第15話 新学期 前編
八月二十八日。
夏休みも終わり、学生は今日から再びいつもの学校生活が始まる。言わば始業式の日だ。
暑いだの、かったるいだの、課題が終わってないだの、全国の学生が憂鬱になる日でもある。
高校三年生の武田仁も、今日という日が嫌で嫌で仕方がなかった。
別に課題が終わっていなかったり、暑さが嫌という訳では無い。いや、暑いのは嫌か。
仁の鬱の正体は他でもない、幼女化した姿で学校へ行くことだった。
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玄関の扉を開け、仁はマンションの廊下へ出る。左手にあるエレベーターで一気に一階まで降りる。ロビーでは気だるけそうな管理人のおじさんが掃除をしていた。軽い会釈を交わし、自動ドアをくぐって外へと出る。
八月も終わりに差し掛かるというのに、夏の日差しは容赦なく辺りを煌々と照らしていた。じっとしているだけでも汗が吹き出してくる、そんな暑さだ。
仁の通う高校は最寄りの駅から電車に乗って四つ先の駅で降りた所にある。家から学校まで大体三十分程度だ。
仁のいるこの県は、人口では日本でも五本の指に入るほどの栄えた県だが、仁の暮らしている町はその県内ではあまり目立っていない静かな町だ。高いビルはこの町では見たことがないし、観光目当てで来るような所でもない。唯一の良点と言えば海がある程度だ。隣町の方がこの町より何倍も栄えている。確か若者が住みたい街の上位にも入っていたと聞く。
まぁ、そんな街なもので、朝七時半の時点では道にはあまり人気がない。
蝉が騒がしい夏の道路を歩き続けること約五分。住宅街を抜けると仁の目指した駅が見える。周りにはコンビニや、郵便局、市営バスの控えめなバスロータリーなどがある、小さな駅だ。
三台しかない改札機に定期券を翳し、ホームへと降り立つ。スーツを着た見るからに暑そうなサラリーマンが一人、仁とは別の制服を着た女子高生が二人、男子高生が一人と、この駅の朝のホームはとても静かだ。
そんな中一人、見慣れた人物がホームの椅子に座っていた。長い黒髪は腰の位置まで伸びていて、凛とした横顔はどこか大人びたような、そんな気品がある。読んでいる本は単語帳だろうか、何やら小声でブツブツ言っていた。
「おはよう、透里」
「……つもり?」
「え?」
「いつまで私を待たせるつもり?もうここに座って三つも電車が前を通って行ったわ」
「そんな訳ないだろ。次来る電車が今日三本目だ」
「じゃあ二つ通って行ったわ」
さてはついさっき着いたばかりだな…?
彼女は真澤透里。容姿端麗で成績優秀、さらには運動神経も抜群。男子はともかく、女子にもラブレターを貰ったという伝説を持っている、なんでも出来る万能女子だ。驚くことに仁の彼女でもある。このことは周りには秘密にしているが、何だか最近はもうどうでも良くなってきている。この関係に気づき始めている奴が多くなってきているからだろうか。まぁ、仁がこの姿ではカップルと呼べるのかは定かではないが…。
「それにしても、よくその姿で学校行く気になったわね」
「いやいや…、無理やり行くの承諾させて、制服採寸させたの誰だよ…」
「何?あのデートはつまらなかったとでも言うの?」
「滅相もございません」
そんな他愛もない会話をしていると、ホームのスピーカーからどこか気だるさを感じさせる男性の声が、電車の到着を知らせる。
まもなくして、銀色の車体にブルーのラインが入った四両編成の電車が、仁達の前に止まる。
冷房の効きすぎで鳥肌が立つ車内には、サラリーマンや同じ制服の学生、そうでない学生がいて、そこそこの数の乗客が乗っていた。
最後尾の車両に乗った仁と透里は、とりあえず座れる座席が無いことを確認して、車両の隅に立つことにした。
「そう言えば夏芽ちゃんから聞いたんだけど、この前痴漢にあったらしいじゃない。大丈夫だったの?」
「大丈夫なもんか!酷い目にあったよ、ほんとに。人前であんなに泣きわめいて…」
「そう、じゃあ私が今痴漢したら仁はあの状態になるのかしら…?」
「あの時はちょうどトンネルに入って、窓が鏡代わりになったから俺の下着が見えただけで…、って何しようとしてんだよ!?」
「あらそう。残念」
透里の目は心底がっかりしたように見えた。 さすがにこれから学校だと言うのに、あの状態になる訳にはいかないだろう。何を言ってるんだこの女は。
