過去と傷
「『いじめに関する講義』か……」
二時限目のLHRの前の休み時間。
次の時間の為に教室から視聴覚教室に移動する途中で、その日のLHRの内容を聞いたその時、彼女は少し、ほんの少しだけ苦い顔になった。
「どうした?」
「ん?いや何にも」
そう言った彼女はいつもの屈託の無い笑顔をこちらに向けた。
その様子はあまりに普段通りで、今さっき見たあの苦い表情は少しも見当たらない。
---気のせいか?
そう思って「そっか」と返して、話はこの講義の後に待ち構えている感想文についてに変わっていった。
視聴覚教室に入るとすぐにチャイムが鳴った。
遅く来た者は小走りに教室に入り、それまで教室内で談笑をしていた生徒たちも、蜘蛛の子を散らしたように各々指定の席に着く。
この教室は、ちょっとした集会や行事、小さな鑑賞会などに使われる為、そこそこ大きめに作られているのだが、一学年が入るとなると少し窮屈に思える。
そして、学年主任と今日の講義のために呼ばれたのであろう特別講師の先生が教壇に立つ。と先に打ち合わせがあったのだろう、隣のクラスのクラス委員が号令をかける。
それに合わせて学年全員がいつものように、飽き飽きするのを通り越してもう体に染み込んでしまっている授業前の挨拶をする。
「起立。礼。着席。」
ガタガタと騒がしい椅子の音が引くと、前に立っていた学年主任はマイクを手に持ち、一言、二言前座のような話をして、特別講師の先生を紹介した。
紹介を受けた特別講師の先生が一礼をし、拍手とともに講義は始まった。
講義の大まかな内容はあまり変わった物ではなく、まあ言って仕舞えばよくある内容、よくある話だった。
しかし、隣に座っていた彼女は講義が始まった直後から、真剣な表情ながら何処か遠くを見るような、そんな目で、前で話をする講師を見ていた。
---どうしたんだろう。
そう思いつつ、教室内の雰囲気から話しかける訳にもいかず、再び前を向いて話を聞いた。
講義の内容は徐々に実際にあった事例の話になってくる。
それはとても生々しく、聞いているだけで実に心苦しいものだった。
些細なきっかけからのものや喧嘩の延長、中にはきっかけは分からないが雰囲気や自分の立場の為という事例もあった。
事例に出てくる人物は中学生や高校生、果てには小学三年生というものまであった。
---小学生でここまでするのか
そんな驚きと、加害者に対する嫌悪や憎悪に似た感情まで湧いてくる。
それと同時に、自分の周りの平穏さが、友人に囲まれている事がいかに幸せかがよく感じられた。
そして、友人の一人である彼女の方を、隣の彼女の方を見ると、彼女は俯き、シワになるのも厭わずギュッとスカートを握りしめ、ほぼ口パクに近いほど小さく何かを繰り返していた。
「大丈夫?」誰にも気づかれぬように慎重に声をかける。
彼女はハッと顔を上げ、血の気の引いた顔に小さな作り笑いを浮かべて頷いた。
---嘘だな
彼女が無理をしているのはわかっていたが、それを隠そうとしている以上何もできない。
先生を呼ぶにしても、この場から離れるにしても、ここで何か行動すれば確実に誰かにバレて注目されてしまい、必死に不調を隠している彼女の努力を無駄にすることになるだろう。
とりあえず「何かあったら言って」とだけ言って、あと十五分、授業が終わるのを待った。
いつものようにチャイムが鳴り、授業が終わった。
クラス委員は特別講師の先生にお礼の言葉を言って、いつもの号令を掛ける。
講師の先生が学年主任と退出された後に、担任の解散の指示で生徒たちはダラダラと視聴覚教室を後にした。
彼女とともに他より少し遅く視聴覚教室を後にしてゆっくり廊下を歩いていると、彼女はまた笑いながら「ありがとね」と言った。
どう返せばいいのか迷っていると彼女は、
「あーあ、やだね。もう、もう五年も前のことなのにね……」そう自嘲し笑った。
その時はそのまま、彼女の曖昧な笑顔に誤魔化され、それ以上は何も言えないまま、何も聞けないままに隠されてしまった。
あの時どう答えればよかったのだろう……。
どう答えれば『正解』だったのだろう……。
そして。
いつになれば彼女の傷は癒えるのだろう……。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
少しでも誰かに届けばいいな、と。
By仮名