第166話 優、一線
───全部隊に戦線離脱するよに命令を下した唯。
甲斐斗と分かれた後、意識を失い未だ眠り続ける紳の部屋に来ていた。
ベッドの上で眠り続ける紳、特に外傷はないものの、魔法を使い続けた事により魔力と体力を消耗し意識を取り戻さない。
部屋の外からは激しい銃声と兵士達の悲鳴が聞こえてくるが、唯は落ち着いた様子で紳の眠るベッドの横に立ち、両手で紳の右手を包み込むように握り締める。
「お兄様……」
こうして兄の手に触れる事など何年ぶりだろう。
唯は紳の手から伝わってくる温もりを感じながら幼い頃を思い出していく。
幼い頃はよく紳に手を引かれ歩いていた、しかし何時からか、紳は唯から手を離し一人先に進んでしまう。
あっという間だった。残された唯は一人歩き続けるも、気付けば兄である紳はBNの総司令官となり、全軍を指揮する偉大な存在へと変わっていた。
戦略を練る頭脳もさることながら戦術も卓越する程の身体能力と機体の操縦技術、まさにBNの希望であり、自慢の兄と言える。
しかし、そんな兄に対し妹の唯は何の力ももっていない。
かと言ってそんな自分を誰も責めたりはしない。責めるとしても、それはいつも自分だった。
いつも助けられてばかりの頼りない存在、いつも守られてばかりのか弱い存在……。
そんな自分を兄である紳はどのように見ているのか、不安になる時もあっだが、唯は紳の側に居続ける事で何時しか気付き始めていた。何故紳が自分を置いて先に進んでしまうのかを。
それは紳自らが先頭に立ち、道に立ち塞がる障害を退け、正しい道へと導く為の優しさだった。
手を引き共に歩む優しさもある、その方が互いが近く辛さや優しさを分かち合う事も出来るだろう。
だが紳は違った。唯の前に立ち塞がる全ての障害を全て自分一人で突破し、安全で優しい道を作り上げた後、その道を唯に歩かせる。
「私、お兄様の役に立てたことなんて一度もないと思ってました。無理を言って、いつも悩ませて……そんな私を今まで愛してくれて、ありがとうございます……」
眠り続ける紳を見つめながら唯はそう告げると、握り締めていた紳の右手をゆっくりと下ろし、顔を紳に近づけながら目を瞑り、その額にゆっくりと唇を近づけていく。
そして額に軽く唇が触れると、唯はそっと目を開きその寂しい眼差しで紳を見つめながら顔を離していく。
それから直ぐに唯は振り返り部屋の出口に向かって歩いていく。
部屋を出ると、銃を構えてた兵士達が両脇に立っており、唯はここに来る途中に命令しておいた事を兵士達に実行させる。、
部屋の外にいた兵士達は急いで紳の寝ている部屋に入っていくが、唯はその様子を見る事もなく一人通路を歩いていく。
「ごめんなさいお兄様。私……行ってきます」
ここから先には兄が用意してくれた安全な道はない、それでも唯は躊躇う事なく進み続け、決して足を止めようとはしなかった。
───医務室を出たエリル、警報機が鳴り響き戦艦がERRORに襲われているのを知ると、腰に掛けてある拳銃を手に取った。
愁と違って向かう先は格納庫ではなく、近くにあるもう一つの医務室だった。
恐らくアリスはその医務室にいるはず、エリルはアリスが心配になり探し回っていたのだ。
「早く艦から逃げないとマズイかも……アリスったらどこに居るのよ……っ!」
鳴り止まない警報、止め処なく聞こえてくる銃声、ふと窓の外を見れば見たこともないERRORが這い上がってくる光景が見えてしまう。
咄嗟に銃を構えるが、窓の外にいたERRORは既に姿を消しており、エリルは足早に医務室へと向かっていく。
そして要約辿り着いた医務室の前には、血塗れのERRORと人間の死体が横たわっていた。
医務室は大丈夫なのか……エリルは死んでいる兵士が握っていた機関銃を手に取ると、扉に向けて銃を構えた後、医務室の扉を開けてみせた。
「うっ……」
思わず目を背けたくなるような光景にエリルは息を呑む。
多くの人間が混ざり合ったかのような肉の塊。恐らく新種のERRORだろう、動いておらず既に息絶えているみたいだが、全身からは血を流し血生臭い匂いが室内に漂っていた。
医務室の床にはバラバラに引き去れた兵士達の死体も散乱しており、エリルは速やかに部屋を出ようとした瞬間、ベッドの下から一人の女性が姿を見せる。
「アリス!?」
