睡夢
私には忘れ得ぬ睡夢が一つ有る。此れは声調を高めて吹聴為る様な物では無いし、罪悪の感情が擡げられるから言い難いのであるけれども感興為たので話そうと思う。
其の睡夢で私は学校の教室に居た。何やら覚えが有る辺りは眩耀為て居る様子であり、室内には私を含めて二人しか居ない。私は彼女と対面為、教室の後方の戸扉の付近に立って居た。内容は聞き取れないが彼女は楽しそうに私へ話し掛けて来る。私は確かに聞いて居るよと云う様子で微笑を返し、図らず視線を逸らした。戸扉の上方に嵌め込まれた窓牖が鮮やかな色紙を環状に連ねた飾りに装われて見えた。私は然う為た状況を見て、今日は何か式典が有ったろうかと考えて居た。其れから私は彼女を見て、変わらないなと奇妙な幸福を覚えて、覚醒為るのである。彼女と云うのは私の初恋の女性であり、元恋人であった。此れが睡夢の全てである。
彼女とは幼少の砌りから知り合う関係であり、中学校の時期に一度、高等学校の時期に一度、恋人と為て交際を為て居た。当時の私は若く幼く、嫉妬や憤怒や恋慕の感情を巧く操縦為る事が出来ず、彼女が初めての恋人であったから女性の性質に疎く、枚挙に終わりが見得ぬ程に欠点に塗れて居た。過去へ遡れるのであれば、厳しく叱責為て遣りたい。然う為た彼女とは直ぐに別れて終い、私は現在の恋人と結ばれた。
私が恋人と交際を始めてからも、彼女とは友人と云うか知人と云うか、元々が恋人であったから会話や接触に抵抗は無く、然う云う距離を保って暫くは関係為て居た。率直に申して未練は有った。有ったけれども巧く立ち行かない事を分かって居たし、既う恋人が居る。分かる居るとは言っても未練は有り、幾らか揺れは為たけれども、軈て彼女と環境を共有為る機会は消え、私は恋人と同棲を始めたのである。
恋人と云う物は至近に成ると苦労が多く、両手を挙げて究極の幸福であるとは云い難いが、其れが私を成長為せて呉れた。嫉妬や憤怒や恋慕の感情を巧く操縦為る事が出来る様に成ったし、女性の性質と云う物も幾らか研究為る事が叶った。加えて、私は女性を養って差し上げたい、守らせて頂きたいと云う性癖を潜在為て居る事が判って来た。対象が汚れ、傷き、弱り、病んで居ると慈愛が昂るのである。此れが判った時期、彼女は男性との交際が過激に成り、蜚語では神経を参らせて居ると云う話しであった。其の原因は私と別れたからであるとも聞いた。
然う為ると、現状の私であれば彼女と巧く付き合えたのかも知れないと思って終うのである。決して有り得ぬ事であり、又た過去を振り返れば儚く美しく映って終うのが常識である。加えて、初恋の対象と云う存在は特別であり、余計に然う見えるのであろう。彼女も既う暫く経って変わったであろうし、彼女が私の事を覚えて呉れて居る保証、苟も私が恋人を見限って彼女に出会い、復た交際為て呉れろと申し込んだとて、巧く運ぶ確証は皆無である。私が一人で舞い上がる事も盛り上がる事も無く、淡然と然う思う限りである。
私が彼の睡夢を見たのは、恋人と同棲を始めてからであった。既う未練と云うには違い、神経に刻まれた瘢痕とでも言い表した方が適切であると思う。