シルクハット宇垣
–––––––天野 光聖を取り逃がした。
あの深手ではいずれ命も尽きるだろうが、首を切り落としたわけでも死んだことを確認できたわけでもない。
この世界には、俺たちが召喚される前に暮らしていた世界にはない魔法というものが存在する。
それに、この世界における異世界人は超人的な身体能力を持っている。
取り逃したということは、生き残る可能性がわずかであっても残っているということに他ならない。
そして、天野 光聖という男はその土壇場で周囲が想像もしていないような幸運を引き寄せる、そういう素質があるとみている。
さもなくばあれほど無鉄砲な熱血暴走正義漢が法治国家の中であの性格のまま高校生まで上がるとは思えない。
その幸運を引き寄せるのも、一種のカリスマなのだろう。
だからこそ、あの場で確実に仕留めておきたかった。
しかし、おそらく転移の魔法と思われるが、瞬間移動による離脱を許し、見失ってしまった。
人間軍の陣地に撤退したとなれば追撃の余地はあるが、魔王のいる右翼の戦況が数に勝ながら押し切れていない様子である。
押してはいるが、崩れている人間軍の前線に対し、魔族軍の追撃が浅い。
中央の戦場では人間軍の本隊が左翼方面から送られてきたらしいベルゼビュート配下の軍勢と激突している。
奇襲に成功したらしく、数で圧倒的に劣っていながらもその陣形を巧みに切り崩している様子だ。
だが、あのままではいつか疲労が蓄積していき、すり潰されてしまうだろう。
中央の増援が今の思うように戦線を押しきれていない右翼の戦場に乱入することがあれば、魔族軍の主力は壊滅してしまう可能性が高い。
苦戦を強いられているのは、人間軍の奮戦というよりは、魔族軍の統率が乱れているように見える。
右翼の戦場をもともと支えていた軍勢の統率者に加えて、魔王ルシファードが自ら出ているあの軍勢に指揮官が不足する可能性は少ないはずだが。
人間軍の戦線は確実に崩壊している。後方に待機していた軍勢が合流してきているようだが、それでも数の上ではまだ魔族軍の方が上回っている。
しかし、魔族軍の行動に統率性が欠けているように見える。十分に人間軍への攻撃を加えられていないようだ。
逃げる者と立ち向かっていく者がぶつかり人間軍もかなり混乱しているため、被害はあちらの方がはるかに多くなっているようだが。
もしくは、ルシファードに何かがあったのだろうか。
そうなれば、魔族軍の士気も危ういだろう。
救援に行くべきか逡巡する。
戦局を見る限り、中央か右翼、どちらにも増援が必要だ。
そして、現状の魔族軍には自由に動き回れる戦力が俺しかいない。
………仕方ない。人間軍の陣地に撤収した可能性を考慮しここは天野 光聖の追撃を行いたいところではあるが、この戦況では魔族軍が窮地に陥る。彼らを守ることが魔神からの要請である以上は見過ごせない。諦めて魔族軍の救援を行うことにする。
今の人間軍に攻め立てる余裕はなくなっているだろうから、この混乱の隙をついてフラウロス山脈まで後退させて防衛戦を展開するのが良策だろう。
各個撃破戦術は右翼の戦場が押しきれなくなってしまっている以上、もはやその優性を失っている。包囲される前に有利な場所まで後退して戦線を立て直す方が利口である。
天野 光聖が戦場から消えたと知れば、人間軍のかろうじて保たれているだろう士気は霧散するはずだ。
どう戦況が動くにせよ、魔族軍には統率者が必要だ。
そうなればベルゼビュートに話を通し軍を動かしてもらう必要がある。
俺の存在はまだ魔族軍には認知されていないだろうから、味方の後退支援に入る前に全軍に後退命令を出せる権限のある人物との接触が必要である。
左翼の戦場に目を向ける。
そこは既に決着がついたのか、見た限りは静かになっている。
だが、その中心部に目を向けようとした時、そこから突然まばゆい閃光が起きて一瞬視界を遮られた。
