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第1話

「ん」


 目の前の男がこちらへと手のひらを上に向けて差し出してくる。


「なに、その手」

「は? いつものに決まってるだろ」


 ……そうだろうと思った。でも、もう絶対に渡さないと決心したから、今日はきちんと言ってやるんだ。――その選択が間違いだったのかもしれない。


「……私、前に言ったよね? もうそういうのは無理だって。貯金もだいぶなくなったし、給料だって生活費だけでいっぱいいっぱいだって」

「だからなに? 生活費くらい切り詰めろよ」

「っそんなこと言うなら、働いてよ……!」

「……はあ、またそれかよ。付き合う時に俺言っただろ、家のことはやるからって」


 気怠そうに男は言った。たしかに付き合う時に家事をやってくれると、そう言っていた。実際、付き合い始めは美味しいご飯を作ってくれて、仕事帰りの疲れた身体に染みていた。

 ――でも、男のやる気は1か月、いや、半月ともたなかった。


「ろくにできてないくせにっ! いつも仕事から帰ってきて、私が洗濯してご飯作って、やってることって言ったら洗濯物畳むのとお皿並べる程度じゃない!」

「、うるさ……」


 迷惑そうな顔をしながら、男は耳の穴を指で塞ぐジェスチャーをする。今日はお金を渡さないこと以外にも決めていたことがある。男の態度が改まらなければ、もう全てを終わりにする、と。


「……もう、出てってよ。別れる」

「は!? なんでそうなるんだよ! ……くそっ」


 男はそう言ってソファから立ち上がり、玄関とは逆のキッチンへと歩いて行く。行ってほしいのはそっちじゃないから、男の後ろをついていく。


「ちょっと、どこ行――っ!」


 男が振り向いた瞬間に腹部に鋭い痛みが走る。何が起こったの……?

 目線だけを下に向けると、そこにはどこにでも売っている三徳包丁が私の身体に突き刺さっていた。男は一度包丁を引き抜く。


「……お前が悪いんだぞ、黙って金渡してればこうならずに済んだのに」

「いっ……いや、やめ、ぇ――」


 引き抜いた包丁が再び腹部を貫く。何度も何度も包丁が私の身体を往復する。痛みが腹部から全身へと広がっていく。男の手を止めようとしたが、押さえつけられていて動くことができなかった。痛い、という感覚だけが脳内を占めたところで、意識は途絶えた。


 --------------------------------------------------------------------------------


「……様、お嬢様、アリーチェ様!」

「ん――ここは……」

「本邸のアリーチェ様の自室でございます。ひどくうなされており、失礼を承知の上で無理に起こしました」


 アリーチェという名前が自分のものだという記憶はもちろんある。でも、それだけじゃなくて、私には千鹿野結ちがのゆいという名前もある。いや、正確には、あった。

 千鹿野結はアリーチェになる前の私、つまり前世。今見た最悪な夢ですべてを思い出した。毎日パチンコに行くために金をせびってきたヒモの彼氏に別れを告げたら、包丁で腹部を十数回刺されて死んだんだった。このヒモだけでなく、前世では男運がよっぽどなかったのか、付き合う人全員何かしらダメな部分があって、友達に何度も注意しろって言われていた。注意していたつもりだったけど、結局このあり様。


「はは……」

「アリーチェ様? お加減はいかがですか?」

「あ、うん。大丈夫。起こしてくれてありがとう、エウスタシオ」


 あの思い出したくもない最低な悪夢から呼び起こしてくれた彼――エウスタシオにお礼を告げる。

 エウスタシオは私が幼少の頃からついてくれている専属の執事だ。孤児院にいたから詳細な年齢は不明だけど、おそらく私より4歳ほど上の20歳前後で、この国では珍しい綺麗な漆黒の髪に、光が当たると緑にも見える黒色の瞳をもっていて端整な顔立ちをしている。その特異な見た目から両親、とりわけお母様が、エウスタシオが何か特殊な魔法を持っているのではないかと考え、三女である私、アリーチェの執事という名目でこのルナデッタ家に招き入れた。結局、お母様の予想は外れていて、エウスタシオはごく普通の基礎魔法が使えるだけだった。


 ルナデッタ家は、国内でも指折りの優秀な魔法士一族である。その特徴は直系の女性にだけ強力な魔法が備わるというもの。だから、お母様はもちろん先祖のほとんどが婿を迎え入れている。私の二人のお姉様もすでに婿とこの本邸で暮らしている。上のお姉様はもうすぐ子どもが産まれるところだ。お姉様たちのおかげでルナデッタ家の将来も安泰なため、三女の私は何もしなくていいかと思っていたら、お母様がいつの間にか婚約を取り付けてきた。

 しかも、相手はこの国の王太子、つまり、ゆくゆくは国王になる御方だ。強力な魔法を持つ家系だから国防やその他の施策などにしばしば手を貸していたが、まさか国王とお母様が子どもたちの婚約を決めるほどの仲になるとは思いもしなかった。


「アリーチェ様、本日のご予定は――」


 エウスタシオは柔らかく、けれどはきはきとあらかじめ決まっていた今日のすべきことを伝えてくれる。

 結婚なんて興味ないし前世を思い出したことで男なんてもうこりごりだけど、国王との約束を反故にはできないだろう。そう思って受け入れた。本当は一人で気楽に生きていきたいところだけど。ああ、でも、目の前の彼だけは手放せないかもしれない。小さい頃から一緒にいるからか、私のしてほしいことを正確に読み取ってくれて、執事としてとても有能だ。前世で付き合ってきたダメ男たちと全然違う。……当たり前か。


「アリーチェ様? 聞いていますか?」

「え、あ、もちろん聞いてるよ。今日は……あの人のところに行かなきゃなんだよね」

「王太子様をあの人とは……他の人の前では絶対にやめてくださいね」

「分かってる分かってる。私がくだけるのはエウスタシオの前でだけだよ」

「……、それは、光栄にございますが」


 少し間をおいて困惑した表情を見せた後、心なしか嬉しそうに彼は言った。

 その後、王太子様と会うためのドレスをエウスタシオと選び、遅めの朝食を摂ってから着替え、馬車へと乗り込んだ。

 まさか、あんなことになるとも知らずに……。


新作です!

全6話で金曜日(21日)まで毎日夕〜夜ごろ投稿予定です。


もしよろしければ、評価やブクマなどしていただけるととても嬉しいです!

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