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城主の部屋に向う途中の踊り場にはガラス板の嵌った小さな窓がある。
そこから差し込む夕日が階段を橙色に染めていた。
ビアンカは立ち止まると脇に避けて階段を上がってくる者を通そうとした。
相手もビアンカに気付いたのか歩みを止めて顔を上げる。
先程の無礼な兵だ。
あの偉そうな態度から見ると隊長なのだろうか?
できれば近付きたくない類の男だが、狭い通路では避けることは不可能だった。
仕方なく失礼にならない程度の挨拶をする。
男が近付くと汗と血と酒の混じったようなツンと鼻をつく異臭がした。
酔っているのだろうか?
男は藁で包んだ葡萄酒の瓶を握った手を相手の方に差し出しながら、馬鹿にするようにぶらぶらと振った。
直接瓶から酒を喉に流し込む男を顔を顰めて眺めていたビアンカは、口元を拭った男が急にずいと近付いてきて自分の手を取ろうと屈んだのを見て思わず飛び退いて叫んでいた。
「無礼者!!! 離れなさい!! 私が誰だか知らないの? 」
ラッパ飲みをした瓶を足元に落とし、いきなり笑い出した男に震え上がるが、恐れているような風を見せてはならない。
「ビアンカ・ダ・ラ・テュルカ。いや、今はビアンカ・モンタルディか。初めまして、モンタルディの奥方」
「……」
男は芝居がかった身振りでお辞儀をすると自分を睨みつけているビアンカに言った。
「勝利を祝って祝杯をと思ったのにとんだご挨拶だ。躾がなっていないようだな」
「なっ……」
頭にカッと血が上り怒りのあまり口も利けない娘を面白そうに見ている。
「さっきまではあんなに威勢が良かったのに、いったいどうなさった? 」
ビアンカの心の中を見透かしてでもいるように、にやにやしながら見下ろしてくる男に怒りが爆発した。
「貴方なんか! いくら戦で手柄を立てたとしても私に無礼な真似をしたらジョルジオ様に言って牢にぶち込んでやるから!! 」
「……ジョルジオ様? 」
「そうよ。私の旦那様、貴方の城主様よ!! 自分の主人の名前を忘れてしまうなんて、図体がでかいと頭まで血が回らないというのは本当なのね!! 」
捨て台詞を吐くと突っ立ったままの男をそこに残して逃げ出した。
幼い頃から時々癇癪を起こすことはあったが修道院で自分の感情を制することを学び、もうずっと人と争うようなことはなかった。
それが、こんなに大きくなってから夫の部下を相手に口喧嘩をしてしまうなんて……
情けなさにまた零れそうになった涙を手の甲で拭った。
暫く部屋に篭って泣いていたビアンカはやっと落ち着くと城主の部屋に向った。
結婚してからまだ一度も夫の部屋には行ったことがなかった。
だが、螺旋階段を上がって行くと、上の方から怒鳴り声が聞こえてきて足が竦んでしまう。
とても人の言葉には聞こえない、まるで獅子の吼え声のように聞こえるそれはあの野蛮な隊長の声に思われた。
あいつが旦那様に私のことを悪く言ってるのではないかしら?
