3.1 BlackOps (1)
「まぁそんなわけでね。すっかり参ってるんだよ」
シドニアは、ベッドサイドの鉢植えの花弁をむしりながら溜息を吐いた。
「――それであんたは俺に愚痴を言いに来たのか? 怪我人の俺に?」
両脚をギプスで固定し、もう何十年もベッドでそうしているかのような男は怪訝そうにシドニアの奇行を見守っている。
男は、自分ではまだろくに身動きもできない癖に警戒を解く様子はない。
「まさか。見舞いだよ。大変な目に遭ったね。君を民王として労いたい。それに――」
まるで他人ってわけでもないんだ、とシドニアは振り向く。
ベリルの病院だ。
「畏れながら民王様、あんたは俺のことなんか知らないだろう」
「それがそうでもない。僕が読んでる報告書じゃ、君は有名人だ」
「報告書? 俺のかい? 初耳だ」
――まぁ、僕が書いてたんだけど。
元老院に向けた報告書で、皇女筋が知らないのも無理はない。闇から闇へと葬られる類のものだ。
ジャック・トレスポンダ。本名、年齢、職業、経歴、いずれも不詳。以前はブリタシアのロンディア市に居たというが、これも自称である。
最近になって一部に本名らしき出所不明の情報があり、ブリタシアに照会を求めたがまだ返答はない。
使節団の一件もあり返答はないかも知れない。何せ一名が事故死、半数近くが国内で行方不明になっているのだ。それに関してブリタ側は不思議と沈黙を保っている。正式な抗議はおろか質問状の類も一切ないのだ。
ともあれ返答が来るとしても、しばらく先になるだろう。
彼が誰かは重要ではない。
彼が七勇者の暗殺のため世界中で勇者を追跡してきたハンターで、その手腕は皇女も一目置いているということが重要だ。
ジャックは酷く疑い深くこちらを視ている。
無表情だが、瞳の奥だけは殆ど睨みつけるようだ。
彼は目的のために、異国の海で瀕死の重傷を負った。驚異的な恢復を見せ、こうしてリハビリしながらも闘志を喪わない。
――実際に会ってひと目で判った。信用できる。
「色々あるんだよ。それで今日は、君に訊きたいこともあってね。勇者のスペシャリストとしての意見を伺いたい」
シドニアは本題に入った。誤魔化しが通じる相手ではないと踏んだからだ。
ジャックが使っているのは認識術などではない。それよりももっと原始的な、脅迫やプレッシャーに近いものだ。
彼の前では不思議と、嘘や誤魔化しは得にならないと悟らせられる。おそらくシドニア同様、ジャックという人間はこちら側の人間――嘘や誤魔化しを愛しているタイプの人間なのだ。だからこそ、そうしたものが究極的には得にならないということも知っている。
「まぁ、そっちの都合までは知らんがパトロンが増えるのは歓迎だ。それで? 何が知りたい」
「アサムという勇者を知っているかい」
アサム――? とジャックは天井を仰ぐ。
やがてやや暗い顔をした。
「聞いたことはある。俊足のヒポネメスって勇者からだ。アサムは昔いた勇者だ。高齢で引退したと言われているが、実は違うらしい」
「へぇ。知らなかった」
「ゴアやイグズスと違って目立たないからな。ソウィユノみたいなタイプだ。たぶんな」
「引退したのはどれくらい前? 強かったのかい?」
「はっきりとは判ってない。少なくとも、五年前の時点では引退して数年経ってた。いたことは判っているが勇者として活動した記録は殆どない。裏方だったようだ。気持ちが悪いのは――」
「気持ちが悪いのは?」
「アサムが現れる最初の記録は七十年前、海峡工事の出納係としての記録だ」
――出納係?
