第170話 幸福、渇望
───時は、神楽のいた医務室からアビアが退室した時まで遡る。
別れ際にアビアが残した青白く光るナイフを、神楽がふと赤城に向け胸に触れた瞬間、それは起きた。
ナイフからは眩い光が溢れ出してくると、その光は部屋全体を包むように広がりその場にいる二人を飲み込んでしまう。
一面真っ白な世界へと変わり、神楽は咄嗟に目を瞑る。あれだけ眩しかった光も、目を瞑った途端に遮られ、視界は暗闇が支配した。
───「ん……っ」
目を瞑っていた神楽、強烈な光が消えたのに気づきそっと目蓋を開けてみる。
そこで目に入ってきた光景、それは先程までいた医務室の光景だった。
「え……?」
ただ一つ違う点と言えば、目の前にあるベッドには誰も眠っておらず、隣に立っていたはずのミシェルがどこにもいない。
辺りを見渡しても二人は見当たらず、神楽は誰もいない医務室から出て自室へと戻ってみるが、そこにもやはり誰もいない。
「どうなってるの……?」
アビアが残したナイフを赤城に翳した途端に世界は一変した。訳も分からず神楽は部屋を出てみると、その光景に言葉を失ってしまう。
人がいる。通路には兵士達が歩いており、血で汚れていたはずの通路は奇麗になっている。
歩いていく人は楽しそうに雑談しながら目の前を過り、今度は両手一杯に書類を運ぶ人が過る。
その光景に呆然と立ち尽くしていた神楽だが、通路にある窓の外を覗いてみると、目を見開き目の前に広がる光景に驚愕する。
雲一つ無い青空の下、そこには消滅したはずの市街地が存在していた。
まるで過去に戻ったかのような現象に神楽は信じられず後ずさりしてしまうと、背中が誰かとぶつかってしまい思わず振り返りながら謝ってしまう。
「……ご、ごめんなさい───っ!?」
信じられない。
目の前に立っている人は、絶対にこの世にいないはずの人。
この町ごと掻き消し、消滅したはずの人。
絶対にいない。居るはずがない、なのに……少女は、そこにいた。
「お姉ちゃん?」
レン・スクルス。彼女はあどけない表情で首を傾げながら自分を見て驚いている神楽を不思議がっていた。
だが対する神楽は不思議所ではない。目の前に立っているレンの姿を見て思わず跪き、自分に話しかけるレンの目を見つめながら口を開いた。
「レンちゃん……なの……?」
質問の意味が分からないレンは更に困ってしまうが、不安がっている神楽を励ますようにレンは微笑み頷いてみせる。
「うん。そうだよ!」
もう二度と見れないと思っていたレンの笑顔。
その表情を見た神楽は無意識に抱き寄せ、レンの全てを感じていく。
優しく抱き締めるレンの小さな体、柔らかい素肌に、心地良い温もり。
通路を歩いていた人達は不思議そうに神楽を見ており、抱き締められたレンは恥ずかしがっていたが、神楽は人の目など気にせず抱き締め続けた。
……暫くして、ようやく神楽はレンを放すと、目に浮かべた涙を指先で拭っていた。
「お姉ちゃん?大丈夫……?」
「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい、つい……ね」
会えるはずのない人に会えて神楽が涙を流すのも無理はない。
まだ少し頭は混乱しており、落ち着きを取り戻そうと神楽はこの世界について幾つかの確認をレンにしてみようとするが、その前にレンが口を開いてしまう。
「あ、そうでした!そろそろ時間なのでお姉ちゃんを呼びに来たんでした、一緒に行きましょう!」
「え?あっ……」
ニコニコと笑いながらレンは神楽の左手を握ると、何処かに連れて行くように手を引きながら歩き始めた。
レンの小さな手に握られ、その温もりを感じながら神楽はある質問をレンに投げかけた。
「レンちゃん。この世界にERRORはいるの……?」
白黒はっきりつけたかった、そしてこの質問の返答次第でようやく神楽は確信できる。
「えらー?誰です?その人」
この世界が、現実ではない事に。
「知らないのね……ううん、なんでもないの。気にしないで」
大凡の予想が付きはじめる。
アビアの残したナイフ、その力により神楽は今、赤城の見ている夢の世界に居るのだと。
この世界にERRORはいない。恐らく戦争も起きていないだろう。
平和な世界。そして優しい世界こそ赤城の望んでいた世界なのだから。