そう思うと直ぐにでも部屋に飛び込みたくなるが、その時誰かが急いで階段を上がって来る足音が聞こえた。
侍女はビアンカの姿を見ると小走りに近付いて来た。
「若奥様、こんな所で何をなさっているのです? これは、城主様のお着替えですか? 私が持って参りますから早く広間にお戻りください! 」
着替えを取り上げられてしまったビアンカは仕方なく階段を下り始めた。
広間には宴会の準備がなされていた。
U字型に置かれたテーブルは婚礼の時よりもずっと大きく所々に薔薇や季節の花が飾ってある。
朝早くビアンカが庭で摘んできた花だ。
「奥方様、こんな感じで宜しいでしょうか? 」
女中頭に尋ねられたビアンカは花の向きを直したり、テーブルクロスに緑の蔦を飾ったりした。
フィンガーボウルにも花びらを浮かべてみる。
「やはり若い女性が家におられるとこう感じが変わるものですね」
松明を抱えた召使を従えた執事が感心したように言った。
女主人として意見を求められるのは初めてのことでビアンカは喜びに頬を染めた。
食事の時になって、やっとビアンカはジョルジオの姿を見ることができた。
風呂に入って疲れも取れたのか、鼠色の服を身に纏い背筋を伸ばして立つ様子は大層見栄えがする。
うっとりと見つめていると彼の方からビアンカに近付いて来て挨拶をした。
差し出された腕を取ってテーブルに案内される。
だが、この季節は火の入っていない大きな暖炉を背にして、既に席についている男の顔を見ると眉を潜めて唇を噛んだ。
いくら信頼の置ける部下でも隣に座るのは勘弁して欲しい。
しかし、男はビアンカの方を見ずに反対側の隣に腰を下ろしているバルバラと何やら熱心に話している。
いつ着替えたのかバルバラは、今まで見たことのない紫と黒の衣装を身に纏いとても美しかった。
ジョルジオの隣が彼女ではなくて良かったと少しばかりホッとしながらビアンカは自分の席に着いた。
私は段々嫉妬深く醜くなるわ。
そう思うと溜息が出そうだったが、隣に座った夫が葡萄酒を入れた杯を差し出したので両手で受け取り、相手の健康を祈って飲み干した。
その時、ジョルジオの無礼な部下が椅子を蹴る勢いで立ち上がり、手に持った杯を掲げて怒鳴った。
「無事家に帰ることができたことを神に感謝しよう! 今夜は面倒な儀式や演説は必要ない。皆勝手に食って飲んで楽しんでくれたまえ!!! 」
ビアンカは顔を引き攣らせて城主の顔を見るが、ジョルジオは穏やかに笑っている。
そして、テーブルに着いた他の者も笑いながら拍手をした。
ラベンダー水で身体を洗い清められ新しい肌着の上からビロードの外套に身を包んだ娘は、松明を掲げた小姓と侍女に案内されて城主の部屋に向った。
とうとうあの人の本当の花嫁になるのだ。
怖い気持ちはあったが、それ以上に夫の帰りを待ち望んでいたビアンカは期待に胸を膨らませていた。
彼は私のことを覚えてくれているのかしら?
私のことを愛しいと思ってくれるのだろうか?
部屋は闇に包まれ誰もいなかった。
小姓は部屋の中には入らず、燭台に火を点した侍女がビアンカが外套を脱ぎベッドに入るのを手伝った。
ビアンカのものとは比べ物にならない、とても大きなベッドだ。
「それではお休みなさいませ」
扉の脇の机に置かれた蝋燭の光でゆらゆらと照らし出される室内を不安げな瞳で見ながら遠ざかる足音に耳を済ませた。
長い時間が過ぎた。
緊張のあまり胃がキリキリと傷み、きつく握り締めていた両手を解いて深く息を吸った。
その時、ふと階段を上がって来る足音が耳に入った。
初めは気の所為かと思ったが、重々しい足音は確実に城主の寝室に向っているようだ。
ゆっくりと規則的に近づいて来るそれはビアンカの気持ちとは対照的で少しばかりムッとする。
私がこんな不安な思いをしているのにジョルジオ様は落ち着いていられるの?
もしかしてこういうことは初めてじゃないのかしら?
見も知らぬ過去の女の姿を思わず頭に思い描き苦笑いを漏らす。
扉の前まで来た足音が途切れると同時に扉が勢いよく開かれた。
蝋燭の光に照らし出された男の姿を認めたビアンカは恐怖に顔を引き攣らせ口を開いた。
だが、その口から悲鳴が出ることはなかった。
一跳びにベッドに近寄った男の剣蛸のあるごつい手が口を塞いだのである。
必死で抵抗するが、熟練の兵士に敵う筈はなくベッドに押さえつけられてしまった。
気が遠くなりそうだった。
何故こんな酷いことになるの?
きつく瞑った瞼から涙が溢れた。
今夜私は愛する人の本当の花嫁になる筈だったのに。
ジョルジオ様、助けて!!!
窒息しそうに息が苦しかった。
大きな体で押し潰されそうだった。
「ビアンカ」
耳元で低い声で名を呼ばれ、ビアンカは嫌々をするように弱々しく頭を振った。
「ビアンカ、静かにするなら放してやろう」
急に体の上から押さえつけていたものがなくなり、哀れな花嫁は苦しげに息を吐いた。
肘をついてベッドの上に起き上がると目の前に立つ男の顔を見上げた。
「貴方は誰? どうしてこんな酷いことをするの? 」
暗くて男の表情は良く見えない。
「俺はモンタルディ家当主、この城の主のジョヴァンニ・モンタルディだ。そしておまえの夫だ」
目の前が真っ暗になったビアンカは今度は本当に気を失って仰向けに倒れた。