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野苺の実る頃  作者: 海乃野瑠
第1章-ビアンカ
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1-1

「姫様、城主様がお呼びです」


侍女の言葉に青い繻子の質素な服に身を包んだ少女は手にした楽器を脇に置き父親の部屋に向った。


階段を上がり鉄の枠と鋲が飾る重い樫の木の扉の前で立ち止ると、後ろに従っていた侍女が前に進み扉を開いた。


雨戸を開け放した窓を背に、開いた書物を膝に乗せて安楽椅子に腰を下ろしていた初老の男が顔を上げた。


口の脇には深い皺が刻まれ、鋭い瞳が娘の身なりを検分するようにじろじろと見ている。


そして、自分の前にある椅子に座るように身振りで促すと、厳しく結ばれていた口を開いた。


「ビアンカ」


「はい、父上」


「おまえの結婚が決まった。我が家にとってもこれ以上の縁談はないだろう。相手はモンタルディ家の嫡男、武名の誉れ高い25歳のジョ……」


ビアンカは飛び上がった。


「父上、ありがとうございます!!! 」


天使様と結婚できるなんて夢みたいだ。


あの夜、家出した私を守ってくださった勇ましい天使様。


目を輝かせ顔を紅潮させた娘に父親は首を傾げた。


お転婆だった少女は10歳になると修道院に入れられ厳しく躾けられた。


男との接触は一切なかった筈だ。


大人になってからモンタルディの息子には一度も会ったことはないだろう。


乙女の憧れか。


確かにあの男は若いながらもなかなか見所がある。


修道院でも世間から完全に切り離されている訳ではない。


噂でも耳にしたのだろう。


艶のある栗色の髪に黒く長い睫に縁取られた青い瞳、薔薇色の頬と滑らかな喉、すらりとした姿。


男の表情が和らいだ。


美しく育った娘を満足そうに目を細めて見ながら、ダ・ラ・テュルカの城主は10年前に亡くなった娘の母親を思い出していた。


別の女性と再婚して既に同じ年数が経っているが、やはり若くして亡くなった絶世の美女と謳われた最初の妻を完全に忘れることはできなかった。


「婚礼は来年の夏だ。それまでエレナに教わって花嫁修業の仕上げをしなさい」


ビアンカは頭を下げると軽い足取りで父親の部屋を後にした。




「エレナ、エレナ!! 」


自分の部屋に戻ると乳母を呼ぶ。


「まあまあ、姫様。どうなさったのです? 」


「結婚するの! 」


「はい、知っておりますよ。昨夜城主様からお話を伺いました」


「私の旦那様になる方のことも聞いた? あの夜の天使様なの!! 」


エレナは目を丸くした。


あの夜とはいつのことか直ぐに分かった。


二人の秘密だったのだ。


城を抜け出したビアンカが山犬に襲われ、ある少年に助けられたということを知っているのはエレナだけだった。


だが少年の名前までは聞いていなかったのだ。


「では、姫様の想い人はモンタルディの若様だったのですか? 確かにあの時、ご長男を連れたモンタルディの城主様が城に来ておられました。まあまあ、何と喜ばしいことでしょう!! 」


ビアンカはさっそくベッドの足元にある長持を開いて裁縫道具を取り出した。


朝露に晒して白くした布には薔薇の花が途中まで刺繍され糸の通った針が刺してある。


「今日から真面目に刺繍をするわ」


今までは嫌々針を手に取っていたのだが、旦那様に自慢できるような美しいテーブルクロスやシーツを作りたかった。


「それからエレナ自慢のジャムの作り方と蜂蜜入りのお菓子の作り方も教えて頂戴」


「旦那様の心を食べ物で虜にするおつもりですか? 」


エレナは料理は料理番に任せとけば良いとは言わない。


乳母は母親のいないビアンカが修道院に入るまでの間、自分の娘のように育てたのだった。


毎日の食事の献立を決めたり、冬の為の保存食を管理するのも奥方の仕事である。


だったら作り方も知っている方が良いに決まっていると彼女は言うのだった。


「修道院でもよく台所に忍び込んで手伝わせてもらったの。院長様に知られて叱られてしまったけど。台所で働いていたアンナが言っていたわ。若さや美しさは消えてしまうけど美味しいソースは彼女が生き続ける限り残るって。男の心を掴むのはそれしかないって。いくつか作り方も教わったのよ」


部屋の奥にある戸棚をごそごそと搔き回していた少女は細いビロードのリボンで結えた羊皮紙を取り出した。


「ほら、これは生姜と蜂蜜とアーモンドを入れた豚肉の煮込み! アーモンドを一度炒ってから砕くと美味しくなるの。こっちはラベンダーとレモンバームで香りをつけた葡萄酒を使った鶏肉のワイン煮!! まだ作ったことないけど美味しそうでしょう? それから、ヒポクラスは薔薇の花びらを入れるといいのですって! 」




時は過ぎて野薔薇の咲き乱れる季節となった。


婚礼まで後一月もない。


仕度は着々と捗り、モンタルディ家から届けられた豪華な生地で作った衣装も出来上がった。


ガイオレ地方に注文した上等なワインも届き、豚が屠られ燻製のハムや胡椒を利かせたサラミが作られた。


ビアンカは毎晩ベッドに横になると天使様のことを考える。


彼はあの時のことを覚えているかしら?


月の明かりに照らし出されたギリシアの彫刻のように美しい顔を思い浮かべて、そっと溜息を吐く。


私は子供だったけど、顔はそんなに変っていないと思うわ。


彼はどうなのだろう?


会ったらすぐに分かるのだろうか?


エレナは何も知らないビアンカに閨のことを教えた。


私の心も身体も旦那様のもの。


だから旦那様が見たいと仰ったら全て曝け出さなければならない。


どんなに恥ずかしくても、自分自身も知らない身体の部分でさえも。


そんなことを思うと、何だかそわそわして脚を擦り合わせたくなる。


ビアンカは火照った頬に両手を当てた。


でも、どんなに痛くても我慢しなければならないと言われたけど、天使様が私に酷いことをする筈ないわ。


私の務めはモンタルディ家の跡継ぎを生むこと。


天使様に似たらさぞかし美しい子が生まれるでしょう。


少女は暗闇の中で微笑みを浮かべると、目を閉じて夢の世界に旅立って行った。


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