第172話 救世、発端
───飛翔する天極鳥、その速さは音速を優に超え。東部軍事基地から最後のEDP開始地点へと向かうのに一時の時間すら必要無かった。
だが、その短い時間の間で。赤城は神楽から人類の状況が最悪の状況に変化し、追い詰められている事を告げられる。
艦隊は大破、残る戦力も少なく、ELBの設置に失敗。
絶望的な情報しか告げられない。更に甲斐斗がアステルの手によって殺された事を知らされるが、同時に甲斐斗の乗る魔神が暴走を起こしている事も聞かされる。
刹那に感じた『恐怖』という感情。赤城とミシェルに脳裏に甲斐斗の事が過り、胸騒ぎがしてならない。
そして見えてきたEDPの光景に赤城は息を呑む。
辺り一帯は不自然な程に濃い闇に包まれており、中の様子が全く見えなくなっている。
覚悟は既に出来ている。赤城は闇の中へと入ろうと機体を動かそうとした時、その闇の中からアギトを先頭とする紫陽花とアバルロ、そして数機の脱出艇が姿を現したのが見えた。
「愁にエリル、それに騎佐久まで……どうやら脱出に成功したようだな」
神楽の話しからすれば、今EDPの開始地点に居るのは甲斐斗と紳、そしてアステルの三人のみ。
脱出した兵士達を見た後、天極鳥は翼を休めることなく闇の中へと突き進む、その様子は地上にいたアギトに乗る愁からも確認できた。
「い、今の機体は……?」
目にも止まらぬ速さで空を翔る姿が僅かに見えた愁。二枚の翼は広げる姿は、例え一瞬だけ見えたとしても、その美しさは深く脳裏に焼きついていた。
闇の中へ突き進む天極鳥、機体が闇に包まれた途端に翼は光りを放ち、機体を覆っていた闇を掻き消していく。
そして視界は開け、見えた。強大な闇を放出し、暴走と共に覚醒を始めている邪神の姿を。
「ひっ───!」
邪神の姿が見えた途端、ミシェルは怯えてしまい思わず声を上げてしまう。
眼を背けたくなる程の計り知れない憎悪と魔力を感じる。
まるで『邪悪』という塊が生きているかのようにこの世に現れている。
ミシェルが甲斐斗の中に潜む何かに恐れていた原因。
それが今この世に現れた『邪神』の存在だとミシェルは確信した。
「この雰囲気……あの時と同じだ……」
その邪悪な気配は赤城にも直ぐに伝わった。
闇を放ち続ける邪神から感じ取れる力は、以前甲斐斗の剣に触れた時に見た『邪神』と同じものを感じる。
闇を光で照らし、そして邪神の前に降り立った天極鳥。
「迎えに来たぞ、甲斐斗」
甲斐斗は今、真心ではなく邪心となってこの場いる。
だとすれば、再び真心を呼び戻せば甲斐斗は目を覚ますはず。
その為にも甲斐斗から闇を払い除けなければならない。
闇が一番強く溢れ出す箇所、それは背部から胸部に突き刺さる黒剣と、その傷口からだった。
あの黒剣を引き抜かない限り広がり続ける闇を止める事は出来ないだろう。そして、その行動は結果的に邪神の力を抑えることにもなる。
未だに目立った動きをしない邪神だったが、目の前に現れた一体の機体に気付くと、僅かに俯けていた顔を天極鳥に向けた。
そしてゆっくりと両手を上げ前に突き出すと、黒い魔法陣を展開させた。
「くる!よけてっ!」
ミシェルの咄嗟の指示に赤城は機体を羽ばたかせ邪神の前から消えた直後、向けられた両手からは魔力を帯びた闇が放たれた。
「聞こえているのか!?応答しろ、甲斐斗!」
魔法による邪神の攻撃を間一髪で天極鳥は避ける事に成功したが、放たれた魔法は空間を歪ませながら枯れたPlant態の屍を滅ぼし進んでいく。
邪神の攻撃はそれだけではない、体中から無数の影を自在に操り伸ばし続けると、天極鳥を捕らえようと一斉に襲い掛かり始める。
その様子は戦場にいる赤城達だけでなく、天極鳥から撮られた映像を見ていた神楽とアビアも目にしていた。
格納庫の一室から映像を見ていた神楽は、魔法を使う邪神の姿を見ながら煙草を吸い始める。
