それを口にはできなくて…
暖かい部屋に帰ると、そこには三日前と同じ光景があった。
建物は築二十年以上とボクたちよりもずっと年上だけど、リフォームのおかげでそんなことは一切感じられない。ガスではなくIHのコンロのあるキッチンは手狭だけど、火事の心配も少なくて便利だ。その奥はソファーや小さな液晶テレビを置いた共有スペース。大して広くはないのだけども、物が少ないおかげで結構ゆとりがある。
もっとも、それは真が居ないとき限定だったりするのだけど。
「おかえり」
同居人の低い声に、軽く手を振って無事帰宅したことを伝える。
すると彼は本に栞を挟み、パタンと軽い音をたてて閉じる。彼が手にすると大きな本も文庫のように見えてなんだか可笑しい。
挨拶だけのそっけない対応。三日ぶりの再会にもう少し何かあっても良いんじゃないかな。
真の淡白な態度を物足りなく思いながらも靴を脱ぎ、荷物の詰まった鞄を自室へと運ぼうとする。
すると真はそんなボクの背中に、「ココア飲むか?」とぶっきらぼうに言葉を投げかけた。
その言葉に思わず耳を疑ってしまう。
自分で期待しといてなんだけど、口数の少ない真が挨拶以外で話しかけてきた上に、そんな施しまでしてくれようとは。
真は無愛想だけど、決して性格が悪いわけではない。むしろ優しいと分類しても良いくらいだ。だけど、それが目に見えて発揮されるのは珍しい。
ボクは驚きながらも彼の善意に甘えることにした。コートだけ脱いで制服と三日分の着替えが入った鞄をそのまま床に降ろす。先に荷物を置いて来ようかと思ったけど、そのままテーブルと同じ木製の椅子に腰掛けることにした。
彼の広い背中をながめながら、ココアが出来るのを待つ。
ほんのりとシナモンの香りがブレンドされた、甘い香りが漂ってくる。小さく見える大きめのマグカップが二つ、彼の手に握られ運ばれてくる。
テーブルを経由し、かわいい柴犬のイラストの付いたそれを受け取り、軽くその匂いを楽しんでから口をつける。
うん、美味しい。
強い甘味が疲れを和らげ、冷えた身体を暖めてくれる。いつもより甘い物が美味しく感じるのは、気付かぬうちに疲れが溜まっていたのかもしれない。
カップの内側から、正面に座った真へとこっそり視線を移す。
真は愛嬌のある三毛猫のイラストのカップを手にしたままフウフウと息を吹きかけている。頃合いをみて口を付けたものの、眉をひそませただけですぐに離してしまう。そこに描かれた猫と同じで、彼は熱いものが苦手なのだ。
そんな可笑しさを表に出さないようにグッと堪える。
いつも平静を保っている真が、そんな些細なことで表情を変えるなんて、いったいどれくらいの人が知っているんだろう。ひょっとしたら同じクラスではボクだけかもしれない。そう思うとちょっとした優越感が沸いてくる。
真のそんな一面を見ることができるのは同居人としての特典だ。彼を外見と噂でしか知らない人たちは、「怖くないか?」とか「彼との同居は問題じゃないか?」と心配するけど、それは偏見であり彼に対してとても失礼だ。
確かに真はホラー映画の怪物にほんの少しだけ似ているし、ちょっとした問題を起こすこともある。さらには不器用で力加減が下手なせいで色々なものを壊し、影では破壊神とまで恐れられていたりもする。本人が故意に破壊活動を行うようなことなんて滅多にないのに。
まぁ、彼の声と外見で「何か言ったか?」と、人の意見を訪ね返す様子は、知らぬ人から恐ろしく感じるのも仕方ないかもしれない。
それでも、真には真で良いところがいっぱいあるんだ。そのことをボクとしては声を大にして主張したい。
彼は必要以上に同居人であるボクに干渉しない。でも、困ったことがあれば、すぐに察して今のように少しだけ気を利かせてくれる。
頼めば大抵のことを手伝ってくれるが、それをこちらが願わないうちから押し付けることはまずしない。過保護な人たちに囲われたボクにとって、その距離の取り方はとても心地良かった。それは贅沢な考えだと思うのだけど、受ける側としては負担に思う気遣いだってあるのだ。多分、彼もそれを知っていて、ほどよい距離を心がけてくれているんだと思う。
更に言えば真の良いところは性格だけではない。掃除洗濯はおろかボクの苦手とする料理もソツなくこなすのだ。人は見た目によらないとはよく言ったものだとつくづく思う。おっと、これも失礼か。
