1-6
良い香りがする。
乙女の恋のような甘酸っぱさに森の野生的な香りが混じり、とても懐かしい匂いだった。
ここは私の小さな部屋だ。
もうすぐ乳母が私を起こしに来るだろう。
でも今はもう少し………………
………………………………………………………………………………………………
次第に意識がはっきりしてくる。
ビアンカは目を開くと自分の上に屈み込んでいる髭面の男を見て身を震わした。
悪い夢だと思ったのに、どうやらこちらが現実らしい。
「目が覚めたか? 」
差し出された小さなガラスのコップに首を振ると、顎を掴まれて無理矢理口を開かされた。
喉を焼くように流れ込む強い酒に激しくむせた。
悔し涙が溢れる。
だが、同時に鼻腔を満たす密やかな甘い香りに気が付いた。
懐かしい故郷の森の野苺の香り……
地べたに生えるものとして貴族には好まれないが、母上のとても好きな果物だった。
毎年苺の実る季節になると母上と城に勤める女達と昼食を持って森に行った。
それは幼い子供にとって、とても楽しい行事だった。
草の上に敷かれた毛布に座って食事をした後は、それぞれ小籠を持って森の中に分け入って行く。
去年苺を見つけた場所を探し、目を皿にして屈み込みながらそろそろと歩いて行くのだ。
緑の葉の陰に隠れている鮮やかな赤い小さな実を見つけた時の喜びを思い出す。
口に含むと野生の果実特有の濃厚な香りと甘酸っぱい瑞々しさが広がり…………
傍に人がいることも忘れ、物思いに浸っていたビアンカは、急に立ち上がった男をびっくりしたように見上げる。
男が上着を脱ぐのを見ると顔を強張らせてベッドの中で後ずさった。
「……いや」
黙ったままシャツのボタンを外す男から身を守るように蹲る。
そして、精一杯威厳を保とうと努力しながら顔を上げて相手を睨みつけた。
「いやっ、近付かないで!! もし私に触れたら……」
「触れたらどうするのか? ここは俺の城でおまえは俺の妻だ。どんなに酷く扱ってやっても俺を止めようとする者は誰もおらんぞ」
シャツを脱ぎ捨て上半身裸になった男の体は逞しく、薄暗い中でも硬く筋肉の盛り上がる腕が見えた。
「ジョルジオ様! 」
恐怖に引き攣った顔で小さな叫び声を上げたビアンカに、伸ばしかけた腕を下ろしきつく拳を握り締めながら男は唸った。
「ジョルジオは俺の弟だ。おまえがいくら誘惑しても俺を裏切ることはない」
「お願い、今夜だけは……」
「結婚が遂行されなければ、おまえを父親の許に返すことになる。それが、ダ・ラ・テュルカ家にとってどんなに不名誉なことなのか理解できるか? 」
ビアンカはベッドの上に跪き両手を組み合わせ、潤んだ瞳で男を見上げた。
「どうかお願いします。今夜だけは一人で休ませてください」
暫く二人は黙ったまま見つめ合っていた。
二人の間に横たわった沈黙を破るように風が雨戸を揺らし、男は唇をギリと噛み締めた。
「勝手にしろ!! 」
吐き捨てるように怒鳴ると、シャツを羽織りボタンも留めずに長椅子に投げ出してあった剣を腰に吊って部屋を出て行ってしまった。
ビアンカは男の足音が消えるまで身動ぎもせずにベッドの中で震えていた。
そして自分が男のベッドにいることに気付いたが、今更自分の部屋には戻ることができなかった。
苦い涙が枕に零れた。
どうしてこのようなことになってしまったのだろう?
私はあの野蛮な男とではなく私の天使様と結婚したと思い込んでいたのだ。
それなのに、あの男は自分が私の夫だと言う。
結婚式のことが少しずつ記憶に蘇ってきた。
…………汝はモンタルディ家当主ジョルジオ・モンタルディを生涯の伴侶とすることを誓うか?…………
モンタルディ家当主ジョルジオ・モンタルディ?