肩透かしを食らった気分になる。
「戦わないのかい」
「戦わなかった。事務方だからな。街から一歩も動かず、勇者への献金を勘定してたよ。ただ奇妙なのは、彼はしばしば姿を消していた。困った街の公務員が、そのとき帳簿を覗くと、そこにはその間の献金がきっちり記帳されていたんだ。まだ渡してもいない献金がだ」
「不正ってこと?」
ジャックは首を振った。
「その公務員は金を持ってきた。突発的なものだったがその時点じゃ不正もへったくれもない。記帳に嘘偽りがあれば不正ってことになるが、日付・時刻も金額も正しかった。帳簿の上では次の日も次の日も未来の入金の記録があって、不審に思った彼はしばらく見張っていた。でも記録の通り――業者や団体から献金は行われた」
「アサムには未来が見えた?」
「そうかもな。とにかく、不正じゃないからこの件は調査もなくその公務員の手記に書かれたのみ――まぁ、伝説だな」
「じゃあ、つまり未来視がアサムの『能力』?」
何気なくシドニアがそう尋ねると、ジャックは少し訝しんだ。
「『能力』? 俺はそんな風に勇者を見ないがね。能力というなら、歩いたり話したりもできる。いくつもある、奴らにできることのうちの一つだ」
面倒くさいなぁと思いつつ、シドニアは「言い方がよくなかった」と一応のところ詫びる。
「でも勇者はひとつ、妙な力を隠してるものだろう?」
「だから別にそんなこと決まったことじゃないって。何をもってひとつと数える? 複数なのかそもそもあるのか。はっきりとはわからん。どうしてそんな風に決めつけるんだ」
なるほど、そういう意味か――。
シドニア自身、勇者であって勇者というものを知らない。
自分がそうだから他もそうだと思い込んでしまった。それに自分の力をどう数えたらよいか、ジャックの言うようにそれもはっきりしない。
「アサムにそういう力があるのかは不明だ。奴の未来視がそれなのかも」
「実力は未知数かい。アサムは強いのかな。そういえば――トレスポンダ君。君は」
ジャックでいい、とジャックが遮った。
シドニアは「僕のこともシドニアと」と言ったが、ジャックからは「考えとくよ、民王サマ」と素っ気ない返事だった。
「ジャック、君はその、アサムも暗殺しようと?」
「なんでだよ」
「だって勇者だよ。放っておけないんだろ?」
「姫さんから何も聞いてないのか」
ジャックは呆れたように言ったが、少し笑い、緊張を解いたように見えた。
「勇者なら誰でも殺したいわけじゃない。俺が狙うのは、五年前のある時点で、勇者だった奴だ。はっきりとシロだと判ってる奴には関心がない。俺の邪魔をしなければな」
――そうか。
本当に緊張を解いたのはシドニアのほうだったかも知れない。
「まぁ実際、依頼次第ってとこもあるけどな。あんたや姫さんは国のためだろうが、存外勇者を恨んでる人間は多い。そういう依頼で調査することはよくある。それでも大抵の人間は、勇者を殺してくれなんて言わない。殺せるとも思ってない」
「調べただけで満足するのかい? それって意味があるの?」
シドニアがそう聞いたのは、純粋に興味本位からだった。
ジャックは頭を掻く。
「なんていうかな。大半の人間は、勇者を災害みたいなもんだと思ってる。地震が来るから、ハリケーンが来るから惑星なんて消してしまえ、海なんて干上がってしまえとは、普通は思わない。『あんたの亭主はこれこれこういう状況で、どういう風に死にました』って、きちんと調べてやりゃ納得するんだよ」
へぇ、みんな物分かりがいいね、とシドニアは軽口を叩いた。
しかしジャックは「物分かり?」と一層暗い表情をした。「子供が――」と口走り、すぐに飲み込む。
数度それを繰り返したのち、ようやくジャックは続きを語った。
「それでも子供が、なけなしの小遣いを持ってきて、『これで父ちゃんの仇を討ってくれ』なんていうのは一度や二度じゃない。そんな金は受け取れない。だとしても、調べて事実が判れば、皆正しく恨めるようになる。正しく憎めるようにもなるのさ」
「君はそれができなかった、というわけ?」
「ああ。まだ調べ終わっていないからな。復讐は俺の、俺たちものだ。あんたにも姫さんにも、指図されてやるわけじゃない」