改まって、そんな状況を省みると、ボクの方こそ真の同居人に相応しいか怪しく思える。
もともと彼が二人部屋を一人で利用していたことを理由に、ボクが強引に乗り込んできたのだ。彼としては厄介者が乗り込んできて、さぞかし迷惑だったろう。それでも出て行くつもりはないんだけど。
「ちゃんと塩ふったか?」
真の言葉にうなずく。カップを大きく傾け、残ったココアを口の中に流し込む。
真はそんなボクを見て「そうか」と小さく言っただけで、それ以上のその話題には触れようとしない。ここでも気を遣わせているらしい。まぁ、当然と言えば当然なのかもしれないけど。
ちなみに、塩というのは『お清め塩』のこと。
ボクの三日間の不在は、妹の通夜と葬式に出席するためのものだった。
妹が死んだことを、電話で母から知らされたのは五日前のことだった。その後、通夜と葬式の日取りが決まってから、学校の制服を抱え彼女の住んでいた家へと行ってきた。
二つ下の妹とはボクが高校に入ってから、すっかり疎遠になっていた。最後にちゃんと会ったのが高校に上がってすぐの頃だから、一年半くらい会ってないことになる。色々あったせいで、その記憶は少し曖昧なのだけど。
葬儀の準備は両親が行っていた。というか、ほとんど葬儀屋さんと部落の人たちが慣れた感じに手配してくれたようだ。遺品整理もボクが到着する前に済ませたらしい。
本当に式に参加しただけ。ボクがそこでした事といえば、制服で遺族の席に座っていただけ。
他には彼女が死んだという事実を確認したことくらいか。
式の間はずっと暇であった。
そういえば、正月を前に再会した彼女もまた棺桶の中で暇そうにしていたっけ。
花に囲われた妹の様子を思い浮かべる。丁寧な化粧がほどこされた顔は想像していたよりもずっと綺麗で大人びていた。
ボクも死んだらこうされるのかな。
彼女とはよく似ていると言われていたっけ。もう、そんなことはないんだろうけど。
不意に鼻からツツーっと何か流れる感触がした。それが何かわかると、記憶に浸っていた意識が羞恥心により引き上げられる。
寒い外から帰り、暖かい部屋でココアを飲んだせいだ。
「ぷっ」
まだココアに苦戦していた真が、本日三種類目の表情を隠そうとする。
慌ててそばに置かれた箱からティッシュを抜き鼻をぬぐう。しかし、ボクの鼻から流れる液体はその程度ではなくならない。人前で大きな音を立てるのは恥ずかしい。でも、それでは鼻に不快感が残ったままだ。一旦荷物を置くためにも、自室に戻ることも考えたけど、席から離れると彼の優しさが途切れてしまうのではないかと不安になる。そして何度も同じ事をするよりはと割り切って、思い切り音を立てて鼻をかむ。彼の前ならそれも構わないだろう。
平静を取り繕おうとする真を見ると顔が熱くなる。
かみ終えたティッシュをゴミ箱に投げ入れると「大丈夫か?」と尋ねられた。
思いっきりかんだので、鼻の頭が赤くなってるかもしれない。それとも風邪の心配でもされたかな。ボクはもう一度コクリとうなずいて大丈夫だと伝える。
特に無理をしているつもりはない。実際、ボクは彼女と再会してからも涙の一つもこぼしていない。むしろ、こんなにも薄情なボクが人として大丈夫か心配なくらいだ。
ひょっとして、真はそのことを心配しているのかも。いや、さすがにそれは考えすぎか。
ボクは葬儀の最中も霞がかかったような風景をながめていただけ。いろいろと思うところはあったけど、それは悲しみとは少し違う。式の合間に顔も覚えてない親戚たちと会い、何か話した気もするけど、どんな内容だったか。
そういえば、お経というのは生で聞くと意外と心地よかったな。
「本当に大丈夫か?」
不意に覗き込んだ真の顔が近くなる。
ボクはそこから椅子を後ろに傾け遠ざけ、赤くなったままであろう顔を前に何度も傾ける。
「そうか」
そう短く言うけど、あまり納得していないようだ。
壁に掛けられた鏡をチラリと覗くけど、変なところはない……と思う。それとも自分では判らないだけで、やっぱり何か変なのだろうか。だから彼はこんなにもボクを気にかけてくれるのかもしれない。
空になった柴犬のマグカップを手の中で弄びながら考える。
ボクみたいな薄情な奴にそんなに気を使ってくれるなんて、やっぱり真は良いやつだ。まるでおとぎ話の王子様だ……見た目は魔王役がハマりそうなんだけど。
