第169話 均衡、秩序
───唯は死んだ。
抱き締めてくれた温もりを忘れはしない。
自分の為に作ってくれた料理の味は今でもしっかりと思い出せる。
心配して涙を流してくれたあの表情も、料理を作ってきてくれたあの表情も、褒められ恥ずかしがる表情も、全て憶えている
可憐な笑みを浮かべるその表情、甲斐斗にとって眩しい存在だ。
唯は殺された。
誰が殺したのかが問題ではない。
何故殺されてしまったのかが問題であり、何故助けられなかったのかが重要だった。
だが、既に答えは出ている。
全ては自分の弱さが招いた結果。それだけの事。
唯を失った。
もうあの笑顔は見れない。
もうあの温もりを感じられない。
もう、あの手料理を食べる事が出来ない……。
世界とはいつもこう、思い通りになった試しがない。
いつも悪い方向へと進んでいく、気付いていても、理解していても、どうする事も出来ない。
……何、その方が何が起こるか分からないから楽しい、って。
そんな戯言反吐が出る。
唯は消えた。
もういない。
───邪神は目覚めた。
元々邪神とは甲斐斗の心に邪が巣くい存在している。
普通の人間は心が一つだが、甲斐斗の心は三つに分かれている。
一つは真心から生み出した存在。
一つは無心から生み出された存在。
そして最後の一つは、邪心から生み出された存在。
それは互いの意思と記憶を共有しており、個々の心が強すぎるだけであって多重人格という訳ではない。
つまり邪神も魔神も甲斐斗にとっては心が分かれていながらも同じ意思を持っているということになる。
ただ一つ言える事は、この三つの強大な心の内、誰の心が意思と肉体を支配するのかが問題だった。
勿論主人格であり『真心』を持つ甲斐斗が意思と肉体の主導権を持っている。
だがもし、その『真心』が死に絶え、消えてなくなるとすればどうなる。
残るは『無心』と『邪心』の二つの心だが、愛する者を失い心が壊れた甲斐斗にとって、『邪心』こそが今、最も相応しいものだった。
黒い影を漂わせる『邪神』は一向に動かない、だが足元から広がり始める闇は周囲を飲み込み混沌へと導いていく。
背部からは十本の黒い剣を延ばし、ふらふらと漂わせ何時襲い掛かってきてもおかしくない。
その変貌した邪神を見た紳は、邪神の姿に釘付けになっている兵士達を奮い立たせるかのように声を荒げた。
「何をしているッ!?Plant態が衰退している内に早く離脱しろ!!」
紳の言葉に脱出艇は一斉に発進し、機体達は護衛の為に戦線から離脱していく。
本来ならPlant態の猛攻を受けるはずだが、生い茂っていた全てのPlant態はまるで血を抜かれたかのように枯れ果て、灰となって散り始める。
「あのPlant態が死に絶えているなんて……一体、甲斐斗さんに何が起きているんだ……」
今までの魔神とは違う、全く異質な存在。
世界を戦慄させる程の圧力に、愁は今でも震えを止められずにいた。
それは単に『邪神』に対しての恐怖だけではなく、この戦場で失った掛け替えの無い命の重さを今更痛感していたからだった。
羅威は死んでしまった。
小さい頃から共に生き、そして戦ってきた親友。
多すぎる苦悩と絶望を乗り越え今まで戦ってきた羅威が、平和な世界を作る前に死んでしまった。
ようやく仲直りが出来て、肩を並べて歩けようになったというのに……。
「う……くううぅ゛……っ……」
今になって涙が零れはじめる。
まだ作戦遂行中だと言うのに、愁は誰にも聞かれる事なく咽び泣きはじめていた。
羅威を支えてきたアリスはERRORへと変わり果てて死んでしまった。
困っている人がいれば放っておけない性質で、誰よりも明るく優しい心の持ち主。
今でも羅威とアリスの笑顔を思いだせる、あの二人が命を落とすなど今でも信じられないし、信じたくもない。
だが、現実は受け入れなけばならない。
先に進む為に……この世界を、羅威やアリス、そしてロア、今まで出会ってきた多くの仲間達望んだ平和な世界にするために。
涙を拭う度に込み上げてくる思い。必ず世界を救ってみせる、そして人々が幸せに暮らせるような世界に必ずしてみせる。
これは約束。決して忘れる事のない、皆との約束───。
───戦場にただ一人残った紳は、その場に居る『デルタ』と『邪神』、二体を交互に睨みつけた後、ふと口を開く。
「さて……一体どっちが最強なんだろうなぁ」
