繋ぎたい、手。
「『朴念仁男子と大和撫子女子の婚約者カップルが居れば萌えると思った。自分で書くしかないと思った。反省も後悔もしていない——』などとこの作品の作者は供述しており……」
『——ほら、雫。将来お前の夫になる相手だ。挨拶しなさい』
彼と出会ったのは小学校に入学したばかりの頃だったでしょうか。
父に促されて私はおずおずと『氷崎雫です』と名乗った事を覚えています。
彼の方は私と対照的に堂々と『霧川彼方です』と名乗りました。
私はそう言ってにっこりと微笑む彼に初めての恋をしたのでした。
昨年、私が16になった時、私は彼と事実上の婚姻を結ぶ事となりました。
事実上、というのはなんと説明すればよいのでしょうか。
私と彼は同い年であるので法律上婚姻を結ぶ事は不可能なのですが彼のご両親が是非に、と仰られたので私は彼のご実家の離れで彼と2人暮らす事となったのでした。
つまりは、同棲ということです。
それが決まった時、私は内心舞い上がったものでしたが幼い頃からの母の言いつけの通り「慎ましく淑やか」で「気丈」に「おおらか」に振る舞う事を心がけました。
彼と暮らして初めて知ったのですが、彼は口数が少なく冷静であまり表情を変えない方でした。
暮らし始める前までの私たちは年始の挨拶など改まった場所でしか会う事はありませんでしたから本当の彼を知れた、と始めの頃はとても嬉しく思ったものでした。
ですが————
「ねぇ、雫は婚約者とはどこまでいったの?」
お昼休みにお弁当を食べていると一緒に居た友人がそう尋ねてきました。
高校2年生というのは1年生のようにいろいろな事に慣れなければいけない、というようなことも3年生のように受験に頭を悩ませる事もなくゴールデンウィークも過ぎた頃だということもあり、新しいクラスにも馴染んでなんとなくのんびりとした雰囲気が流れています。
「どこまで?」
「場所とか距離的な意味でも良いし行為的な意味でもどちらの意味にとってもいいわ」
思わずお箸を止めて尋ね返すと彼女が悪戯っ子のような笑みで言いました。
「そう言われても……GW中も彼方君は部活があったし、行為、と言われてもそんなことは全く……」
そうです。彼と私は仲違いをしているという訳ではないのですが、いわゆる普通のカップル、のような甘い関係ではないのです。
「キスとかも?」
「キス、とかも……」
キス、という単語を発する時なんとなく気恥ずかしくて目を伏せてしまいます。
こういう所が、17歳で同棲しているにしては初心だ、と笑われる原因なのでしょう。
「まぁ、そういうことは人それぞれだしね。大事にされてるって考えれば良いのよ」
けらけらと彼女が笑います。私は彼女の優しくお姉さんのように頼れる所が大好きです。
同い年なのですけれども。
「しかし霧川君もクールでカッコいいなんぞと言われているけれどありゃただの朴念仁だね。こんなに可愛い婚約者が居て構ってあげないなんてさ。放っておいたらほいほい男共が寄って来て盗られちゃうかもとか考えないのかな」
「か、可愛いなんてそんな。それを言うなら雪華の方でしょう。この前だって3年生からラブレター貰ったって」
「うん。でもアレ、諒が勝手に断りに行っちゃったから」
「篠宮君が?」
「そう。諒は嫉妬激しいから。霧川君と足して2で割ったらちょうど良いかもね」
「それは……」
「そうかも、って今、ちょっと思ったでしょ?」
「……うん」
私は素直に白状しました。そうしてどちらともなく噴き出すとしばらくの間2人でクスクスと笑いました。
「いやー、なんであの2人が連んでるのかしらね。正反対、とまではいかないけどあんまり合うタイプではなさそうじゃない」
「それは2人共他の人に対してはあんまり喋るタイプじゃないからだと思う。ほら、篠宮君は雪華に対してはメロメロというのかな、そんな感じだけれど他の人には一線を引いたような態度でしょう?」
「そっか。違う所と言えば霧川君が雫にデレないところくらいか」
そっかそっかと納得したように頷く彼女。お喋りしながらも私たちのお弁当箱は空っぽになっていて私は一冊の雑誌を取り出しました。
「あのね、今度のお休み、ディズニーランドに行かない?」
「ディズニー?」
彼女が首を傾げます。
「そうなの。今やっているイベントが楽しそうで」
ほら、これ。と私は特集されたページを開いて彼女に差し出しました。
「へぇー。イースターイベント……イースターって4月じゃなかった?」