何かが猛烈な速度で消えていった様子である。
残っていたのは、倒れこんでいる三元帥筆頭のハエの魔族と、人間たちの骸ばかりだった。
疾駆の鎧を用い、すぐさまベルゼビュートのもとに駆けつける。
岩に背中を打ち付けて座り込んでいるベルゼビュートに声をかける
「ベルゼビュート。聞こえるか?」
「あ、アカギ殿………」
意識が回復したらしい。
外傷や出血はみたところほとんどなさそうだが、腹部を抑えているので何らかの強力な攻撃を受けてしまったのだろう。
ベルゼビュートに肩を貸して立ち上がらせる。
「申し訳ありません。婚約者殿に逃げられました………」
ベルゼビュートの状態をみて推測できていたが、日向の確保は失敗したとのことだった。
訂正していなかったので、婚約者呼ばわりされているが、彼女に関しては無事だというならば関係ない。
「今は安静にしているべきだろう。詳しくは後で聞く」
左翼の戦場は離れた位置にある。
ベルゼビュートを一度シェオゴラス城に引き上げ、戦況を確認をさせたほうがいいかもしれない。
ベルゼビュートは気絶する一撃をもらったものの、怪我自体はそれほどのものではないと言った。
意識もはっきりしているし、痛みも当初に比べれば良くなってきているとのこと。
「アカギ殿の方は………?」
魔族の将としては、やはり魔族にとって最大の脅威となっている勇者たちの動向が気になるのだろう。
だが、こちらも望まれる戦果を出すことはできなかった。
首を横に振る。
「すまない。天野 光聖を取り逃がした。傷を与えることはできたが、おそらく生き残るだろう」
「そう、ですか………」
天野 光聖が生きている。
俺の報告を聞いたベルゼビュートは、しかし安心したような声を出す。
「撃退には、成功したのですよね?」
「ああ」
「ならば構いません。我らの勝利です」
勝敗はまだ決していないが、ベルゼビュートはそう断言した。
だが、その戦況はあまり芳しくはない。
そのことを伝えると、ベルゼビュートは詳しく戦況を教えて欲しいと言ってきた。
「では一度シェオゴラス城に向かう。百聞は一見に如かずというだろう。右翼の戦況が想定より芳しくないようだ」
「わかりました、お願いします」
ベルゼビュートを抱え、フラウロス山脈を駆け上がっていく。
そしてシェオゴラス城の聳える箇所まで来てから、城の物見台へと上がった。
–––––––すると、いつのまにか戦況は完全に魔族軍に傾いていた。
何があったのだろうか。各前線の人間軍はそのほとんどがわれさきに統率など欠片もない撤退、というよりも敵前逃亡を行っており、そこに魔族軍が攻撃を仕掛けている。
魔族軍は統率性を回復しつつあり、同士討ちまで見られるほどの混乱をしている人間軍に対して徹底的な追撃戦を仕掛けているようだった。
どうやら、俺がベルゼビュートを拾いに行っている間に、魔族軍が立て直したらしい。
全軍を合わせればまだ数の上で勝っているはずの人間軍だが、もはや戦線の立て直しは不可能に陥っているようだ。
右翼の戦場の魔族軍の中には、ある一団が中心となって勝どきを上げている姿が見えた。
「………すまない。杞憂だったか、錯覚だったようだ」
「…………………」
意識を失うような攻撃を受けてから、起こされて早々に山登りをさせられた身としては、この痛快なレベルで大軍を蹂躙し圧倒しているこの戦況のどこが芳しくないのか、と言いたい場面だろう。
ベルゼビュートは無言で戦場を見下ろしながら、人間軍を圧倒している魔族軍の姿に小さな笑みをこぼす。
「ふっ………いえ、劣勢になっているよりは良い知らせです。さて、ルシファードと合流しましょうか」
ベルゼビュートが右翼の戦場へと歩き出す。
その歩みはすでに1人で自由に歩けるほどに回復していることを示すように力強い。
一方で、俺は戦場を覆い尽くす両軍の屍の山を見ながら、わずかな間にこの戦場の両軍に対していったい何があったのかを考えていた。




