第九話 見つかった『宝玉真贋図譜』と謎多き遺体
凛冬殿は騒然としていた。
不安そうな顔をしたたくさんの女官を「落ち着くのじゃ、部屋へもどれ」と諭す数名の女官の姿、漆黒の鎧姿の武官が殿舎の内を外をひっきりなしに往来している。
その様子を紅と物陰からうかがっていた花音は、思わず息を呑んだ。
「も、もしかして、暗赫……」
「安心しろ、暗赫は解体された。『花草子』の一件でな」
暗赫――かつて後宮の中でも帯刀を許され恐れられていた、内侍省武官の特別精鋭隊。
長の蠟蜂が『花草子』の一件で失脚したときに、内侍省内でも改革があり、暗赫は解体されたのだという。
「だからあれは、ただの内侍省武官だが……数が多いな」
「みんなかなり動揺してるみたいだし、いったい何があったのかしら」
紅と花音が玄関へ近付くと、武官がサッとやってきて「ここは今、立入禁止だ――」と言いかけて、目を見開いた。
「も、もしや、赤の皇子……」
「何事だ」
すぐにその場にいた内侍省武官たちがサッと膝を折った。
「警笛が聞こえたが、なんの騒ぎだ」
「はあ、それが……」
武官たちは言いにくそうに目配せをする。
「なんだ。申せ」
「はあ……実は、凛冬殿の中で、女官が死んでおりまして」
花音は息を呑んだ。紅は表情をわずかに鋭くし、静かに問う。
「状況は?」
「は。それが、首をくくっておりまして……自死ではないかと思われるのですが」
「そうか」
紅が凛冬殿の中へ入って行こうとすると、武官が止めた。
「おやめください。殿下がご覧にならずとも――」
「後宮で起こったことはすべて、皇族として知っておくべきだろう。人の命が失われたのなら、尚更だ」
「ですが……そ、それに、そのように年若い女官には、動揺が大きいかと」
武官は、花音を意味ありげにちらちら見ている。
(も、もしかして……何か勘違いされてる?! ないから! やましいことは断じて!!)
心の中で必死に弁解するが、武官の目つきは明らかに紅と花音がよろしくやっている最中だった、と疑っている。
後宮内では紅は「遊び人」という噂があるからだろう。
それは紅が自分で流した噂で、事実ではないのだが。
(もうっ、ヘンな噂流してたりするから、こういうときに疑われるじゃない!)
やきもきする花音を後目に、紅は平然と言った。
「彼女は、華月堂の司書女官だ。今の今まで、彼女に調べものを手伝ってもらっていて、女官寮へ送るところだ」
「そ、そうなんです! あたし司書女官なので! そういうんじゃないんで――」
「えっ、華月堂の? 蔵書室の司書女官なんですか?」
花音の必死の弁明に、なぜか武官が食いついてきた。
「は、はあ」
花音がうなずくと、武官はサッと身を引いた。
「そういうことでしたら、ぜひお入りください」
「……ぜひ?」
紅と花音は訝し気に顔を見合わせる。武官が声を低めた。
「実は――遺体のそばに、本が落ちていたのです」
「えっ……」
「司書女官殿なら、その本がどういう本かおわかりになるかもしれない。さ、どうぞこちらへ」
武官に案内された場所は、凛冬殿の奥、厠や倉庫など、奥向きの用途の室が並ぶ棟の中庭だ。
遺体には、すでにかけつけた武官たちによって、布がかけられていた。
紅が近付くと、武官たちはやはり一斉に膝を付く。
「殿下!」
「警笛が聞こえたが」
「は……このようなお見苦しいところをお見せすることになり、たいへん申しわけございません! 見張りは何をしていたのだ! 殿下をこのような場所にお通しするとは!」
「よい。オレが見ると言ったのだ」
「は、はあ……」
「遺体は?」
「こちらです」
紅は布がかけられた遺体を前に、両手を動かす。それは、龍が天に昇る様子を表した独特な動きだ。
亡くなった者の魂が、神龍の導きで天帝のもとへ行けるための儀式だ。
最後に手を合掌した紅に倣って、花音も手を合わせた。
「では」
地面に広がった布を、武官が少し上げる。
(……? なんだろう、この甘いにおい)
武官が布を上げたとたん、甘い匂いがかすかに鼻腔をかすめた。
(亡くなった女官が使っていたお香かしら。変わった匂いだわ)
そう思いつつ、武官がためらいがちに大きく開けた布の下、横たわった女官を見て花音は思わず声を上げた。
「蘇奈さん?!」
ごく薄い紫の、凛冬殿の下級女官の襦裙。
髪がきれいに下りており、見開かれた目は空洞のように暗いが、まちがいない。
蘇奈だ。
「お知り合いですか?」
「は、はい……」
ぐらり、と均衡を崩した花音を、紅の腕が抱きとめた。
「大丈夫か?」
「うん……平気。だいじょうぶ、ありがと」
花音はうなずくと紅の腕をそっとほどき、勇気をふりしぼって蘇奈の遺体と対面した。
(なにか変だわ)
蘇奈の遺体を見た瞬間、なにか違和感があった。
(なんだろう……よく考えるのよ、あたし)
花音は意を決すると、遺体を頭から足の先までじっと観察する。
やはりかすかに匂う、甘い香り。
(でもこれは、蘇奈さんの香りじゃない。蘇奈さんはいつも、松香のような清涼感のある香りを焚いていたと思うわ)
そして、細い首にくっきりと付いた、青黒く変色した痛々しい跡。
首をくくったようだ、と武官は言っていた。でも。
(こんなに穏やかな死に顔になるかしら……?)
自死とはいえ、首をくくったら苦しいだろう。
なのに、蘇奈の顔は眠っているように穏やかだ。
(それに、どうして髪が下りているの?)
髪に乱れはなく、かなり几帳面に櫛を通したようにみえる。
(櫛で整えるのはともかく、死を前にわざわざ髪を下ろすなんて、そんなことあるかしら……?)
他人に下ろし髪を見せることは、大人の女性としての身だしなみに反する。
憧れの女性軍人・姜涼霞の話をしたときでさえ、いつもの元気さからは想像もできないくらい恥じらっていた蘇奈なら尚のこと、自死に際してわざわざ髪を下ろすだろうか。
見ればみるほど、謎の多い遺体だ。
そして、ここで確かめるべき謎があった。
「遺体のそばに本が落ちていたって、本当ですか?」
「はい」
「見せていただいてもいですか?」
「もちろんです。司書女官殿には、これがどこの本なのか確認していただきたい。何か印のような物があるので、貴妃の私物ではないと思われるのですが……」
武官が布に包んだ本を、見せてくれた。
花音は「あ」と声を上げる。
「『宝玉真贋図譜』!」
「ご存じなんですか?」
「え、ええ」
さっきまで、必死に探していた本だ。
「ちょっとだけ、見てもいいですか?」
「もちろんです。ぜひご確認を」
布ごと受け取った本の、背表紙を見る。
そこにはやはり、春に花音が苦労して貼り直した印紙が貼ってあった。
「これ、華月堂の本です」
「間違いないですか?」
「はい」
数人の武官が意味ありげに目配せをしている。その視線に、花音はただならぬものを感じた。
(な、なんか、イヤな予感がする……)
そしてその予感は、見事に的中した。