んで秘書にしたような気がする。あたしを洗脳して誰かを殺そうとしているのかも。
さっきの写真を確認する必要がある。写っていた人物を特定しなければ。
まずはリュウさんに報告することにした。
「その写真、俺も一緒に探す。お前一人じゃ、何かあった時に援護できない」
ちなみに今、リュウさんはあたしの部屋にいる。
「大丈夫だよ。一人の方が、見つかっても言い訳しやすいし。あの人、むやみに撃ってきたりはしないって」
「見つかることを前提で話すな。それと、油断するな」
リュウさんがあたしの額を指で小突いた。
「痛っ。もう、大丈夫だってば。ちゃんと上手くやるから信じてよ。頭痛いのに小突くとか、ひどい」
「まだ痛むのか?」
少し心配そうに、彼が顔を覗き込んだ。
「日に日に酷くなってるよ。あの人、女子職員を見かけるたびに声をかけるし、みんなから睨まれる
し……もう嫌。ねえ、リュウさん、秘書代わってよ」
そう言ってみたものの、想像して吹き出した。リュウさんが翔の秘書? 無理すぎる。見た目怖すぎ。あれは秘書じゃなくてボディガードだ。二人並んだら異様すぎる。
「本気で言ってるのか、もっと真面目にやれ」
また小突かれた。
あたしが頭を押さえていると、彼の顔が真剣になった。
「俺も翔について調べた。高垣翔は実在する人物で、戸籍も本物だった。田舎に母親が一人いて、電話で確認した。疎遠みたいだが、間違いなく本人。数年前に使ってた櫛を送ってもらって、毛髪をDNA照合した。ここにいる『高垣翔』と一致した」
さすがリュウさん。ちゃんと調べてる。
「本当に普通の人……なんだよね。ちょっと軽すぎるけど。あれが全部演技だったら、背後にどんな連中がいるんだろう」
あたしがため息をつくと、彼の鋭い視線が突き刺さる。
「それを調べるのが、お前の仕事だ」
小突かれそうになったので身を引くと、彼は腕を伸ばしてあたしを抱き寄せた。顔を見上げると、彼の目にはかすかな翳りが宿っていた。
――ああ、この目が好きなんだ。そう思った瞬間、唇を塞がれた。頭痛はまだ残っていたけれど、私たちは――確かに、幸せだった。
翌日。
あたしは再び、高垣翔の部屋に忍び込んだ。
今夜は本部での会議がある。奴は留守のはずだ。
──あの写真、どこに隠している?
持ち歩いていたら厄介だけど、紛失のリスクを考えれば、部屋に置いている可能性が高い。
手袋をはめて静かに室内に入り、慎重に探し始める。
引き出し、冷蔵庫、本の隙間……。
どこにも見当たらない。焦りが募る中、ふと掛け時計の裏に目をやると――そこに、あった。
薄汚れた茶色い封筒。あまりにも不自然な場所にあるそれは、誰にも見つからないように、けれど本人にはすぐ取り出せるように隠されていた。
表面にはいくつものシミ。まるで長年持ち歩いていたかのような風合い。
――やっぱり、これだ。
封筒を破らないように、そっと写真を取り出す。中に入っていたのは一枚の写真だけだった。
写っていたのは、十代前半の少女。
肩までの黒髪、意志の強そうな眼差し。
どこかで見たような気がする――いや、これは……。
あたしはその場に立ち尽くした。
急にこめかみがズキンと痛み出し、頭を押さえる。
「この人……えっ、まさか……うそ……」
その瞬間、背後から声がした。