「到着!さ、中に入って最後の準備をしましょう!」
部屋の前に立って直ぐに分かった、この部屋が赤城の部屋なのだと。
手を引かれるままに神楽は部屋に入ると、室内では数人の人達がパーティーハットを被りながら飾りつけを楽しんでいた。
「アステルー、お前これ付けろよ。絶対似合うって」
「い、嫌ですよ!僕はそんな物着けませんからね、ノイドさんが着けたらいいじゃないですか……うわぁっ!?」
ノイドは手に持っていたひげメガネの玩具をアステルに渡そうとするが、アステルはそれを拒否。
面白くないので無理やりアステルに掛けさせようとするが、それを見ていた一人の女性は笑いながら声をかけた。
「こらこらっ。二人とも遊ばないの、早くしないと赤城さん戻って来ちゃうよ?」
セレナに注意された二人は大人しくなり再び部屋の飾りつけを再開しはじめる。
その近くではテーブルに上に作りたてのお菓子を並べるルフィスと由梨音の姿があった。
「あ、まだ食べちゃだめですよ!」
ルフィスが止めようと声をかけたが、由梨音は作りたてのクッキーを一口頬張ると、美味しそうに噛み締めていく。
「味見だよ味見!ん~美味しい~!もう一口……」
「だめですってばー!」
このままでは並べたお菓子を全て由梨音一人に食べられそうになる為両手を広げ全力で阻止するルフィス。
その両手を挙げた隙に由梨音はルフィスの脇に手を入れると楽しそうに擽りはじめた。
「やっ!やめて、くださっ。ふにゃあぁぁ~!」
「やめないよ~んっ!」
二人がじゃれ合う姿が微笑ましく思わず笑みを浮かべるレン、そのまま二人を止めようと近づいていく。
「ルフィスさん、由梨音さん。せっかくの赤城隊長の誕生日会なんですから仲良くしましょうよ~!」
優しく止めに入るレン。部屋に入ったまま立ち尽くしていた神楽は目の前の光景とレンの言っていた誕生日会という言葉を聞いて視線を落としてしまう。
「そう……これがあの子の望んだ世界なのね……」
現実とは正反対の世界。
仲間が死に、世界は壊れ、何もかも失い続けてきた赤城。
高望みなどしない。望むのは一つ。ただただ、いつも一緒にいた人達と普通に平和に暮らせるだけの世界。
ただそれだけでいい。
たったそれだけの望みだったと言うのに、世界は変わってしまった。
神楽は拳を軽く握り締めた後、ふと拳を解くとレンに近づき両肩に手を置き笑みを見せた。
「私も手伝うわ。何をすればいいのかしら?」
赤城の誕生日会は着々と準備が進められ、赤城が来る時間が遂に来た。
クラッカーを持った神楽達が部屋の入り口の両脇に立ち、赤城が入ってくるのを楽しそうに待っている。
そして時は来た。部屋の扉が開き外から赤城と武蔵の二人が部屋に入ってきた途端、一斉にクラッカーの音が鳴り響き始める。
「お誕生日!おめでとー!!」
突然の事に部屋に入った直後に足を止め驚きの余り目を丸くする赤城。
クラッカーから飛び出てきた紙ふぶきや紙テープが赤城の頭や肩に少しずつ積もり軽く首を横に振った後周りを見渡していく。
「お前達……」
皆で考えたサプライズは大成功。赤城は余りの嬉しさに感極まり目に涙を浮かべてしまう。
その姿に皆は笑みを浮かべ、そして赤城をケーキの用意してあるテーブルにまで連れていく。
楽しい誕生日会の始まりだった。ケーキの蝋燭の火を消した後、ケーキの他に用意されていたコーヒーやお菓子を食べ、一人一人からプレゼントを貰い、記念写真を撮影し思い出を残す。
それは赤城にとっても皆にとっても至福の一時だった。
腕を組みながら壁にもたれ掛かる赤城は、楽しそうに喋りながらお菓子を食べる由梨音達を見つめていた。
すると、神楽が赤城の横に立つと、同様に壁にもたれ掛かりながら幸せそうな光景を見つめはじめる。
「ねえ赤ちゃん。今、とっても幸せ?」
神楽からまた『赤ちゃん』と呼ばれ、何時もなら怒る赤城も、この状況では対して気にはしなかった。
「ああ、幸せだ。神楽は幸せではないのか?」
「ううん、幸せよ。この世界にはレンちゃんも伊達君もいるし……きっとこの世界で暮らす人々は皆幸せなんでしょうね」
争いの無い平和で優しい世界。そんな世界に住む事が人にとって一番の幸福だろう。
一度この世界の素晴らしさを味わってしまえば、もうこの幸せな世界から抜け出せない。