そうじゃないわ。
あの時、司祭は確かにこう言ったのだ。
…………汝はモンタルディ家当主ジョヴァンニ・モンタルディを生涯の伴侶とすることを誓うか?………………………………
………………………………はい…………
そう、私は「はい」と答えてしまったのだ。
絶望に胸が張り裂けそうだった。
翌日、目の下に黒い隈をこしらえたビアンカは侍女に手伝ってもらい何とか着替えを済ませた。
何をするのも億劫だ。
食欲も全然なかった。
城主が朝早く狩りに出かけたと聞いてやっと広間に下りていく勇気が出た。
だが、部屋を出たことを直ぐに後悔した。
ビアンカの姿を認めたバルバラが早速話しかけてきたのだ。
「具合はもう良いのかしら? 侍女が言っていたけど昨夜は貴女が病気で床入りはお流れになってしまったそうね。ジョジョったらさっそく馴染みの女の処に通ってたわよ。男って本当に節操がないわよね。これからは貴女が奥方様なんだからちゃんと見張ってないと駄目よ」
大声で泣き叫びたくなったが、そうもできずにビアンカはぐったりと椅子に腰を下ろした。
バルバラは話し続けているが、もう何も耳に入らなかった。
召使達も自分の方を見ながらこそこそ話しているような気がする。
蝿が一匹テーブルの周りを飛んでいる。
自分は何をしてしまったのだろう?
パン屑にとまって脚を擦り合わせている虫を見ながら考える。
あの時「はい」とさえ答えていなければ……
いいえ、何も変らなかった。
父は申し込みを受けてしまったのだもの。
このちっぽけな虫と同じ。
私には拒否する権利なんて最初からなかったのだわ。
今夜はどうしてもあの男を受け入れなければならないのだろう。
身震いするほどの不快感にビアンカは俯いて硬く歯を食い縛った。
きつく閉じられた眦から耐え切れない雫が溢れた。
そして、私がジョルジオ様に感じているこの気持ちは持ってはならないもの。
私は既に別の男のものだから……
午後からはモンタルディ家当主の結婚を祝って城の裏にある野原で馬上槍試合が催された。
戦から戻ったばかりのこともあり身内だけの小規模のものであったが、それでも武装した男達や馬を引いた小姓が行き来する庭は大層賑やかだ。
空地の片隅には戦士たちの天幕が張られ、奥には材木で作られた桟敷が建てられている。
石のおもりを裾に縫い付けた艶のある青い布で覆われた台の上には、城主の家族や客の為に城から持ち出してきた椅子が並べられ、日差しを避けるように白い布が天井代わりに張ってあった。
また、試合の合図をするラッパ手や見物人用の柵が試合場の周りをぐるりと囲っている。
既に城下町の職人や領地に住む村人達が騒がしく話しながら前の方の席を陣取っていた。
真夏の太陽が照りつける地面は、夏の初めに良く雨が振った所為か青々とした草に覆われている。
人々は眩しさに目を細め額に汗を浮かべながら、早く始まらないのかと爪立ちで城の方を見ていた。
待ち草臥れた子供が柵を潜ってうろうろしだし、その後を追う親の叱る声が聞こえる。
とうとう騎士入場のラッパが吹き鳴らされ、皆一斉に期待に満ちた顔を城の方に向けた。
城主の叔父とその娘、そして執事が城の裏庭に続く石の門から姿を現した。
召使や侍女を従えた一行はゆっくりと野原を横切り桟敷に上がった。
その時、天幕のひとつから出てきた背の高い男が桟敷を見上げると眉を潜めた。
非常に逞しい体躯の戦士で、既に鎖帷子を身に纏っている。
苛立たしげに舌打ちをした男は、天幕の中を振り返って鋭い声で小姓を呼びつけると、城の方を顎で示しながら言った。
「奥方の様子を見て来い。俺に担ぎ上げて連れ出されたくなけりゃ、さっさと下りて来るようにと伝えろ」