ふと脳裏に過る甲斐斗との会話。それは自分が死んだ時に魔法が使えるのではないかという可能性についての話だったが、まさか現実に起こるとは思ってもいなかった。
「まさか本当に魔法が使えるようになるなんて……でも、それじゃあ甲斐斗。貴方は本当に死んでしまったの……?」
心配そうに映像を見つめ続ける神楽だが、アビアだけは笑みを薄らと浮かべながら邪神の力を見ていた。
影を伸ばし天極鳥に襲い掛かる邪神。赤城は直ぐに天極鳥の武装を確認し、右腕を伸ばし腰に掛けてあった刀を鞘から引き抜いてみせると、向かってくる全ての影を切り捨てていく。
「説得は無理か……ならば手段は一つ!」
天極鳥が眼と翼を発光させた直後、その場から一瞬で姿を消すと、自分に向けて放たれた全ての闇を切り払いながら邪神の元へと突き進む。
そして邪神の背後に回りこむと、背部に突き刺さる黒剣の柄を左手で握り締めた。
あの無数の闇を切り払いながら避けつつ背後に回るなど天極鳥だらこそ出来る事であり、柄を握り締めた黒剣を強引に引き抜こうとする。
「抜けないだと───ッ!」
柄を握り締め黒剣を引き抜こうとするものの、邪神に突き刺さった剣は微動だにしない。
すると地面からは天極鳥に覆い被さるように闇が広がりはじめる、一旦この場から離れようと手を放そうとするが、機体は黒剣の柄を握り締めたまま動こうとしない。
天極鳥ですら邪神の力により剣を触っていた手を侵食され始めていたのだ、それに気付く事が出来なかった赤城だが時既に遅く、機体は闇に飲み込まれてしまった
───「っ!?……う……」
闇の中で倒れていた甲斐斗は、まるで何かに起こされたかのように突如目を覚ました。
「ここは……?ああ、ここ、か……」
辺りは全て闇に包まれた暗闇の空間。ここが何処かなど甲斐斗には見慣れた光景だった。
「俺……死んだのか……」
その場に座り呆然と暗闇を見詰め続ける。
「うん、死んだね」
瞬きをした後、自分と全く同じ姿をした男が目の前に座っており、それが元の自分である『カイト・スタルフ』だという事も甲斐斗は知っていた。
「唯も……死んだのか……」
「うん……死んでしまったよ……」
唯が死んだ。今一度唯の死を思い出した甲斐斗は拳を地面に振り下ろした。
「あああああああああああああッ!!」
守れなかった悔しさに何度も拳を振り下ろし、目からは止め処なく涙が溢れ始める。
「クソッ!クソォッ!!俺は、俺はまた守れなかった……俺、はぁ……っ……うぅ……」
自分の無力さを痛感し泣き叫ぶ甲斐斗を、カイトは哀しげな表情で見つめ続ける。
「あいつ……あの、カイト・アステルとか言う奴ッ……あいつが、あいつが唯をぉッ!!」
自分から大切な人を奪った男、アステル。
甲斐斗は収まらない怒りと憎しみを拳に籠め、再び拳を振り下ろそうとした時、目の前に座っているカイトが口を開いた。
「どうだった?」
その言葉に甲斐斗の拳が止まると、その拳をそのまま前に伸ばしカイトの首を掴み、握り締めた。
「最低最悪だよッ……大体、何なんだあいつはッ……」
渾身の力を込めて首を握り締める甲斐斗だが、カイトは平然とした様子で更に口を開く。
「あのアステルって人を見ていると、まるで自分を見ているみたいだったね」
「黙れ!それ以上喋るなッ!!何なんだあいつ、何なんだよ……クソッ……」
アステルはこの世を恨み、最強の力を存分に揮い全てを壊してきた。
人や町、夢や希望までもアステルの手で潰えてしまったが、その姿はまるで昔の自分を見ているかのようだった。
世界を滅ぼしていたのはアステルだけではない。甲斐斗もまた最強の力で暴走を起こし、多くの人間を殺した事がある。
未だにその過去の呪縛に苦しめられる甲斐斗に、カイトは再び呟いた。
「これは、君の罪と罰だよ」
「罪と罰、だと……?ふっざけんなあああああぁぁぁッ!!」
首を掴んでいた右手を離し、その拳をカイト目掛けて振り下ろす。
顔面を殴られたカイトは吹き飛び倒れてしまうが、甲斐斗は倒れたカイトに乗ると容赦なく顔面を殴り続ける。