赤城がそうだ。この素晴らしい夢の世界で生き続ける事は赤城にとって望みだった。
だからこそ神楽はある言葉を投げかけるのに躊躇ってしまう。
この幸せな世界を見て、ある疑問が浮かんだ神楽は……意を決して聞いてみた。
「ねえ。甲斐斗は……いないの?」
どうしてこの素晴らしく幸せな世界に甲斐斗がいないのか。
ミシェルだってそう、赤城にとって二人は大切な人のはず、なのにこの世界に二人は存在しない。
「カイト?いるではないか、ほら、そこに───」
赤城がアステルに指をさそうとしたが、神楽は構わず話し続けた。
「私の言ってる甲斐斗はね。自分の事をいつも最強って言って、その癖かっこ悪い所ばかりだけど。人の為に戦う優しくてお馬鹿な男の事よ」
そう言って赤城の方を見つめる神楽、だが赤城は目を合わせようとはせず、視線を下げたまま会話を続けていく。
「……誰だ、その男。知らんな……」
「いつも強がってはいるけど。本当は心が弱くて何時も挫けそうになってる、まるで赤ちゃんみたいな人の事。知らないの?」
「知らん……」
「私達の為に命を懸けてERRORと戦ってくれてるの。そして過去に戻り、全世界を救う為に戦い続ける男の事……名は甲斐斗、最強の男よ?」
「知らんッ!!」
赤城の怒号を聞いた途端、先程まで楽しい雰囲気に包まれていた室内は一変した。
物が消え、人が消え、部屋が消え、いつしか赤城と神楽の二人は何もない暗闇の世界で立ち尽くしていた。
「私はいいのよ、それでも」
闇の中でも神楽は赤城を見つめ続け、そう告げた。
その言葉に赤城は微かに反応するが、未だに視線を下げたまま神楽と目を合わせてはくれない。
「赤ちゃんがこの世界で生き続けたいのなら、私はそれを止めたりはしないわ。でも……本当にそれでいいのね?」
本当にこのままで良いのか。
そう問われた赤城は神楽の方に顔を向け目を合わせると、神楽は真剣な面持ちで赤城の名を呼んだ。
「赤城。貴方は、皆が守る為に戦ってきた世界を捨てて、この世界で生きる。それでいいの?本当に後悔しないのね?」
問いただされていく赤城の目からは、一滴の涙が零れ落ちる。
言葉が出ない。だが、少なからずその涙で赤城の思いは神楽に伝わった。
「怖いわよね……無理もないわ。この世界を出ても、由梨音ちゃんやレンちゃん……皆はいないもの」
この世界を出たら、またあの地獄のような世界を生きていかなければならない。
もう失うのは嫌だ。赤城には大切な人達が死んでいく悲しみに耐え切れない。
だが───このまま何もせず、ただただ死を待つだけの世界も、赤城にとって恐怖だった。
現実から逃げ、世界から逃げ、自分だけが逃げ続け、儚い幸せな世界で生き続ける。
それで誰が救われる?一時の間だけ、自分だけ救われるだろう。だが世界の為に戦ってきた仲間達は救われない、報われない。
赤城は迷っていた、そして揺らいでいた。
このまま夢の世界に残り続けるのか、それとも再び現実へと戻るのか。
自身の恐怖心を克服しなければ再び戦場に出ることなど出来ないだろう、赤城は選択に迷い、そしてこの二択に躊躇う自分に歯痒さを感じていた。
「決断しなさいッ!」
突如、優しく話しかけてくれていた神楽に怒鳴られ赤城は落としそうになっていた視線を再び神楽に戻す。
すると、目の前に立っている神楽も赤城と同様に涙を零し泣いていた。
何時も強気で自分の前で涙を見せる時など無かった神楽が今、涙を流し視線を逸らすことなく赤城を見つめ続けてくれている。
「これが最後よ。もう、二度も言わないわ……」
神楽の思い、そして現実の世界で散っていった仲間達の命と、託された志。
赤城は今一度全てを思い浮かべていくと、自分の目に溜まっていた涙を力強く拭った。
「決めたよ、神楽。私は───戦う」
はっきりと赤城がそう告げた直後、暗闇に覆われていた世界に白い亀裂が走りはじめる。
そして亀裂から光が溢れ出てくると、真っ暗に染まっていた世界は一変し、白く眩しい世界へと変化を遂げた。
───「ありがとう、ありがとう……神楽……」
赤城の声が聞こえてくる。
神楽は閉じていた目蓋をゆっくりと開けていくと、ベッドから上半身を起こした赤城が自分を抱き締めてくれていた。
赤城は目を覚ました。長い夢の世界を終え、再びこの世界の為に立ち上がる。