二人を挑発するような物言いに、アステルは過剰の反応を示すと機体の両手から黒い球体を次々に作り出し始めた。
「何だよ……何なんだよお前えぇッ!?死んだんじゃなかったのかよォ!?さっさと死ね、死ねぇッ!!うひゃヒャヒャッ!!」
地面に立ち尽くす邪神はデルタにとって格好の的、黒色の波動を放ち無数の球体を命中させていく。
強力な磁場を纏った爆発により邪神の腕や足、そして周囲に漂っている闇を吹き飛ばしていく。
デルタの攻撃が効いている。一瞬、無敵の存在かと思われた邪神だったが、その体に傷が付き、背部から伸ばしてある影もデルタの攻撃でいとも簡単に吹き飛んでしまった。
「弱い弱い弱いィッ!結局お前は無意味なんだよぉおお!甲斐斗ォォオオオオオアアアッ!!」
両手を突き出し黒色の波動を放つデルタ、その一撃は今まで見せてきた時よりも格段に威力を増していた。
波動により掻き消されていく闇。だが、それはほんの一瞬に過ぎない。
瞬く間に大地は闇で染まり、ERRORや取り残された戦艦を飲み込んでいく。
空中を飛んでいるデルタと白義だったが、地上から無数の黒い影が伸び始めると、闇に引きずり込もうと一斉に襲い掛かってくる。
白義は双剣を振るい影に向かって攻撃すると、思いの他簡単に切断する事が出来た。
だが影の量は増え続け、切り落とされようとも構わず次々に影がデルタと白義に襲いかかる。
その更に上空を羽ばたいていた龍のマルスには黒い影が伸びては来ないが、ふと自分の背中に何者かが乗った事に気付き振り返る。
「この背中、少し借りるぞ」
龍の背中に乗っていたのは『エラ』だった。
エラはこのまま地上に残れば闇に飲み込まれ消えてなくなってしまう為、止むを得なく避難をしてきたのだ。
地上に居たERRORがどうやってここまで来たのかは分からないが、エラは上空から戦場を見下ろし眺め始める。
「龍よ、安心というのをしていい。お前が暴れさえしなければこの長い首を切り落としたりはしない」
軽い脅しをかけるエラだが、龍はそんなエラを見ても対した動揺を見せることもなく再び戦場に眼を向けた。
デルタは無数の影を振り払いつつ攻撃を続け、一方で白義は回避のみに専念していく。
邪神の攻撃の回避に専念する紳の狙いは一つ、『デルタ』の隙を突き破壊する事だった。
敵の敵は味方……と、この状況では言えないが、暴走する甲斐斗を上手く利用し、唯の命を奪った憎きアステルを殺す事を紳は諦めていない。
デルタと邪神が激しい戦闘を繰り広げる中、白義は双剣を握り締めると僅かな隙を狙いデルタに襲い掛かる。
「お前ぇ゛───っ!?」
仮にデルタが『最強』の機体だとすれば、白義は『最速』の機体だろう。
アステルが白義の動きに気付きデルタを動かそうとするものの、エネルギーを溜めていた右手を切り落とされ、その衝撃で右腕が爆発を起こしてしまう。
「よくも僕のデルタをォッ!!」
致命傷を与える事は出来なかったがあのデルタに傷を負わせる事に成功した紳、しかしデルタは切り落とされた右腕を復元していくと、両手から黒い刃を作り出し白義に向けて接近しはじめた。
「やはりこの程度の攻撃では倒せないか……ならば貴様ごと機体をバラバラに切り崩すまでだ」
込み上げてくる怒りを抑え、紳は冷静にデルタとの交戦を始める。
地上からは絶えず邪神の攻撃が行われており、白義は上手くその攻撃を利用しながらデルタの攻撃を避け、更に剣を振るい風の刃を飛ばしていく。
だが先程のように上手くはいかない。デルタは邪神の攻撃を避けながらも白義の攻撃すらも完璧に避け、その両手の刃で白義を狙う。
互いの刃は激しくぶつかり合い、火花を散らす激闘を繰り広げる。
流石は最速と呼べる機体『白義』。覚醒したデルタにも引けを取らない動きを見せるが、これは仮初の姿に過ぎず、限界まで魔法を発揮している紳の体は徐々に蝕まれ体力を削られていた。
対するアステルには疲労の色は一切無く、デルタも多少の傷を負っても瞬く間に修復してしまう。
戦闘が長引けば敗北は確実。デルタに勝つには早々に勝負を決めるしか方法はなかった。
「アステル、お前は自分が最強と言ったが。何故そうだと思う」
不意に紳がアステルに向けて話しかける、予想はしていなかったがアステルはその質問に笑いながら喜んで答え始めた。
