第16話 新学期 後編
さて、気を取り直していこう。
先程は飛んだ邪魔が入って教室へ入ることができなかったが、もう邪魔はいなくなった。
仁は教室のドアに手を掛け、思い切って開ける。目の前に広がる、教室の光景は
「は…?」
もぬけの殻だった。
仁の口からは間抜けな声が漏れる。
訳がわからない仁は透里に問いただす。
「あ、あの、透里さん?」
「なぁに恵さん?」
「なぁにじゃなくて…。どう言う状況ですか、これ?」
「見ての通り、空の教室だわ」
「私はその見ての通りの状況について疑問を抱いてるということを、いちいち口に出さないと通じないのですかね…」
いや、てっきりクラスの大半がもう席に座っていて、突然教室に入ってきた自分を見て、皆が驚く光景を仁は想定していた。さすがに想定外すぎる。まさか一人もいないとは。
それどころか、廊下からも人がぱったり消えてしまった。普段から騒がしい歩美の声も廊下から響いてこないということは、恐らく彼女もあの後どこかへ行ってしまったのだろう。
「ねぇ、ちょっと仁…?」
何か起こってしまったのではないか、そう思いあたふたしていた仁に透里が声をかける。
「ね、ねぇ透里。何で誰も人がいないんだ…?」
「ひとまず落ち着いて。よく考えなさい、今日は新学期初日でしょ?皆が行く場所と言ったら一つしかないじゃない」
「あ」
そうだ。今日は新学期初日だった。新学期初日と言ったら朝会だ。わざわざ全校生徒を体育館に集めてくだらない話を延々と聞かされるあれだ。
どうりで校舎に人気がない訳だ。
思い返せば裕翔と拓も体育館シューズを持っていた。鈍感にも程がある。
結局、無駄な事に緊張しすぎて体力をすり減らしてしまった。
透里が一度教室へ来たのは荷物を置くためであって、よく考えれば誰でも分かる事だった。仁はまだ自分の机が分からないので、とりあえず後ろのロッカーの上に荷物を置いておく。
そうして、二人は並んで体育館へと歩いていく。背丈が全く違うので、透里の歩くスピードに仁が頑張って追いかけていく形だ。
「ねぇ、仁?」
「だから私は白戸恵だって…」
「誰もいないから別にいいでしょ。堅苦しいわ」
「学校にいる時はその設定でいろって言ったの誰だよ…」
「ん?」
「何でもありませんよーだ」
「なんかムカつくわね」
「それで、何でしょうか?」
「いや、何でもないわ」
くるっ、と前を向いて透里は笑う。
「…?何なんだよ一体…」
少し嫌な予感はするが、まぁいいか。
無駄に大きい校舎の廊下を二人は歩いていく。体育館は教室棟の反対側にある渡り廊下を渡った先にある。その間には部室棟、作業棟、文芸棟などの部活関連のエリアが並ぶ。とにかく、広くて遠い。
文芸棟に差し掛かると、グラウンドの見える窓の反対側の窓に大きな中庭の景色が広がる。
そこでは夏らしい、青々とした葉が揺れていた。所々に木陰もあるので、昼寝をしたら気持ちよさそうだ。
「あんなところで昼寝なんてさせないわよ」
急に透里が呟いた。
何故人の心が読めるんだこの野郎。
文芸棟を離れようとした時、中庭で動く影を仁は見つけた。
(何だ…?)
影の正体は木陰に寝転ぶ、一人の少女だった。上には赤いラインの入った黒いパーカーを着ていた。不審者かと思い、一瞬嫌な思い出が蘇りかけたが、下には丈を短くした学校指定のスカートを履いていたため、この学校の生徒であることは分かった。
(こんな時間に寝ているってことは、…サボりか?)
「何してるの?早く行くわよ」
角を曲がりかけた透里が仁を呼ぶ。
正直羨ましいとも思ったが、透里を待たせるわけにはいかない。仁はもう一度少女を視界に入れ、透里の元へと走っていった。
渡り廊下は体育館へと繋がる人の波で溢れかえっていた。
恐らく入口辺りで詰まっているのだろう。波は少しずつ前へと進んでいく。時刻は八時三十五分。朝会開始は四十分なので間に合うはずだ。
波は、ようやく入口まで進む。体育館に入ると、熱のこもった嫌な空気が肌を撫でた。まぁ、全校生徒をこの体育館に詰め込んでいるのだ。そうもなるだろう。
生徒は右から一年生、二年生、三年生の順に並んでいた。仁、及び恵のクラスは八組だ。左手にある三年生エリアの中から八組であろう場所を探し、最後尾に並ぼうとしたが、それは叶わなかった。
仁は透里に腕を掴まれ、そのまま教師達のいる席の端まで連れていかれた。
当然、仁の頭にはクエスチョンマークがいくつも浮かぶ。
「あのぉ、と、透里さん?私にはこの状況が微塵も理解できないのですが…?」
「まぁ、いずれ分かるわよ。じゃあ、また後でね」
「ええっ!?ちょ、ちょっと!?」
そのまま透里は手を振りながら自分のクラス、八組の列の最後尾に並んだ。
置き去りにされた仁は、仕方なく端にいた教師の影に隠れるようにして、用意してあった椅子に座った。
周りの生徒の仁に向けた「この子誰?」という視線の数は言うまでもない。もちろん端にいた教師にも、ん?という視線を向けられた。
この気まずさ、注目度は普段あまり人と関わらない仁にとっては、地獄としか言いようがなかった。
「えー、それでは定刻になったので、全校朝会を始めたいと思います」