「!?いっ、痛い痛い!?」
急に鼻を摘まれ、上に持ち上げられた。周りから見れば、美人な女子高生と幼女な女子高生がじゃれあってるだけに見てるかもしれないが、やられてる本人から言えば、めっちゃ痛い。まじで。意外と痛いからね?これ。
「何か私を馬鹿にするようなこと考えてた目をしてた」
「そんな確証のない理由で俺はこんなことされなきゃいけないの!?ちょっ、ほんとに、ぎぶぎぶっ…!」
電車は高校前の駅に到着する。
駅のホームには、仁と同じ制服を着た生徒が続々と降りてくる。
久しぶりー、と声をかけ合う女子や部活動の鞄を背負っている男子など、色々な生徒達が同じ制服を着て学校へ向かう。夏休み前のいつもの日常が帰ってきたようだ。
「あううー、鼻、折れたかも…」
「そんなに強くやってないでしょ」
「ほんとに痛かったからね!?」
生徒の波が駅から流れ出ていく。仁と透里はその波の中を歩く。
駅から学校まではそう遠くない。踏切を渡り、坂道を登った所にでかでかとした校門がある。そこが仁達の高校だ。
「ねぇねぇ、うちの学校にあんな子いたっけー?」
「可愛い〜。一年生かな?それとも転校生?」
坂道を登る途中でそんな声が後ろから聞こえた。恐らく仁のことを言っているのだろう。
「やっぱ浮いてるのかな…、俺」
「えぇ、かなり浮いてるわ」
「そこ正直に言うところ!?もっとこう、大丈夫だよとか、言ってくれるのが優しい彼女ってもんじゃないの!?」
「正直なことを正直に言って何が悪いのよ」
「……。はいはい、そーですねー……」
「……」
「待って!!無言で鼻摘もうとするのやめて!いやぁぁぁぁっ!痛い痛い!!」
実際のところ、仁の存在は周りから見てかなり浮いていた。仁の高校は周りでも有名な私立進学校だ。髪を染めることは許されておらず、地毛でない限り黒以外の髪色は認められていなかった。
そんな中で見たことも無い幼女が、さらには綺麗な白髪を持って周りと同じ制服を着て学校に向かっているのだから、周りからの注目は全て仁に向くのだろう。
「きゃー!可愛い!ねぇ、一緒に写真撮ってもいい?」
「君何年生?その髪って地毛?いいなぁ私も染めたーい」
二人組のキラキラ女子達が仁に迫ってきた。
「えと、あの、その…」
「いくよー、はいチーズ〜」
ぱしゃっ。
よく分からないがとりあえずピースしておく。
「ありがとね!君何年何組!?私達二年なんだけどー…、ひっ!?」
「私達は三年生です。通りたいのだけれど、ちょっとどいてもらえるかしら…?」
ゴゴゴゴゴ…。
透里さんご立腹でございます。
「ご、ごめんなひゃい…」
完全に呆気にとられたキラキラ女子達。
透里は無言でその間を通っていく。
まずい、何とか機嫌を取り戻さなくては。
「と、透里さーん…?」
「最低」
「はい?」
「女子に囲まれて鼻の下伸ばして、最ッ低。良かったわね、その姿になれて。その姿じゃなかったら、あんなラッキーイベント起こらなかったものね」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!俺鼻の下なんて伸ばしてないよ!」
「最ッ低」
「だから待てって!俺は透里以外の女子と話すことはほんとに苦手なんだよ!っていうかああいうタイプの女子じゃ尚更だ!いいか?俺は今まで鼻の下を伸ばした女子なんて透里しかいないし、これからもそうでありたいと心から思ってる!」
「…、何か気持ち悪いけど、まぁいいわ。許してあげる」
「何で俺が許される立場になってるんだ…」
しかしというもの、校舎に入るまで、似たような出来事が何回も起こった。その度に透里の機嫌を取らなくてはいけない羽目になった。
新学期、さらにはまだ校門をくぐって五分の出来事。これからの学校生活を考えると
「不安だぁ……」
仁の新たな学校生活の幕開けである。
■
生徒相談室での話し合いが終わり、部屋から出る仁と透里。
仁は一応、転校生という扱いでこの場にいる。編入試験などは、理事長である透里の父が誤魔化してくれたみたいだ。
透里は何故か仁の保護者代理役を父親から命じられたらしい。
中では、校長と担任との挨拶を交わし、早速だがということで進路希望を聞かれた。