「僕は失ったからだよぉ!?全部全部全部ッ大切な人達は皆死んだァッ!僕にはもう何もない!だから最強になれたんだよォ!?うひゃヒャヒャヒゃ!!」
「……お前は根本から間違えている。最強になる為の代償だと?それに大切な人の死がその代償と言うのか?そんな理屈に縛られているようでは最強には程遠いな」
「黙れえ゛えええぇぇぇェェェッ!!」
アステルを挑発する事でデルタの反応が僅かに遅れ動きが鈍るが、紳はわざと怒らせるような言葉を選んでいる訳ではなく、アステルの言葉を聞き率直な感想しか述べていなかった。
「最強とは何だ、お前に答えられるか?」
「うるさいうるさいうるさい゛ッ!僕が最強だって言ってるだろォッ!?」
ちょこまかと逃げ惑う白義に嫌気が差し、両手を向け強力な磁場で動きを拘束しようとするが、そのデルタの動作よりも白義の双剣を振るう速度の方が僅かに早く、瞬く間に両腕を切り落としてしまう。
「お前の理屈で行けば世界の大半は最強だな。それにお前は最強が何たるかをまるで理解していない。真の最強にはそんな代償など不要、お前みたいに代償に拘る奴は『最強』という力を恐れ、己が不幸を糧として無理やり制御できるものだと勘違いしている。そんなものは最強と呼べない」
両腕を切り落とされたデルタは瞬く間に腕の再生を終えると、白義が逃げられないよう全範囲に向けて黒球を放つが、白義はデルタの周りに竜巻を発生させると黒球同士を接触させ、誘爆を起こしていく。
「あの男、甲斐斗も同じだ。奴も間違っている。だが……奴は何れ、長い時を経て必ず気付くだろう。真の最強という存在に代償など必要なく、不可能を変え、常識を覆し、誰にも止められない力こそ『最強』だという事にな」
デルタの周囲を囲う様に爆発が連鎖していくが、デルタは一瞬でその場から離れると真正面から白義に向かって突進しはじめる。
「だったら僕を止めてみろよ!?最強じゃあないんだろう?うひゃひャヒャヒャ!!」
必ず倒してみせる───白義は向かってくるデルタに勝つ為に捨て身の一撃を与えようと見極めていた時、突如地面に立ち尽くしていた『邪神』から夥しい数の影が溢れ出て来ると、デルタと白義に向かって一斉に襲い掛かった。
「ッ!?」
デルタと白義が瞬時に影を避け迫り来る闇に向けて攻撃を放つが、簡単に掻き消されていた影は次第にその攻撃すらも飲み込み、侵食し始めていた。
影の数は増し続ける、邪神の本体からは黒く太い影が空に伸びており、広がっていた青空が瞬く間に闇に飲み込まれ始めていた。
大地と天空を侵食し、邪神の闇は深まるばかり。その様子を見つめていたエラは未だに人類同士で戦い続ける二人を見て軽く溜め息を吐いていた。
「あの二人、世界が終わろうとしている事にまだ気付いていないみたいだな」
相変わらず愚かで哀れな人間にエラは少し苛立ちすら憶えてしまうが、それもまた世界を見届ける自分の役割だと思いあえて二人には何も伝えない。
世界の終わりが近づいている事など二人は露知らず、邪神の猛攻を避けつつ己が命と信念を懸けて刃を交え続けていた。
しかし、刃を交えれば交える程紳は気付かされる。このままではデルタを倒す所かその前に邪神の闇に飲み込まれてしまう事に。
機体の限界は近い、肉体も悲鳴を上げ、額から止め処なく汗が滲み始める。
紳が弱っていく様子はデルタに乗るアステルからでも強制的に通信を繋ぎその姿を見ている為よく分かっており、もう紳の命が長くないのは目に見えて分かる。
「ぐ……ガはッ───!」
苦しそうに血反吐を吐き、右手で口を覆う紳。
空中を飛んでいる白義の体勢も徐々に傾き始め、その両手から双剣が零れ落ちてしまう。
地面に落ちた双剣は瞬く間に闇に飲み込まれてしまい。武器を落とした無様は白義を見てアステルは高らかに笑うと、デルタの両手を前方に突き出し白義の胸部目掛けて突進しはじめた。
「ウヒャひゃヒぁッ!!終わり終わリ終わりィイイイイッ!!」
浮いているだけで精一杯の白義、そして血反吐を吐き続ける紳。
もはや白義ではデルタに勝つ事は不可能。紳はその現実をその身で知り、向かってくるデルタの刃を見つめ続けた。
「ああ……終わりだ───」
これで終わり。
紳にとって生き残る事が勝利であり、何かを成し遂げてもそれで命を失えば敗北を意味していた。
つまりこれから起きる事は紳の敗北という事になるが、それはアステルにとっての勝利ではなかった。
デルタの刃が白義のマントを貫くが、そこに白義の姿はない。
