自然の摂理
「ちょっとそこの薄汚いお兄さん。僕はまだ死んでいませんよ、敵から目を逸らすなんて本当に愚かですね」
痛みがあるが大丈夫、走れる。
密かに身体が動くか確かめながら神経を逆撫でるような笑みを浮かべた。
「爪が甘いですね。そんなんだから若い犬にも舐められるんじゃないですか」
これは推測だった。
それほど年若くは見えないこの犬が、どうして弱者のような姿勢なのか。どうしてこれほど痩せているのか。どうして猫なんぞに喧嘩をふっかけたのか。
答えは多分、犬の中で彼が非常に弱い存在だから。
犬は縦社会。年長者を敬うヒエラルキーの中で生きている。
だからある程度年を経れば、狩りをしなくとも若者が狩った得物を食べることができる。
認められたものほど自発的に献上されるのだ。
ヤツも献上される側の年のはず。なのにこれほど痩せているということは、誰からも慕われていない証拠。
縦社会といっても上に立つのはやはり強いものだ。
それは力であったり、能力であったり、頭の良さであったり。
ただそういうものたちもいずれは老いゆく。
普通ならばそうした弱者は保護され、長く生きたものは敬われる。(移動する種族であれば置いていかれることもあるが)
ここ界隈の野良犬たちにはそうした配慮がないのだろう。
弱いものは虐げられ、強いものが君臨する。それは自然の摂理。それゆえに残酷。
多分というより確実にこの目の前の痩せぎすは虐げられている側だ。
正確に、確実に、ゆっくりと傷をつける。
「そのお年で献上品がないなんて。よっぽど弱い上にばかなんですね、貴方」
僕の挑発は的確だったらしい。
青筋の立った顔は、昔どこかの家で見たお面にそっくりだった。
「おや図星でしたか。ほらほらあまり怖い顔をすると角が生えてしまいますよ。
ああ、余分な肉も皮もないその体では無理ですね。すみません。
おーにさんこーちら、手ーの鳴ーるほーうへ」
こんな感じの歌を人間の子供が言っていたのを聞いたことがある。
何の遊びかは知らないが、この状況にぴったりのセリフではないだろうか。