「何が罪だ、何が罰だ!?俺は悪くないだろッ!?勝手に俺を最強にしておいて、勝手に暴走しておいて、どうして俺が罪になって罰を受けなくちゃいけねえんだよ!?俺は、俺はただ……姉さんと一緒に暮らせたら良かった、たったそれだけが望みだったんだぞ!?なのに!なんでだよッ!!なんでっ……」
涙が止まらない。
気付けば甲斐斗は、涙を流しながら誰もいない場所を殴り続けていた。
「もういいじゃないか……」
先程まで殴られていたはずのカイトが甲斐斗の後ろに立っており、泣き続ける甲斐斗の肩に手を置き語りかけていく。
「大切な人は皆死ぬ。守れる人なんて誰もいない、そうだろう?」
「まだだ……まだ、俺には守りたい人が……」
赤城に神楽、それにミシェルとアビアも『まだ』生きている。
守りたい、守らしてくれ、そう願い続ける甲斐斗だが……。
「誰一人守れないよ、絶対に」
「うるせえ……俺が、俺が絶対に守るッ!」
その言葉に甲斐斗は再び拳を握り立ち上がると、後ろに立っていたカイト目掛けて拳を突き出した。
「ほんとに?それじゃあ……」
だが、次のカイトの言葉に甲斐斗はその拳を眼前で止めてしまう。
「姉さんを殺せる?」
「……どういう意味だ?」
「大切な人を守る為の覚悟はあるのかって聞いているんだよ。あの時、姉さんの姿をしたERRORをアステルは殺した。けれど、もしアステルが殺していなかったら……殺せてた?」
最後のEDP、ERRORを統括していた存在は『セレナ』の姿をしていた。
だが、所詮それは姿だけに過ぎず、本物のセレナではない為躊躇う必要など全くない。
「俺を……馬鹿にしているのか……?あいつはセレナでも何でもねえ、姿だけを似せた醜い化物じゃねえか」
「それじゃあ殺してみてよ」
「上等だッ!!」
自分を試すような発言に甲斐斗は声を荒げた瞬間、先程まで闇しか広がっていない光景が一変してしまう。
「っ───!?」
今でも忘れない光景。
壁や床、天井。全ては黒い石版に覆われた実験室。
その部屋の中央では姉のセレナが座っている後ろ姿が見える。
この世界は過去の出来事を元に作られた夢、幻想に過ぎない。
気付けば甲斐斗の右手には黒剣が握り締められており、甲斐斗は虫唾が走る中淡々とセレナに近づいていく。
「幻想如きでこの俺を試すつもりか……なめやがってッ……」
一撃で殺す。甲斐斗はセレナの後ろに立ち、右手を振り上げていくと、その気配に気付いたセレナが後ろに振り返った。
「カイト……たす、けて……っ」
涙を流し怯えるセレナ。今まさに実験材料にされる寸前で現れた甲斐斗に助けを求め手を伸ばす。
その表情を見ても尚、甲斐斗は右手を上げつづけると、黒剣を大きく振り被ってみせた。
後はこの剣を下ろすだけでセレナを殺せる。ただ振り下ろす、それだけでいい。
「カイト……!」
久しぶりに聞いたセレナの声。たしかあの時もセレナは甲斐斗の名前を呼んでいた。
あの時甲斐斗は何もする事が出来ず、セレナを見殺しにしてしまった。
苦しみ、断末魔を挙げて殺されるセレナから甲斐斗は目を放す事が出来ず、死の一部始終を見ていた。
今度は自分がこの手で殺すのか───そう思うと、甲斐斗は先程までの殺気が嘘かのように消え始める。
「……おかしいだろ。今、俺の目の前にいるのは本物の姉さんだ、ERRORじゃない……」
昔この時、この場にいたのは紛れもないセレナ本人だった。
だとすれば、例え幻想だろうと今ここでセレナを殺すのは間違っている。
甲斐斗は納得がいかず構えを解き、ゆっくりと剣を下ろしていく。
「ほら、やっぱり殺せない」
カイトの呆れたような声が聞こえてくるが、甲斐斗はそれを聞いてもセレナを殺しはしなかった。
「殺せないんじゃねえ、殺さないだけ───」
反論しようと甲斐斗が上を向いて話していた時、突如何かが胸に当たった衝撃を感じて言葉が止まってしまう。