武器を失い、死に損ないの男の姿を見てアステルは慢心していた。
たしかに白義にはもうエネルギーも殆ど残っておらず、紳の体力も限界が来ていた。
しかし、紳の心は全く折れてはいなかった。
どんなに絶望的な状況に追い詰められようとも、機体が故障し武器を失いその命が尽きようとしても、紳は最後まで視線を逸らす事無く見つめ続けた。
そして、それがこの結果を生む事になる。
デルタの背後に瞬時に回りこむ白義。もはや武器もなくLRCも撃てないこの状況で取った行動は、デルタの両肩を掴み地上へと全速力で落ちていく事だった。
「ぐうううぅぅぅっ!?」
突如両肩を抑えられ地面へと吸い込まれるように落とされるデルタ、その重力からアステルの体は逃れる事が出来ず、瞬く間に地上に落ちていく。
狙いは地面に叩きつけての破壊ではない。地面を覆う巨大な闇、そこにデルタを落とす事が紳の目的だった。
「お、お前えぇ゛っ!?このままだとお前も死ぬよ?死ぬよお゛!?」
「ああ、だからこの戦いは俺の負けで終わりだ」
既に覚悟は出来ている。白義の落ちていくスピードは更に加速し、機体が空気の壁にぶつかり振動も増していく。
「違うよ!?ぜんっぜん違うぅ゛!僕は死なない!死なない゛ィッ!!」
錯乱しながら白義を振り解こうとするデルタだが、時既に遅く、白義とデルタは一切機体を止める事なく地面へと直撃した。
その衝撃で白義の腕は潰れ、デルタも全身に亀裂が走り大地に埋め込まれる。
大地の闇に触れた二機、闇からは百を越える影が伸び始め、次々に機体に絡みつき闇の中に引き摺りこんでいく。
機体の中、そして操縦席にまで影は侵入し、次々にアステルの体に纏わり付いていく。
「ア゛あああぁぁあっ!?嫌だ!嫌だァッ!死にたくない!死にたくないヨぉ゛!!」
全身を覆う恐怖。影に触れて初めて分かる、今から自分はただ死ぬのではない、この闇に飲み込まれれば身の毛もよだつ程の世界が自分を待っていると気付かされるのだ。
「どうして、どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだあ゛ぁ゛!?だって僕っ、僕はただ、平和に暮らしていたかっただけなのにい゛、僕を最強にしたのは世界だろ゛!?ああああ゛ぁ゛!姉さん゛、ルフィスゥ゛、助けてっ、誰かァッ、助けてよおおおおおぁぁぁぁぁっ゛!!」
最後までアステルが正気に戻る事は無く、影に飲み込まれていくアステルは闇の中へと消えていった。
デルタも闇の中へと引きずり込まれ、覆い被さるように倒れていた白義も徐々に闇に飲み込まれていく。
「俺も……終わりか……」
そう言って紳は目を瞑りにそうになるが、自分の最後もしかと見届けようと迫り来る闇を見つめ続けていた。
デルタの破壊に成功する事は出来た、しかし世界は今、ERRORではなく甲斐斗の手によって終わりを迎えようとしている。
この場に残った以上、アステルを始末した後、甲斐斗を止めるはずだったが、もう止める術も力も紳はもっていない。
世界を平和にする為に生き続けなければならかった紳だが、平和な世界を見届ける前に一生を終えようとしていた。
足元に蠢く影、目の前からも無数の影が現れ紳に纏わりつこうとした……その瞬間だった。
突如太陽の如く眩い光が大地を照らし始める。
光は闇を照らし浄化していくと、白義を飲み込もうとしていた闇も全て光に照らされ一瞬にして掻き消されていく。
「っ……なんだ……?」
神々しい光に照らされ紳は白義を立たせると、闇を覆う邪神の前に、一体の機体が降臨していた。
一瞬天使とさへ見間違える程の神々しさ。何よりも美しく光り輝く翼がそれを物語っていた。
朱雀や鳳凰を連想させる程の美しい紅色の姿に思わず目を奪われる紳。
紅く透き通るレジスタルの翼を広げ、全身は装飾所か装甲や間接までほぼ全てにレジスタルを使い象らている。
それは全て神のレジスタルから取り出し作られた存在───。
操縦席に座り赤い長髪を括り、専用のパイロットスーツに身を包む一人の女性。
そしてその女性の膝に座る青い髪の少女。
世界は甲斐斗によって終わりを迎えようとしている
だが、ERRORから世界を救い、人類を救えるのも、甲斐斗しかいない。
「迎えに来たぞ、甲斐斗」
混沌とした戦場、そこに赤城とミシェル、そして赤城専用の機体『天極鳥』は降臨した。