そんな事を考えていると、またちょっと笑いがこぼれそうになる。お葬式から帰って、こんなことで笑っているなんて不謹慎にもほどがある。もし、そんなボクの心内に気付いたら、良識家である彼はどう顔をするのだろう。
またボクにだけ違う表情を見せてくれるかもしれない。
笑いが絶え切れていなかったのか、ボクの顔を見る表情は胡散臭そうなものに変わっていた。
さて、このまま彼の不審を買うのは好ましくない。なんとかして誤魔化さねば。そういえばお土産があったんだ。
真のために買って来た、地元の名菓をカバンの中から取り出す。
妹の好きだったお菓子を何も言わずに彼の前にさしだす。
それだけで彼ならきっと察してくれるハズだ……ボクの都合の良いように。
もっとも、ボクが一番に伝えたいのことは、想像もして貰えないんだろうけど……。
$ $ $ $ $
冷たい空気が肌に触れる。
――扉が開いたな。
そう思い、視線を入口へと向ける。扉の前には大荷物を抱えた葵が立っていた。
シンプルなコート羽織り、大荷物を抱えている。寒さに震える姿は、家出した女子中学生のようだ。実際は、寮に帰ってきた男子高校生なんだが。
肉親の葬式から帰った同居人に、どんな言葉を投げるべきか。すぐには思いつかずに、無難な言葉だけを紡ぐ。
「おかえり」
葵はそれに手の動きで返した。
いつもの子犬のような笑顔はさすがに今はない。それでもさして悲しそうにしてないのは、葬儀の間に立ち直ったのか、それとも単に空元気なのか。
もしくは、普段見ぬこの表情は実は怒りの表れのだろうか。
そんな訳はないと思うも、確認をためらう。
オレから視線を外した葵はそのまま部屋に向かおうとする。その姿が気になり呼び止めてしまった。
「ココア飲むか?」
少し声が大きかったようだ。葵が驚いたような顔をしている。それでも素直に席へと着いた。荷物くらい、先に置いてくればいいものを。
自分から誘って、帰ったばかりの相手に用意させる訳にもいかない。ソファーから立ち上がると狭い台所へと移動する。
インスタントココアの入った缶を取り出し、二人分のマグカップを用意する。
粉のココアをカップに三杯スプーンで放り込む。カップにお湯を注ぎ、横目で葵の様子を探る。
いつもと違い、何を考えているのか判らない。
普段、オレが人から指摘されていることを実感できる。相手が何を考えているか判らないと不安になる。他のヤツなら気にしないが、さすがに同居人の異変が気にならない訳がない。
湯気の沸いたカップをスプーンでかき混ぜる。ついでにいつまでも減らないシナモンもふっておく。たしかシナモンは身体を温める効果もあったはずだ。入れて損はないだろう。
マグカップをテーブルの上に運ぶ。不細工な猫のカップを自分の前、もう一つの犬のカップを葵の前に。
葵がカップに手を伸ばし口をつける。オレが躊躇しているのに、平気な顔でココアを飲んでいる。
その様子に、試しに口を付けてみたものの、すぐに後悔する。
――やはりまだ早い。
思わず眉をひそめる。
そんなオレの仕草に何か言いたそうな表情だ。何も言ってはこないが。
それとも実は別の事が気にかかっているのだろうか。
いや、そんなハズはない。
「ちゃんと塩ふったか?」
思い出したように確認する。細い髪の毛を揺らし、肯定の仕草をする。
「そうか」
そこで会話が止まる。
……沈黙が気まずい。
ココアを飲み終えたなら、さっさと部屋に戻ればよいものを。お代わりが欲しいのだろうか。それとも俺に自白するよう圧力をかけているのか。
いや、気付かれているハズはない。オレの思い過ごしだ。
掃除は徹底的にしたし、箝口令も敷いてある。帰ったばかりの葵に密告する者はいない。
それでもオレの心に平静は訪れない。
さっさと部屋に待避したいが、まだ熱いままのココアが残っている。このまま立ち去るのは不自然か。いっそ氷でもぶちこむか。
葵はお代わりを要求するでもなく、片付けるわけでもなく、空カップをもて遊んでいる。自ら立ち去る気配はない。
いつもと違う表情、いつもと違う仕草がオレの緊張を大きくする。
その葵が唐突に鼻水を垂らした。
「ぷっ」
緊張していたところに不意を打たれ表情が崩れる。
笑ってはイカンと思いつつも堪えきれない。
葵は慌ててティッシュで鼻をかんでいる。
「大丈夫か?」
気にしすぎだと思いつつも確認する。それに葵もうなずいた。
――今のは外との温度差で出ただけ……だよな?