上を向いていた甲斐斗が徐々に視線を下ろしてみると、笑みを浮かべたセレナが自分の胸にナイフを根元深くまで突き刺していた。
「だから守れない。誰一人ね」
胸に刺されたナイフを引き抜かれ、甲斐斗は力無くその場に跪くと、止め処なく溢れ出る血を放心状態で見つめていた。
返り血を浴びるセレナは未だに甲斐斗を見て笑っていたが、ふと甲斐斗の後ろに視線を向けると足早に歩き去っていく。
「きゃぁあああああああッ!」
聞こえてくる唯の断末魔。
甲斐斗は瞬時に振り返ってみると、そこにはセレナに馬乗りにされナイフで滅多刺しにされる唯の姿があった。
何度もナイフを振り下ろされ、抵抗していた唯も今は涙を流しながら死んでいる。
「やめろぉおおおおお!!」
死して尚も刺され続ける唯に甲斐斗は止めようと立ち上がろうとするが、体が全く動かず見ている事しか出来ない。
それは当然の事だった。甲斐斗は既にセレナに殺されたのだから、もう誰も守る者はいない。
血塗れになっていく唯、するとセレナは振り下ろしていたナイフを止めると、別の標的を見つけ再び歩き始める。
甲斐斗がセレナの歩いていく視線の先を見ると、そこには赤城とミシェルが手足を縛られ倒れていた。
助けを求めるように体を動かし、迫り来るセレナから逃げようとする二人だが、セレナのナイフから逃げる術などなく、唯と同じように二人は───。
───「…………っ!?」
ベッドから目を覚ました甲斐斗。目の前には心配そうな表情で甲斐斗を見つめているセレナがいた。
「カイト!」
訳も分からずセレナに抱き締められると、甲斐斗はここが昔自分がセレナと二人で暮らしていた家の自室だという事に気付いた。
これもまた夢なのだろう。甲斐斗には直ぐに理解できたが、抱き締めてくれるセレナの心地良さに浸り、先程まで憶えていた怖い夢の内容が薄れ始めていく。
「怖かったね……でも、もう大丈夫だから……」
温かく柔らかいセレナの感触に、甲斐斗も自然にセレナを抱き締める。
「姉さん……」
いつも香っていたセレナの甘い匂いは今でも憶えている。頭を撫で、その香りに懐かしさを感じながら何度もセレナの頭を撫でていく。
「カイトには私がいるよ。私がずっとカイトの側にいてあげる」
「本当に?……姉さん、本当にずっとぼくの側にいてくれる……?」
「うん、だってカイトは優しい子だもん。私と一緒に暮らすことが、カイトにとって一番の幸せだから……ね?」
言われてみれば、甲斐斗にとってそれこそが唯一の望みだった。
セレナと二人、幸せな世界で生きていけることが出来るのなら、最強の力なんて必要ない
「そうだよ……僕は姉さんと暮らせれば、力も、魔法も、友達も、もう何も……」
元々何も持っていなかった甲斐斗だったが、優しい姉だけは甲斐斗の側に居てくれた。
だから自分が魔法を使えなくても、特別な存在でなくても、孤独を感じ不安になっていても、全てを耐える事が出来た。
何故なら優しい姉が居てくれるから……理由はそれだけで十分だった。
ふと、セレナが甲斐斗の左腕を掴むと、その手を引き寄せ自身の胸に優しく押し当てる。
柔らかい弾力に甲斐斗は左手を退けようとするが、セレナは腕を掴んだまま放してはくれず、目を合わせるように顔を近づけた。
「カイト、好きにして……いいよ」
吐息がかかる程の近い距離でセレナは甘い言葉を囁く。
その綺麗な瞳を見つめていた甲斐斗には、もう目を放す事などできはしなかった。
「姉さんを……好きに……?」
セレナの言葉で甲斐斗の鼓動が徐々に高鳴っていく。
抑えられない欲求が自分の中で蠢き、セレナの胸を掴んでいた左手はセレナを求めるように強く押し当てていく。
「うん。でも、これだけは約束して」
そう言ってセレナは左手で甲斐斗の頬を触り、そして甲斐斗の瞳を見つめながら囁いた。
「私以外、もう何も欲さない、望まない。……約束してくれる?」
その言葉を聞いた甲斐斗の目からは涙が込み上げ零れ始める。
……たったそれだけでいいのか?