怯えた様子で這い蹲りながら現れたアリス。頭からは血を流しており、その流血によりアリスの顔の右半分が赤く染まり、右目を閉じたまま左目だけでエリルを見つめていた。
「エリル……?良かった、無事みたいね……」
エリルは急いで駆けつけると、ベッドの下で身を隠していたアリスに手を貸しゆっくりと立たせていく。
「アリスこそ大丈夫なの!?頭から血が……」
ポタポタと滴り落ちる赤黒い血にエリルは心配になるが、アリスは口元だけ笑ってみせると元気良く喋り始める。
「大丈夫!大丈夫だから……これぐらい平気、それより羅威のいる医務室に戻らないと……!」
「えっ、医務室に?羅威だって警報を聞いて避難してるはずだと思うけど……」
その言葉にアリスは驚きつつエリルの方を見ると、その表情を見て羅威がまだエリルに真実を告げていない事を確信した。
「羅威から聞いてないのね……。羅威のばかっ……もう指一本すら動かせない状態なのに、何で……っ」
アリスの言葉を聞いて直ぐにエリルには理解できた。
戦場で見せた神威の覚醒した力。あの力が操縦者に悪影響を齎さない訳がなく、そもそも体調が悪いという理由でアリスのいない医務室に留まっている時点でエリルは羅威の様子がおかしい事に気付くべきだった。
「羅威も訳有りみたいね……わかった、急ぎましょう!」
医務室の扉を開け通路に出たエリルは急いで羅威の居る医務室に戻ろうとしたが、肝心のアリスは足元がフラついており、右手で頭を抑えたまま歩くので精一杯の様子だった。
「アリス……。ほら!肩を貸すから!」
恐らく誰よりも早く羅威に合いたいのはアリスだろう。しかし怪我の影響で体も意識も思うように働かない。そんなアリスを見兼ねたエリルはアリスの左側に立ち肩に掴まらせて支えると、小走りで羅威の居る医務室へと向かった。
銃声や警報が響き、脱出艇に乗り込むよう司令室から避難指示を行うよう指示が放送で聞こえてくる。
しかし羅威を置いて逃げる訳にはいかず、不安で高鳴る鼓動を抑えながらも二人は走り続けた。
幸いにも道中でERRORに会うことはなく、二人は無事に医務室に辿り着く事が出来た。
部屋に入れば羅威がベッドの上に寝ており、頭から血を流すアリスを見て声を荒げた。
「アリス!?どうしたんだその傷はッ!?」
「大丈夫、血が付いただけだから……っ。ちょっと、洗ってくるね……」
血で染みる目の痛みと痒みで医務室にある洗面台へと歩いていくアリス、その様子を心配そうに見つめていた羅威だが、エリルは未だにベッドの上で寝ている羅威を見て確信した。
「やっぱり……羅威、体が動かないのね?」
「っ……ああ、そうだ……すまない、黙っていて……」
「謝らないで!別に怒ってないもの。それよりここから脱出する事に専念しましょう、たしか医務室には車椅子があるわよね、それで今から羅威を───」
「俺を置いていけ」
「……何言ってるの?」
これから羅威をどうやって格納庫へと運ぼうかエリルが説明しようとした時、突如言葉を遮り羅威から放たれた一言。
この状況でそのような事を言われれば、当然エリルは羅威を睨み怒りを露にする。
「格納庫までには距離がある、今の俺では足手まといにしかならない。俺を守りながら移動するのはリスクが高すぎる」
そんなエリルに対し羅威は冷静に状況を判断しエリルとアリスの無事を優先した方法にさせようとするが、そのような事を言われてもエリルが引き下がるはずがなかった。
「だからって羅威を見捨てて逃げろって言うの?それで私が逃げるとでも羅威は本気で思ってる?」
「見捨てて逃げろだなんて俺は一言も言っていない。お前には紫陽花に乗って助けに来てもらう」
「私の紫陽花で……?」
「そうだ、この医務室は艦内で一番外側にある部屋だ。お前は紫陽花に乗った後、この部屋の壁に穴を空け俺を救い出せばいい、簡単だろ?」
「でも、それだと私とアリスが格納庫に行くまで羅威を一人にさせちゃうじゃない……!」
「それは───」
なんとかエリルを説得しようと羅威が再び口を開いた時、顔を洗い終えたアリスがタオルで顔を拭きながら近づいてくると、羅威の足元に置かれてある機関銃を手にとって見せた。
「私が羅威の側にいる!エリルが来るまで絶対に羅威を守るから安心して!」
約束は絶対。
羅威、そしてアリス、二人が離れ離れなる事はない。
たしかにここに残る事はERRORに殺される可能性もあり、不安な気持ちで心が押し潰されそうになる。