判った、とシドニアは両手を挙げる。
「僕はそうだな。その他大多数と同じさ。つまり情報が欲しいだけ」
するとジャックは納得したようだ。
「まぁ、それにだ。アサムに関してだけは殺したくても殺せない。消えちまったからだ。最初の記録は七十年前。最後の記録は十年前」
「ちょっと待って。じゃあアサムは生きていれば七十歳以上?」
「七十年前の記録で既に爺様だった。並外れて長生き、つまりはまるで――マーリーンだな」
「大英雄クラスなんていうんじゃないだろうね」
「歳だけみたらな。アサムには未来が見えた。そして大英雄並みに長生き。そしてある日忽然と消えた」
シドニアは不気味なものを感じた。
得体が知れないというか――底が知れない。
「アサムが消えたことには彼の能力が関係あると思うかい」
「さぁな。単に老衰ってこともあり得るが、ただ引退したわけじゃなさそうだ」
鶏に未来を全て教えることができたら、発狂して自死するという。目も口も鼻もない存在に、目鼻を与えると死ぬという。まるでそんな話だ。
「病気やケガ。誰かに殺された可能性は?」
「アサムの能力が本物だったとすりゃ、その線は薄いだろうな」
それもそうか、とシドニアは納得した。
「もうひとつだけいいかい。アサムは、山岳部族と関係があるかい?」
「山岳部族? 西の奴らのいう蛮族か。それはちょいと思い当たらないな。でも――」
「でも?」
「アサムは大陸生まれだ。どこかは判らない。それからこれも確証はないが、奴の衣服、靴の装飾から――山岳のどこかの可能性がある」
アサムの靴は幅が広く、荒縄を幾重にも巻いていた。
滑り止めだというのだ。
「そうでなきゃ雪対策だな」
「魔術で融かせばいいのに」
「アサムは自然崇拝者だった。そういうことはやらない主義だったようだな。ちなみに奴の専門は土魔術だったみたいだ」
土魔術。
四大要素に数えられながら、女神を喪い、殆ど失われかかっている魔術だ。
山岳部族が、この絶滅寸前の魔術を巧みに使いこなしていたことをシドニアは思い出す。
「とにかくありがとう。助かったよ。僕はそこの庁舎にいつでもいるから、何かあったらすぐに来てくれよ」
「おい、情報料はでるんだろうな」
「勿論さ。まずここの払いは僕持ちにしよう」
シドニアは、ベリルの街並みと同じ真っ白な病室を見渡して提案した。
「それは姫さんから出てるから別の払いを頼むぜ」
***
――『復活』――か。
シドニアにはその言葉が気になっていた。
ジャックの言う通りなら、アサムは決して死んだわけではない。
復活という言葉にも解釈は幾通りかあるだろう。だが、少なくともゴンドワナの連中はアサムが『復活』しなければいけない状況にあるということを知っていたことになる。
力を失ったか、眠りに落ちたか、それとも死んだか。死んだのなら復活などはあり得ない。
シドニアはアサムなど名前すら知らなかった。
――僕の先輩だってのにね。
もし、アサムがゴンドワナの村のどれか出身ならば、勇者を退役後に戻ったことも考えられる。ならばアサムについて詳しく知っていてもおかしくはないだろう。
――いやむしろ、それしか考えられないか。
「よう、民王様。待ちくたびれたぜ」
そう声をかけられて振り向くと、真っ白い壁のところに少年が立っていた。
サイラス・ポルトマン。
――人違いじゃないよね。
シドニアはサイラスを従えて歩き出した。
真っ白い坂を下ってゆく。
「何も外で待ってなくてもよかったのに。この街は熱いだろ」
「ああ。ポート・フィレムとは大違いだぜ」
白壁の放射熱だ。こう陽が高くては日陰も少なくて堪える。
「家に帰ればよかったのに」
「ざけんな。誰が帰るか、あんな家」
資料では、サイラスは優等生だったはずだ。ノヴェルなどとは違って成績優秀。
もう一度調べてみると確かにサイラスは優等生で、名門『アグーン・ルーへの止り木』の御曹司に違いなかった。
ただ父との確執は、周囲が見るよりも深刻だったのか――彼はゴブリンの事件の後、ぷっつりと切れてしまっていた。
慌てた父は彼を例の教団に入れ、それが更によくなかったようだ。ほんの僅かな間に、彼は札付きの不良もかくやというほどに荒れてしまった。