たったそれだけで、セレナと一生幸せに暮らしていけるのか?
自分が何よりも望んだ事を、漸く手に入れることができる。
もう苦しまなくていい、悩まなくていい、逃げなくていい、戦わなくていい。
全てから、解放される。
───「諦めるのかッ!?甲斐斗!!」
静かな部屋に突如響き渡る声に、甲斐斗は思わず息を呑んだ。
「お前は私に約束したはずだ。生きて戦争を終わらせる、絶対に死なないと!約束すらも破るつもりかッ!?」
確かに聞こえてくる赤城の声。
しかし姿が見えず、見えているのは微笑むセレナの姿しかない。
それでも赤城の叫ぶ声は更に続いてきた。
「お前は私に言ったはずだ、寝ていていいのか、夢に縋っていいのかっ!?それでは現実は変わらない、世界も、お前も、何もかも変わらないんだぞ!?……絶対に諦めない……そう言ってくれたのはお前だろう!?甲斐斗ッ!!」
聞き覚えのある台詞を聞き、甲斐斗は赤城が眠っていた医務室の前で神楽と口論していた時の事を思い出す。その時に言っていた言葉を、赤城は聞いていてくれた事に気付いた。
「お前にとって恐れる敵はERRORでもアステルでもない、自分自身の弱さだ。最強を名乗るなら、先ずは弱い自分に打ち勝ってみせろ!」
赤城の思いがひしひしと甲斐斗に伝わってくる。
そして今、自分が最大の過ちを犯そうとしているのに気付き始めていた。
甲斐斗から見れば目の前にはセレナしかいない。だが赤城が見ている光景はそんなものではなかった。
全身を闇に飲み込まれ、蠢く影に涙を流しながら手を伸ばす甲斐斗の姿しか赤城には見えない。
あと一歩でもその影に近づいてしまえば、もう二度と甲斐斗が戻ってこれなくなる事を赤城は瞬時に感じ取った。
天極鳥が邪神の闇に飲み込まれ、気がつけば赤城はこの闇の世界に立っていた。
現実の世界がどうなったのかは分からない、あのまま闇に飲み込まれ死んでしまったのかもしれない。
だがそれでもいい、この世界に再び自分が降り立った事に赤城は意味を感じ、甲斐斗の前に現れた。
あと少しで完全に闇に取り込まれようとしていたが、甲斐斗は赤城の声を聞いた途端に足を止めてしまう。
邪魔な存在の登場に、甲斐斗の目の前に漂っていた闇から無数の眼が現れ始めると、一本の影が刃と化し、訴えかける赤城に向けて襲い掛かる。その影の早さは目では追えず、赤城はその影を避ける事は出来なかった。
目は瞑らなかった。ただ甲斐斗を見つめ続け、自分の思いが届くのを信じ続けた。
その思いが通じたかは分からない。ただ影の刃が赤城の目の前で止まると、甲斐斗の回りを蠢いた影が突如暴れ始め、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「アぁの糞餓鬼ィッ……コノオれ様ヲ『制約』すルつもリカァ?笑ワセてくレル!!」
間違いなく聞こえてきた『邪神』の声。
どうやら影の刃が止まったのは甲斐斗の意思で止めた訳ではなく、ミシェルの絶対名の力『制約』の為だった。
赤城は闇に飲み込まれ意識がこの世界に来たが、ミシェルは違う。
自分を取り込もうと触れてきた闇に『制約』の力を発動し、未だに天極鳥の操縦席で抗い続けていたのだ。
