最後の幸福
走った。
走った走った走った。
この速さなら一族一の瞬足と謳われる弟すらも凌駕するのではないか、なんてことも思い浮かばないほど必死だった。
おかげで気づけば背後には崖と眼下に広がる街。前には血走った瞳のヤツ。
チャンスは1回。
それを逃せばもう、僕に勝目はない。
「ずいぶん頑張ったようだが…後ろを見てみろ、逃げ場はないぞ」
「うーんそうですか?あなたのような弱虫にはこれくらいのハンデがちょうどいい」
「…薄汚い溝鼠の分際で」
「そのねずみを捕まえられない貴方の程度が知れてしまいますね」
「その減らず口今すぐ塞いでやる!」
吠えたと同時に突進してくる。
むき出しの敵意と牙。
迫ってくる全てがスローモーションに見えた。
まだ、まだだ。
逃げ出しそうな足を叱咤し、動かない。
そしてヤツは跳躍した。
瞬きはしない。タイミングを見計らう。
爪がかかろうかという瞬間、僕はダッシュでヤツの体の下を通った。
でもこれだけではだめだ。
急ブレーキで方向転換し、着地の瞬間を狙って思いっきり後ろからタックルをかました。
思わぬ攻撃によろめいた大きな身体はそのまま地面を離れた。
小さな影とともに。
グレイは重力に身を任せる中で愛しい姿を見つけた。
「グレイっ!」
初めて名前を呼んでくれたね。
そんな顔をしないで。僕は君を守れて嬉しいんだ。
こんな小さな体だけど、小さな体だからこそできたことがあったよ。
でも出来るなら君の伴侶は体の大きく強い、そしてなにより君を心から大切にしてくれるオスにしてね。
ああ、泣かないで。僕はもう君の涙を舐めとることは出来ないから。
伝えたいことはたくさんあるんだけど、こんな陳腐な言葉しか言えなかった。
「…愛してるよ、ルナ」