最強最悪のゼロ距離使いとの邂逅
グロ注意 心臓の弱い方は気を付けてください
ゼロ距離。色々な定義があるが、今回は相手と密着した状態をそう呼ぶことにしよう。
格闘家でも、武道家であっても滅多に経験することのない距離だろう。あえて言えば、相撲取りか夜の恋人同士でしか成立しない距離だ。
こと、戦闘においてゼロ距離が成立しない理由はいたってシンプルだ。そこに近づく前に勝負が決するから。
武器や拳が、距離を詰めてくる相手を無情にも突き放す。本来ならばゼロ距離での戦闘などは、起こるはずがないのである。
しかし、そのゼロ距離を支配する絶対的な使い手と邂逅した経験が、私にはある。
その使い手は、ゼロ距離の奥義を会得し、その一端を私に披露してくれた。
その奥義を見た瞬間、私の全身は総毛立ち、時間の流れというものが一定ではないことを悟ることすらできた。
今回はその時のお話をしよう。
あれは夏の暑い日だった。
二階の自室で勉学に励んでいた私は、不意に背中に違和感を覚えた。
違和感と言っても大したものではない。背中が痒くなった、その程度であった。
適当に背中をかき、再び目の前の問題集に注意を向ける。
確かに、その日は暑かった。
私の部屋にはエアコンはなく、窓を大きく開けて風を部屋に呼び込んでいた。
当然のように汗をかき、それが背中を伝ったのだ。その瞬間の私は、背中の痒みをそう解釈していた。
当時の私の集中力は、今までの人生の中でも最高に近いレベルであったと自負している。
エアコンのない部屋で、難解な問題集に黙々と打ち込むことができていたのだから、間違いない。
目の前の問題へ視線をやり、たまに目を閉じてそれを解き崩す方法を脳内で模索する。そんな果てのない作業を延々と繰り返していた。
しかし、人の集中力にも限界はある。当時の私にもその時は不意に訪れた。
姿勢が悪かった私は、猫背気味に前かがみに机に向かっていた。
集中の切れた私の目線は、目の前の問題集からしばし解き放たれ、宙を彷徨った。
しばし、という表現は適切ではなかった。問題集から離れた目線は、唐突に自分の胸元に吸い寄せられることになる。
私の胸元をおしゃれに飾るようにごきぶりがそこにいた。
そして、時が止まる。あるいはそう感じられるほどにゆっくりと、その瞬間のことを今でも記憶している。
漆黒にして沈黙の、最強にして最悪のゼロ距離使いと、私は確かに"目が合った"。
そして、挨拶するように左右の触角が"ピコピコ"と左右に揺れた。
時間にして0.1秒もなかったと信じたいが、ひょっとしたら余りの出来事に数秒ほど硬直していたのかもしれない。
そして、時が飛ぶ。次の瞬間、気が付けば私は一階のリビングで上半身裸になって半狂乱になっていた。
声にならない悲鳴をというものを、初めて上げた。思考がパニックに陥り、体に正しい命令が出せなかったのだろう。
漆黒のゼロ距離使いは、物音も気配も消して私の胸元に忍び寄り、そこに存在するというだけで私に徹底的な致命傷を与えて去っていったのだ。
それから一か月近く、机に座ってもまともに勉強に集中することはできなかった。
これを致命傷と言わずして何と言おうか。
私は、武器や拳などを使わずとも、あるいは罵詈雑言などを使わずとも、人を壊す方法があることをその時に知った。
ゼロ距離とは、そんな恐ろしい悪魔のような空間なのである。