シドニアを連れてポート・フィレムに行き、外国の要人を撥ね殺した彼は一時逮捕され取り調べを受け、ベリルの地下留置場に勾留――それでも尚、決して父の面会には応じなかった。
彼の父の、法律家を雇うという申し入れも拒否した。
民王が恩赦を約束しているのだから慌てることもないにせよ、地下留置場は決して居心地のよい場所ではない。シドニアがもし自分だったらと考えると、一分一秒でも早く出られるのならプライドも反骨心もかなぐり捨てる自信があるくらい、酷い場所だ。
ともあれ、そんなこんなあってシドニアはサイラスの父に頼み込まれたのだ。
サイラスの父は憔悴していた。勇者殺しの調査で、シドニアはかつて『アグーン・ルーへの止り木』にも足繁く通って、彼の話も聞いていた。その頃とは比べ物にならないほど。
――どうか息子を改心させてほしいと。
名門宿の跡取りとして相応しい人間に戻してくれと。
名門宿の跡取りに相応しい人間がどんなものか、シドニアには見当もつかなかったが――『余に任せよ』と応じたのだ。
実のところどうしたらサイラスが元通りになるのか、そのロードマップはない。
こればっかりは勇者の能力があってもどうしようもない。いくらシドニアが無数にいても、サイラスは一人きりなのだから。
「用事ってやつは済んだのかよ?」
「ああ、用事は済んだよ。少し調べ物があるから、君はそのへんでバギーでも乗り回してくるといい。気分も晴れるかも」
「ああ? おれがいつ塞ぎ込んだっていうんだ」
――だめか。
シドニアが調べ物と言ったのはまんざら嘘でもない。
彼がここ数日のドタバタに走り回っている間に、ゴンドワナの村ではぐれ、行方不明になっている彼の部下たちが戻ったかも知れない。
彼らが生きているなら、ファサのどこかで保護されてそろそろ自国に連絡があっても良い頃だ。彼らがファサの村で正体を明かさないことを選択したにせよ、自力で山脈を出て戻ってくるのに充分な時間があった。
しかし今のところその連絡はない。
シドニアには大規模な捜索隊を編成することもできたが――彼らは屈強な元軍人と元冒険者。まだ一週間だ。
まだ慌てるような時間じゃないはず。
「それによ、調べ物っていうならもう聞いてきたぜ」
「え?」
サイラスは不敵な笑みを浮かべると、「こっちだ」と日陰を目指して坂を小走りに下りてゆく。
民王庁舎からは離れ、街外れへ向かう方向だ。
渋々後を追うと、サイラスは日陰で紙を取り出していた。
そこには下手くそな絵が描かれている。
「あんたは、行方不明の仲間を探してるんだろ?」
「そうだ。でもこれは――女?」
絵に描かれていたのは女だった。
見覚えのあるような、ないような。
「あんたが探してるのはオルロだっけか? そいつじゃない。この女はその手がかり」
「手がかりって、いったいどうして――」
「なに。あんたのことを嗅ぎまわってる、山岳部族の女がいるって噂を聞いたんだよ。知ってる女か?」
知ってるも知らないもこの絵じゃ――とはまぁ、言わない。
せっかくあのサイラスが気を回してくれたのだから。
シドニアは代わりに絵をくるくる回しながら日陰を出た。
なんとなく、なんとなくだが――面影がある。
「ゴンドワナの――踊り子かい!?」
そのゴンなんとかってのは知らねえけどよ、とサイラスは言った。
「踊り子らしい。山から興行に来てるって」
「この街にいるのか?」
「二、三日前にいたらしい。オルソーに向かうんだとかなんとか」
オルソーか、とシドニアは南の空を向く。
確かに踊り子なら、ベリルよりオルソーのほうが空気がうまいだろう。
「でも、庁舎にも暫く帰ってないし、民王の仕事も――」
「そんなもんは手下に任せときゃいいだろ」
サイラスが言っているのはガヴィやカーライルたちのことだろう。彼はシドニアの能力を知らない。
どうする? 複製をだすか?
それともカーライルに?
迷っているうちに、すっかり街外れにまで来ていた。
「どうしたよ? 行くのか、行かねえのか」
「行くさ。行くとも」
そこにバギーが止まっていた。
サイラスは民王に向けて顎で指示する。
「乗れよ」