表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/46

プロローグ

 昼過ぎから降り続いている雨で、足元には水たまりができていた。水たまりに映った自分の顔を、男は苛立たしげに踏みつけた。


「くそっ、また雨足が強くなりやがった」


 灰色の空から、容赦のない大粒の雨が叩きつける。黒髪は額に貼りつき、鋭い眼光の奥で何かが静かに燻っていた。黒のジャケットはすでにびしょ濡れで、肩から水が滴り落ちている。


 車まではまだ距離がある。このまま濡れ鼠になって戻るか、それとも――


 男の視線が動く。少し先、雑木林の奥に、打ち捨てられたような古い家屋が見えた。瓦が剥がれ、壁板が裂けている。だが、屋根と柱だけはどうにか形を保っていた。


「雨宿りにはなるか」


 そう言って、男は雨粒を浴びながら駆け出した。


 廃屋の中はしんと静まり返っていた。天井の一部が抜けていて、雨のしずくがぽたぽたと床に落ちる。柱は黒ずみ、戸や障子は腐って形を失っている。


 薄暗がりの中を進んでいくと、埃まみれの床板に、ぽつんと人影があった。


 少女だ。


 年のころは10代前半。肩までの黒髪が濡れて、色の抜けた長袖のワンピースは泥で汚れている。白い足には無数の擦り傷。裸足だった。


 どこか人形のような、しかしどこか壊れているような雰囲気をまとっていた。

 男は慎重に歩を進めながら、声をかけた。


「おい、きみ。大丈夫か。こんなところで何をしているんだ?」

 少女はゆっくりと顔を上げ、男を見つめた。大きな瞳に焦点は合っていない。


「あなた、誰?」

 細い声でそう言ったあと、首を傾げて呟いた。

「あたしは、えっと、誰なんだろう。何も、分からない」

 その無垢な声音に、不気味な冷たさが滲んでいた。


 男は思わず眉をひそめた。ワンピースの裾から剥き出しになっている足には、いくつもの擦り傷が見える。誰かに乱暴でもされたのか。


「男の人」

 少女がふいに言った。

「は?」

「誰だっけ。あの人。あなたじゃない。みんな、血まみれ。あたしたち、もう終わり。あなたもきっと、殺される」

 視線は男ではなく、宙を彷徨っている。まるで何かを見ているかのように。


「今まで誰かと一緒だったのか? 何か、身元の分かるものは」

 男は声を抑えながら周囲を確認する。割れたペットボトル、菓子の袋、埃をかぶった寝袋のような布。だが名前のわかるものは何一つない。

 ふと、少女の首元に目がとまった。シルバーのプレートがぶら下がっている。

 男はゆっくりと手を伸ばした。


「きみは、レイラ?」

 プレートには「Layla」と刻まれていた。ごく最近作られたもののようだ。


「わからない」

「参ったな。こんな所で女の子が一人でいたら、危険だ。俺とここを出よう。警察で保護すれば、すぐに家族のもとへ——」

「けいさつ?」

 少女は不思議そうに目を瞬かせた。その言葉さえ知らないようだった。

 男は警戒を怠らず、廃屋の奥に誰かいないか目を凝らす。だが気配はない。

「とにかく、ここは危険だ。立てるか?」

 少女はよろよろと立ち上がった。足元がふらつき、今にも崩れそうだった。


 男は一度ためらい、そして彼女の身体をひょいと横抱きにした。細い体は軽く、骨ばっている。

「あなた、王子様みたい」

 少女がぽつりと言った。

「本で読んだことがある。でもあなたは、あたしの王子様じゃない」

 男は答えず、そのまま歩き出した。

「王子様、か。そういう単語は覚えてるんだな。まあいい。まずは行方不明者リストと照合だ。きっと何かわかる」

 少女は男の腕の中で、静かに微笑んでいた。


 廃屋を出ると、雨は止んでいた。

 空は深く澄み、雲の切れ間から月がのぞいている。さっきまでの灰色の天井が、まるで別の世界のように青く染まっていた。


「ねえ、あれはなんていう色?」

 少女が空を指さした。


 男は視線を上げる。

「もうじき夜だな。あの色は、濃い青。いや……群青ってとこか」


「ぐんじょう。綺麗な色だね」

 少女は空を見つめながら、まるでそれが永遠であるかのように微笑んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