葵の顔を見ると、帰ったときよりも少し赤らんでいる。
そのまま返事を信じていいものか迷い、もう一度確認する。
「本当に大丈夫か?」
葵の右手を胸の前で動かすのは『大丈夫』という意志表示だ。さっき本で覚えたばかりだから間違えてはいないだろう。もっとも葵も使い馴れないそれを間違えている可能性もあるが。
「そうか」
葵は無言のまま、こちらを盗み見ている。
――何か聞き漏らしたか?
いや、他の連中ならまだしも、コイツに限ってはそれはないか。
――じゃぁなんだ?
思い当たる節は一つしかない。
やはり葵が不在の間にしたことがバレたのだ。それ以外に考えられない。
不意に葵と目と目が合う。
やはりその目つきはオレの不実を見抜いている。なのにそれを直接指摘しようとはせず、無言の圧力をかけ続けている。
葵がアレルギー持ちの可能性もある。やはりここは早めに謝った方が得策だ。
オレの決意を打ち消すように、だしぬけに葵が入口を振り返った。
$ $ $ $ $
部屋に入ると、最初に葵ちゃんが振り返り、それに気付いた真も私に視線を向ける。真、一人だけだと思ってノックを省略したのだが、もう葵ちゃんが戻っていたので少し驚いた。
「ウエルカムホーム、葵ちゃん♪」
二人でテーブルに座り何か飲んでいる。でもなんだか雰囲気がほんのりと怪しい。
葵ちゃんの顔が赤いことからして、告白の現場にでも踏み込んじゃったのかしら?
もしくは、真の浮気が発覚したとか?
葵ちゃんラブなワタシとしては後者が望ましいけど、真にそんな甲斐性はないだろうな。そもそもコレに近づこうという物好きは葵ちゃんくらいなものだ。
並の男では三日と同居を続けられなかったのに、女の子でありながらそれを続けるとは。彼女もなかなかいい根性をしている。もしくは女の子だからこそなのだろうか。そこまではさすがにラブラブ師匠のワタシでもちょっと判断がつかない。
真と葵ちゃんの同居するこの部屋は、元々二人部屋として扱われるハズだったのだけれど、真と三日以上一緒に住めたヤツがいなかったせいで、しばらく一人で住んでいた。
そこへ突然、葵ちゃんが押しかけてきたのだ。それも男子学生のフリをして。
まったく近頃の女の子の考えることは判らないわね。まぁ、相手が真だし案外なんとかなるかな~、って放置してたんだけど案の定だったわね。
後になってちょ~っとマズイかなって思ったけど、まぁやっちゃったものは仕方ない。外部にバレなければいいのだ。それが臨機応変ってやつよ。
それにしても、春からずっと一緒にいて気付かないとは、あの朴念仁は耳だけでなく目も悪いらしい。もっとも他の連中は何も気付いていないから、アレだけが鈍感というわけでもないのだけど。どうして、こんなに可愛い女の子を見て誰も気付かないのか不思議だ。
ワタシには、彼女の心の内まで透けているというのに。
もっとも、それを勝手に伝えるような無粋なマネはしないけどね。
「あら、タイミング悪かったかしら?」
このビューティフォーなワタシが現れたのに、歓迎の言葉もかけない礼儀しらずに言ってやる。
「なんのようだ?」
ちまたで破壊神と恐れられる真が、私に声をかける。その厳しい顔は怒っているように見えるけれど、多分そんなわけではない。なんだかんだでコレとも長い付き合いだし。
「あら、ワタシにそんな口利いていいの?」
ハッキリとした口調で言うけれど、それは真の弱みを握っているからではなく、相手の耳が悪いからである。
「そんな態度とってると、あの子のことバラしちゃうわよ」
と言ってもそれは、葵ちゃんがいないときに真が連れ込んだ子猫の話なんだけれど。
「可愛い子だったわよねぇ」
そんなワタシの発言に真があからさまに動揺し、それを読み取った葵ちゃんの目つきが鋭くなる。
そんな二人の様子は微笑ましい。
寮がペット禁止とはいえ、無理に隠すほどのことでもないだろうに。
それにしてもこのままじゃ、疎外されているようでさびしいな。なんと言って二人の間に割り込もうか。さしあたっては、葵ちゃんの前に置かれたお土産をたかることを理由にしよう。
そういえば彼女、妹さんのお葬式に制服を持って帰ったらしいけど……学ランで式に出たのかしら?
聞いてみたいけれど、それはちょっとできないのよねぇ。
〈了〉
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