ステージ上の教壇から、髪の薄い教師が朝会の始まりを告げていた。
(よく分からないけど、とりあえずここで終わるのを待つしかないか…)
周りからの視線に耐え続けることを決めた仁。
しかしこの後、これ以上の地獄を味わうことになろうとは、思ってもいなかった。
■
「ハメやがったな透里ィ!!」
朝会が終わり、校舎の廊下には教室棟に向かう生徒達で再び人の波ができていた。
しかし、今度の波は先程とは違う異様な雰囲気に包まれていた。
「何よ。良かったわよ、あのスピーチ…ふっ」
「吹き出してんじゃねぇか!」
「ほら恵ちゃん、言葉遣い。周りから変な目で見られるわよ?」
「くっ…、この売女がぁ…」
「言葉遣いには気をつけなさいと言ったばかりよ」
「ふみゃぁぁぁぁ!い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
また鼻を摘んで持ち上げられた。
メキメキ、と変な音がした、…気がした。
そして、この人の波による異様な雰囲気の正体は、周りから仁への、熱い視線によるものだった。
大半は可愛いもの目当ての女子であり、ロリコンであろう男子達が隙間からチラチラ覗いているのも見えた。
「可愛い〜。食べちゃいたいくらい可愛い〜」
「ねぇ、さっきのもう一回言ってよ〜」
一斉に女子達が仁の周りに群がる。
どうしてこうなったのか、理由は三十分前に遡る。
新学期の朝会は開始と同時に校長による、「誰が聞いてんだよ話」が続いていた。
夏なのだから早く終わらせればいいものの、最近起こった事件からどういう経路をたどったのか、自分の家の愛犬のことを話し始める始末。
それでもって、朝会の間は団扇などで扇ぐのはやめましょうなどと言うものだから、生徒の不満が溜まるのは仕方ないことだと思う。
結局話し切って満足した校長の話は二十分も続いた。よく、倒れた人がいなかったと感心したいくらいだ。
いつもの流れならこの後は、夏休み中に成績を残した部活の表彰と、校歌を歌って解散のはずだ。もう少しの辛抱だ。
順調に表彰は終わり、校歌斉唱へと移る。一応仁は転入生としての扱いなので、周りをきょろきょろして、歌わないでおいた。まぁ、日頃からこういった式典での校歌は歌っていないのだが。
さて、解放だ。仁がそう、席を立とうとしたその時だった。
「えー、では、転入生の紹介に移りたいと思います」
「…は?」
髪の薄い教師が朝会の終わりを告げずに、思いもしないコーナーの始まりを告げた。
「それでは、この度我が校に転入してきた、白戸恵さん、壇上へお上がり下さい」
「え?…はい?」
全校生徒の視線が仁の方へ、一斉に向く。
教師席の教師達も、覗くようにして仁を見ていた。
会を仕切る薄毛の教師は早く早くと手招きしながら仁を呼んでいた。
転入生は年に数人、この学校にはやって来るが、今まで一度もこんな会は開かれなかった。会のプログラムは理事長が作っていると、透里から聞いたことがある。透里はこの学校の理事長の娘である。さらには、その父親を顎で使っているとも言っていた。
まさか!
仁は直ぐに透里を見る。
にやにや笑っていた彼女は、ステージの方を指さし、口を「は、や、く、い、け」と動かしていた。
あの野郎!!
「白戸さん、壇上へどうぞ」
教師によるまくしたてるような声。
全校生徒による、早くしろ、という視線。
…やるしかないのか…。
仁は渋々、ステージの上へと上がる。
教壇の前に立つと、体育館中にどよめきが走った。
「可愛い〜」
「え?転入生?えー、どこのクラスだろ〜」
ざわざわと、生徒は仁を見て騒ぎ始める。
「本当に高校生?」
そんな声も聞こえた。
ほっとけ。
「えっと、皆さん、おはようございます」
早く済ましてしまおう。腹をくくった仁は、そう思って颯爽とマイクに向かって声を出す。
この背の低い姿では、背伸びをしないと教壇から顔をのぞかせることができない。
やらせるからにはそこまで計算して準備しろよ、と透里に対して思ったりもしたが、今はそんなこと考えている場合ではない。
「この度、三年八組に転入することになりました、白戸恵です。こんな時期にイレギュラーな形で皆さんの仲間になりますが、仲良くしてくれると嬉しいです」
何とかそれらしい言葉を並べて場を繋げる。
あとはよろしくお願いしますの一言を言えば終わりだ。こんなところ、とっとと下りてしまおう。
そう急いでしまったのが、いけなかったのだろう。
仁の口から出た言葉は、出そうと思っていた言葉通りにならなかった。
「よ、よろしくお願いしましゅ!」
………………………………………………………。
(か、噛んだーーーーーーーーーーーー!!!)
………………………………………………………。
数秒の沈黙。その後
館内が揺れるほどの大爆笑が起こった。
仁の顔は瞬く間に赤く染まっていった。
そして現在に至る。
「よろしくお願いしましゅ…。ふふふっ」
透里は未だに笑っている。
今も仁の周りには沢山の女子が集っているというのに、彼女が怒る気配は微塵もない。
「もうどうにでもなれ…」
仁は遠い目をしてそう思うのだった。
こうして、仁、白戸恵の新学期が今、スタートする。