絶対名の力を使っても邪神の力を制約する事が難しく、ミシェルは闇に飲まれない為に邪神の力を制約し続けるが、その制約する早さを上回る量の力が送り込まれ、ミシェルは苦しみながらも制約の力を発動し続けていた。
「かいとは……わたしがまもる……っ!」
額に輝く魔方陣を展開させるミシェル。その力は絶え間なく発動されており、徐々にミシェルの体力を奪っていくが、その苦しみから逃れようと力を弱める事は決してなかった。
絶対に諦めない。それはミシェルだけでなく、闇の中で佇む赤城も同じだった。
最後の最後まで甲斐斗を信じ、その強い眼差しで見つめ続ける。
「お前は誰にも負けない最強の男なのだろう!?そのような醜い化身に身を委ねるな!抗ってみせろッ!」
必死に訴えかける赤城の思い、しかしその言葉を聞いた邪神は笑いを堪えきれず高笑いをしはじめる。
「俺ヲ醜い化身……?ククク、ギヒヒッ!アヒゃヒャひゃひャ!!オ前は何も分かッテいナイ!!俺ハ俺ッ!『甲斐斗』何ダよ!俺ハコイツノ心の一つ、ソレが何ヲ意味スルのカ、分カッてねえなあァッ!?」
赤城の目の前にまで迫っていた影の刃は以前ミシェルの力により動きを止められているが、影の刃が本数を増し赤城の回りを囲うように増え始めていく。
「甲斐斗ハ常日頃、心ノ奥底で望ンでいるンダゼ?世界の破滅、崩壊をッ!自分以外の邪魔ナ存在ハ全員死ンデも良イとさへ思ッてイルッ!ダッて世界ガ憎いモンなァ、幸セナ奴等ヲ見てイルと反吐が出ル程ムカつくモンナァッ!?人間ガ憎イ、世界ガ憎い!皆死ネばイイ、のタ打ち回って滑稽な姿ヲ晒シテ愚かニ朽ち果てれば良い!ソウ、世界何ざ俺ガ終わラシテヤルヨッ!!自分ノ欲ニ忠実ニなれッ!綺麗な世界をブち壊そうゼ、邪魔ナ人間は全員拷問ダ、女共を弄んでヤろう、男共ニは己の無力さヲ思い知ラセテやろう。全次元、全世界の全てノ存在ヲ支配シテやろう!ァア!アリとアラユル欲求ヲ満たシテ行コウじゃネエか!甲斐斗ォッ!!」
甲斐斗の中に潜む歪んだ心。
例えそれが邪神となり意思を持ったとしても、それは紛れもない甲斐斗の心だった。
嘘、偽りはない。それが甲斐斗の一つの心である事は、誰でもない甲斐斗自身が一番良く分かっている。
だからこそ邪神は強く、己の欲を最優先して動く。決してブレない邪心に対し、甲斐斗の本心は余りにも脆すぎた。
「甲斐斗……弱い甲斐斗。だからこそお前は強くなるのだろう?人は強くなれる、それはお前も同じだ。私にだって邪心はある、弱い自分が常に隣にいる。だが私は今、ここにいる。自分の本心に従ってこの場にいる!後悔はしていない!何故だか分かるか!?私の真の心は、どの弱い私の心よりも強いからだッ!一番大切な気持ちは何時も自分の胸の中にある、その胸に手を当て聞いてみろ!自分の本当の心の声をッ!約束を果たす為に、己の本心で動く為に、お前の望む最強になる為にッ!」
邪神の言葉を聞いても尚赤城は諦めず甲斐斗に訴え続ける。
赤城という忌々しい存在に、いい加減目障りになってきた邪神は本気で赤城を殺しにかかる。
無数の影の刃の動きは封じられているが、邪神の力を完全に制約している訳ではなく、邪神は己の本体である黒い影から巨大な刃を作り出すと、赤城の周りに一瞬で同等の刃を生み出し、赤城に向けて一斉に放たれた。