「細かいところは気にしちゃダメなんじゃない?」
「それもそうか。そうねぇ、GWよりかは混んでなさそうだけど……あ」
彼女が閃いた!という顔で私を見つめます。
「何?」
「それこそ、霧川君におねだりしてみたら?一緒に行きませんかーって」
「えっ」
「嫌だったり無理だったりしたらちゃんと断るでしょう。大丈夫だって。一度言葉にしておくと気にかけてくれるかもだし」
「そ、そういうもの?」
「そういうものだよ」
今日家に帰ったら思い切って言ってみなー。と彼女に勇気づけられ、私は思い切ってみようかな、と決意しました。
とは考えたものの一体どうやって切り出せば良いのでしょう。
食事を終えて、彼がお風呂へ行った隙にリビング代わりの部屋で雑誌を広げて途方に暮れます。
思い返すと今までおねだりというものを彼にしたことが無かったのでした。
「こういう時世間一般的な彼女だったらどう切り出すものなのかな……」
「雫?何を読んでいるんだ?」
不意に背後から声をかけられて飛び上がらんばかりに驚きました。
「ディズニーランド特集?」
彼が覗き込み、タイトルを読み上げます。
「あああああ、あのっ!ちょっと楽しそうだからお友達とどうかなって思ってて!」
突然の出来事にパニックになって上手く言葉が紡げません。
「ふぅん……いいかもな」
「えっ」
「GWはずっと部活だったし……」
も、もしかしてこれは、彼方君も乗り気ということでしょうか。
「新入生も増えたしな」
ん?新入生……?
「親睦を深める為にも……顧問に相談してみるか」
「あの、彼方君……」
「何だ?雫」
「あのぅ、一体何のお話を……」
恐る恐る尋ねると顔色一つ変えずに彼が答えます。
「ん?あぁ、新入部員の歓迎会をまだしていなかったと思ってな。丁度良さそうだと……雫?」
どうやら私は自惚れていたようです。てっきり彼方君も、その、デートをしたいと思ってくれているのかな?などと考えた自分が恥ずかしいです。
「……雫も行くか?」
「えっ?」
尋ねられ反射的に振り返ります。
そして存外近い位置に彼の顔があってドキリと心臓が跳ねました。
「いや、確定ではないから約束は出来ないが、もしそうなったら雫も来るだろうか、と」
「で、でも私部外者ですし」
「1人増えた所で大して変わらない。それにGW中はずっと家に居て、つまらなかったろう」
何故か少し目を逸らされてそう言われます。
「ええっと……参加しても良い、ということになったなら参加したいです」
「ああ、じゃあちょっと提案してみるな」
これでこの話は終わりだ、と言わんばかりに彼方君は自室へ戻ってしまいました。
彼方君から「次の日曜日、9時に舞浜駅に集合だから」と告げられたのは翌日の夕食のときでした。
そういうわけで、日曜日です。
お天気は快晴。テーマパーク日和です!
彼方君は新部長ということで早めに行かなければならないらしく、それにお供させてもらうことにしました。
「お待たせしました」
白のワンピースに水色のカーディガンへと着替えを済ませ、彼方君の元へ行くと、彼は寸の間目を瞬かせました。
「何か変でしょうか?」
不安になってそう尋ねるとふいと目を逸らされてしまいました。
「いや、おかしくはない。……行くぞ」
「はい!」
家を出て地元駅へ向かう道すがらただ静かに移動します。
会話などは、ありません。
それでも全く居心地の悪さを感じないのはきっと私が浮かれているからなのでしょう。
ちょっと思っていたのとは違いますがそれでもデートらしきものにはなると思うのです。
今回をきっかけにもう少し彼方君と仲良くなれれば、と心の中で願いました。
何事も無く無事に舞浜駅へと着きまして、私たちは集合場所へと向かいます。
そこには既に顧問の先生と数名の部員さんがいらっしゃいました。
彼方君の所属する弓道部は部員が15名程でその男女比は半々程度です。
既に集まっている部員さんの中にクラスメートの女の子を見つけて私は彼女の元へ、彼は顧問の先生の所へと足を向けました。
「おはよう、雫ちゃん」
「おはよう、和沙さん」
「霧川君と一緒?いいなぁ、仲良さそうで。私も彼氏ほしーい」
屈託なく笑う彼女につられて笑みをこぼすと彼女がふっと真顔になりました。
「あっ、そうだ、あのね雫ちゃん……」
声を潜ませて言いかける彼女の声に被さるように高く可愛らしい声が響きました。
「おはようございまーす!彼方先輩っ!」