大学進学を希望する旨を伝え、志望校はまだ伏せておいた。もちろん透里と同じ難関国立大を目指しているのだが、いきなりそんなこと言って先生に変な目で見られるのも嫌だったので、今回は言わないでおいた。
「何で志望校言わなかったのよ」
「いやぁ、いきなりハイレベルな学校言って、期待外れな成績しか取れなかったら嫌だなぁって」
「そんな低い成績取らなければいいじゃない」
「いや、俺まだ自信なくて…」
「さては夏休み勉強してなかったわね?あんなにしたした言ってたのに」
「ちゃんとしたよ!」
「じゃあ堂々とすればいいじゃない」
お前は俺の親かっ!そう言いたくなる会話だ。
「あ、あと校内では『俺』と言うの、やめておいたほうがいいかもね。隠したいのであれば」
「あ、あぁ。そうだね」
ちなみに名前もしっかりと偽名を使っている。前に使った武石仁子ちゃんという偽名はあまりにも怪しすぎるという理由で却下された。
これから校内では白戸恵を名乗ることになった。名付け親はもちろん透里。もっと変な名前をつけられると思ったが、ちゃんと真面目でこれはこれでつまらない、ということは言わないでおいた。
「おっ、おはよう二人共。今日も朝からお熱いね」
「やっぱ戻らなかったんだね、仁。一回でいいからそのほっぺた触らせてくれない?」
白髪混じりの男子と太っている男子が声をかけてきた。新川裕翔と齋藤拓だ。
仁の学校内の数少ない友達の二人。よく三人で遊んでいて成績不良だったため、周りからはデストライアングルなんて呼ばれたりもしている。
「おう、おはよ。それで拓、戻らなかったってどういうことだ?」
後半の方は無視して、気になった部分だけ本人に聞いてみた。
「いや、仁がその姿になったのは夏休み初日だろ?ひょっとしたら夏休み明けたら元の姿に戻るのかなって考えてたんだけど…。まぁ、なかったな」
「何その夏休み限定の天国」
「まぁ、クラスも違うし、色々と話してたら周りから面倒くさそうだから俺らもう行くよ。何かあったらメールで教えてくれよな」
「おう、せんきゅ。あと俺、じゃなかった私の名前これから白戸恵だから、よろしく」
「ははっ、誰だよその名前付けたやつ。センスな…、ひっ!?あ、俺用事思い出した!じゃねー!」
透里さんによるスーパー殺気!野生の拓と裕翔は逃げ出した!
「それで?お、私これからどうすればいいの?」
「普通に教室に行くだけだけど?」
「いや、だってまだ朝のホームルームまで十分近くあるよ?」
「うん。だから何?」
「え?あのお決まりの転校生が来たぞーっていう朝のホームルームイベントは!?女子である私が来て男子共がうえーいってなるあのお決まりイベントは?」
「そんなものないわよ」
「えぇっ!?」
「そもそも男子に喜ばれたところで、仁は嬉しいの?」
「確かに全く嬉しくない。あと間違えるな、私は白戸恵だ。間違っても人前で仁って呼ぶんじゃないよ」
「あら失礼」
とりあえず教室の前まで行く。クラスは夏休み前のクラスではなく、透里と同じクラスへ行くことになった。
いつ姿が戻っても大丈夫なように、武田仁の出席簿は休学という形になっている。
「何?緊張してるの?」
「いや、周りにどういう目で見られるか心配になっちゃって…」
自然と顔が強ばっていたようだ。心拍数が自分でもわかるくらい上がってきている。
するとそこへ
「おおっと!その可愛らしい幼女は!まさか!武田じ…モゴゴっ!」
「馬鹿!声がでけぇよアホ!」
慌てて大声を出した張本人の口を抑える。元、仁のクラスの学級委員長佐藤歩美だ。
落ち着いてきてから、彼女の口から手を離す。
「はぁっ、はあっ、朝からこんな幼女に迫られるなんてっ、私死んじゃうっ!」
あぁ、駄目だこいつ…。
「いいか?俺、じゃなかった…。私は白戸恵だ。くれぐれもっ!武田仁と呼ぶんじゃないぞ…?」
「いいけど、それを呑むには条件があるわ」
「?なんだ?」
「真澤透里が見たという!それよりもっと可愛い姿というもの、今度私にも見せなさい!」
「だから声がでけぇって!」
「それが条件よ」
ちっ、痛いとこついてきやがって…。
「わかった。『今度』な」
「うんうん、素直になればなかなかいい子じゃない。じゃ、またね。め、ぐ、み、ちゃん」
そう言って、歩美は自分のクラスへと戻っていく。
「透里、やっぱり私あいつ嫌い」
「うん、その気持ちすごくよく分かったわ」
クラスに入る前からとっくに疲れ果てている仁であった。