その数は軽く百を超え、ミシェルの制約する力を大幅に上回っており、その力をミシェルが制約しようにも無限に増え続ける刃を止める事は出来なかった。
「消えロオオォぉぉッ赤城ぃィィッ!!」
赤城が死ねば甲斐斗の心は更に崩壊し、より邪神の思うが侭になる。
そうなればもう誰も止める事は出来ないだろう。
何もかも終わる。しかし、迫り来る刃を見ても尚赤城は目を背けることなく、甲斐斗を見つめ続けていた。
───「ありがとう、赤城さん」
優しい甲斐斗の声が聞こえた直後、赤城に迫っていた刃が全て掻き消されると、赤城の目の前に一人の少年が背を向け立っていた。
少年が現れた事よりも自分の力を全て掻き消した事に邪神は驚き、信じられない様子で少年を見つめていた。
「ンなッ……テメェにそんな力は無エハズ───ッ!?」
赤城の背後に立つ一体の魔神の存在に気付く邪神。
全身黒い鎧を身に着ける『無心』の存在。思いもよらぬ『魔神』の登場に邪神は驚きを露にしていた。
「ハぁッ?オイオィッ、何考えテやがル、何でオ前が協力シテんだヨ!?」
その疑問に答えたのは魔神ではなく、赤城の前に現れた少年、カイト・スタルフだった。
「僕がお願いしてここに来てくれたんだ」
「ハああアアアァァァ?コイツにハそんな事無駄ナハズだロォ!?」
「無駄じゃないよ。無心から生まれた存在だろうと彼もまた甲斐斗の心の一つだからね」
余程邪神には今、魔神がこの場に居る事が納得できないのだろう、カイトの言葉を聞いても尚信じていない様子だが、カイトは落ち着いて説明していく。
「……マぁいい、邪魔ナ奴ラが揃っテクレたオ陰デ手間が省ケたゼ」
少し予定と外れたが、近い内に消すはずの存在が来ただけに過ぎない。
邪神が再び刃を生み出そうとしたが、その瞬間、甲斐斗を取り込んでいた邪神の様子が変化する。
「がアあぁぁァッ!?か、甲斐斗ッ!?オ前、マでェッ……!」
苦しそうに闇が蠢き影の刃は無造作に暴れ始める、その様子を見つめていたカイトは甲斐斗の意思が伝わってきた。
「甲斐斗が赤城さんの言葉を聞いて自分の弱さに抗おうとしている……魔神、赤城さんを頼んだよ」
そう言って後ろに振り返り魔神と目を合わせると、やや視線を下げ今度は赤城の方に視線を向けた。
その視線に気付き最初に声を掛けたのは、カイトではなく赤城だった。
「お前が……本物の甲斐斗。カイト・スタルフなのか……?」
「うん、僕はカイト・スタルフ。でも、本物の甲斐斗じゃないよ」
前に甲斐斗から聞いた話しと違う。
カイト・スタルフこそ三つの心を司る者であり、元である存在だと聞いていたが、目の前に立っているカイトはそれを否定する。
「貴方のお陰で甲斐斗は変わろうとしてくれている。後は甲斐斗に任せて、ここから先は彼自身が決める事だ」
そう告げた後、魔神が赤城の背後から優しく抱かかえ軽々と持ち上げると、後方に大きく跳びその場から離れていく。
赤城はまだ話し足りないのだろう、カイトに手を伸ばし名を呼ぶが、その姿を見てカイトは心配をかけまいと口元だけ優しく微笑んでみせた。
そして再び後ろに振り返り歩き始めると、闇に包み込まれている甲斐斗に手を伸ばし、そっと指先を甲斐斗の体に触れた。
「甲斐斗、君が本気なら始めよう。そして終わらしてくれ、君が前へと進む為に」