だが、こういう状況だからこそ弱気になってはいけない。
エリルが羅威を心配する気持ちは痛い程分かるが、現時点では羅威を置いて格納庫に向かう方が安全なのは間違いない。
それならアリスがこの場に残り羅威を守ることに専念すれば、羅威の危険は少しでも和らぐだろう。アリスは心配をかけまいと笑みを浮かべて見せた。
そのアリスの笑みを見たエリルと羅威は、ふと互いに顔を合わせ無言のまま見つめ続ける。
「……エリル、行ってくれ」
微かに動揺するエリルを見つめながら羅威はそう告げるが、エリルは羅威を見つめたまま言葉が出せない。
それを見ていた羅威はふと横目でアリスを見た後、もう一度エリルを見つめながら呟く。
「頼む……側にいさせてくれ」
それを聞いたエリルは後ろに振り返ると、黙って医務室を後にした。
格納庫へと向かい全力で走り続けるエリル、その視界は溢れ出る涙で曇っていた。
「どうしてっ……どうしてこうなるのよぉッ……!」
この込み上げてくる感情は何か。
怒りか?悲しみか?悔しさか?その全てだろう。
あの時見たアリスの笑み。たしかにアリスは笑っていたが、それは顔の左半分のみ。
血で汚れていたはずのアリスの顔の右半分の皮膚は爛れ落ち、目は赤黒く充血していた。
明らかに人間の顔ではない。顔を拭いたであろうタオルは血で真っ赤に染まっており、洗い終えた顔からは止め処なく血が滴り落ちている。
その異変にアリス自信が気付いていない事がエリルにとって何よりも恐怖であり、同時に絶望だった。
もう助からない───エリルが医務室に駆けつける前に、ERRORから噴出してきた赤い液体に触れてしまったアリスは、既にERRORに侵食されはじめていたのだから。
……違和感は感じていた。だが真実を知るのが怖い。
アリスは部屋から無言で出て行ったエリルを見つめていたが、羅威に声を掛けられ咄嗟に振り返る。
「来てくれ。今から俺と約束してほしい」
アリスの異変に気付いているものの、羅威は普段と全く変わらない様子で呼ぶと、自分の寝ているベッドの右側に座らせた。
「俺の手を握っていて欲しい。決して放さないでくれ……約束してくれるか?」
「……うん、約束するね」
その羅威の言葉に、アリスは手に持っていた銃を床に落とすと、震える両手で羅威の右手を握り締めた。
顔を洗ったと言うのに顔の痒みが治まらない。それに先程から右目に鈍痛が走りまともに目を開けない状態、だから右目の視界が暗いのだろうとアリスは思っているものの、現実では右目は見開き充血した眼球が僅かに飛び出ている。
そんなアリスの変化にも羅威は全く動じない。アリスの不安を余所に羅威は右手を握り締めてくれるアリスを見つめ続けてくれている。
「ねえ羅威……怖く……ないの?」
この状況で『何が』怖いのか……アリスは聞けない。
警報が鳴り響き、先程まで聞こえていた銃声も今では聞こえなくなっている。
それが何を意味するのか……考えなくても分かる事だった。
いつ扉を打ち破りERRORが進入してくるか分からない状況だと言うのに、羅威は恐ろしい程に冷静で落ちつている。
それに、自分の体に異変が置き始めている事もアリスは感じ取っており、先程見たエリルの表情だけで大体察しはついていた。
「アリスはどうなんだ?」
「わ、私?……私は……怖いよ」
平然と質問を返され、アリスは咄嗟に本音を喋ってしまう。
「どうしたらいい?」
「えっ……?」
「どうしたら俺はお前から不安と恐怖を取り除く事が出来るんだ?」
今の羅威に出来る事。それが何なのか羅威自身分からない。
もう愛する人を助ける力も残っていない。言葉で語りかける事しか出来ない羅威には、今のアリスに何をしてあげればいいのか知りたかった。
暫く沈黙が続いた後、アリスは思い切って一つの提案をしてみる。
「キス……してもいい?」
その問いに羅威は言葉では返さず、優しく微笑みアリスを見つめた後、ゆっくりと目蓋を閉じた。
いつも以上に胸が高鳴る。こんな時に自分が恥ずかしい事を言ってしまった事に今更赤面してしまうが、後悔だけはしたくない。
「世界は悪くなる一方だけど……羅威は何時も暖かくて、優しいね……」
世界は今も尚最悪の状況へと向けて変わり果てていく。
しかし、それでも人間達の志、そして羅威の思いだけは決して揺るぎはしなかった。
アリスは目を瞑り羅威の手を握り締めたまま顔を近づけると、二人は優しく唇を重ね合わせた。