ハートマークが飛んでいそうな程甘ったるい声に驚いて振り返るとポニーテールのスラッとした女子にしては背が高めの子がにこにこと彼方君に笑顔を向けていました。
ポニーテール。奇しくも今日の私と同じ髪型です。
何だか、並ぶと絵になる2人です。
「あちゃ……言うのが遅かったか」
渋い声で和沙さんが言うので振り返ります。
すまなさそうな顔をして彼女は続けました。
「あの子、新入生なの。一目惚れとか言ってて猛アタックしてるのよ。霧川君は相手にしてない……というか他の部員とも同じ扱いしてるけれど、不愉快よね」
ごめんね、と何故か彼女が謝るので私は慌てて首を振りました。
「和沙さんは何も悪くないよ。しようが、ないことだもの」
なんとなく押しの強そうな子に見えるのできっと周囲が事実を告げても諦めなかったのでしょう。
その自信ありげなところが何だか羨ましく思えました。
そうこうしていると部員さん達が集まり、全員に集合がかかりました。
「じゃあ19時にはエントランスに集合。遅れるなよー。はい解散!」
顧問の先生はご家族も一緒だそうでどこかうきうきとなさっているようです。
部員さん達もわあ、といくつかのグループに分かれ始めます。
ちらり、と彼方君の方に目を遣ると友人である篠宮君と何事か話し込んでいます。
声をかけようかどうしようか迷っていると彼方君がずんずんとこちらに向かってきました。
「行くぞ、雫」
ああ、どうやら篠宮君を含めた3人で行動するようです。
少し残念ですがそれでも今朝のように黙々とパーク内をまわるのは少し味気ないですから良かったのかもしれません。
篠宮君を見るとすまなさそうな表情をしていました。
「ごめん。本当は雪華も連れて来ようかと思ったんだけど」
「何だかお家の用事があるって?」
「そう。だからなるべく彼方達の邪魔にならないようにするよ」
「お気遣い無く」
にっこり微笑むとほっとされたようでしたがすぐに慌てた様子を見せられました。
「どうかしました?」
「いや、うん。なんでもない。ほら、彼方待ってるし、行った方が良いよ」
目を向けると園内案内を熱心に読んでいる彼方君が。
「彼方く……」
「彼方せんぱーいっ!私も一緒にまわっていいですかっ!」
話しかけた私の言葉を遮ってあの子が彼方君にじゃれつきました。
びっくりして彼方君の肩を叩こうとした手を引っ込めてしまいます。
「っ!……いきなりじゃれ付くな、旭」
彼女——旭さんとおっしゃるようです——が急にじゃれついたせいで軽く傾いだ体を元に戻しながら彼方君が咎めます。
「あっ、ごめんなさい」
「ああ。もういい。まわるなら、勝手にしろ」
はい?イマナントオッシャイマシタデショウカ?
勝手に、しろ?つまりは……旭さんも一緒に、4人で、ということでしょうか。
「わーい!ありがとうございますっ」
旭さんはとても嬉しそうで素直に喜んでいます。
でも、私は?
私は自分の表情が凍り付きそうになるのを感じました。
「……どうして?」
ぽつり、と小さく漏らして声は取り返す事なんてできなくて。
「雫?どうした」
それでも彼方君の耳には届かなかったようで。
「いいえ、何でもないです!行きましょう!」
私は沈みそうになる心をなんとか鼓舞して出来うる限りの笑顔を貼付けました。
「とりあえず、ファストパス取りに行きましょう!」
「ファストパス?」
「予約券みたいな物ですよ。どこの取ろうかなぁー」
彼方君の持つ地図を覗き込んで楽しそうに笑う旭さん。
端から見れば仲の良いカップルのように見えます。
「なんか。本当ごめん。止めりゃ良かった」
「いえ……誰かが悪い、という訳でもないと思いますし」
「いやーでもアレはちょっと……彼方が悪い」
ちらりと見やると彼方君の腕に絡み付く旭さん。
ああ、あんなことどうやったら出来るのでしょう?その度胸が少し、羨ましい。
長身の彼方君には彼女のようなスラッとした手足の長い女性の方がお似合いのようにも思えます。
「篠宮先輩達ー、置いてっちゃいますよー?」
彼の腕をとったまま振り返って彼女が言います。
彼の様子を伺いましたがその表情はこちらからでは陰になっていてよく見えませんでした。
さんざん振り回されるようにあちこち回って少々くたびれたことを控えめに訴えた所そろそろ昼食時だしどこかで食事でも、という話になりました。
「女子は疲れてるだろうからこっちで軽い物でも見繕って買ってくるからベンチで待ってると良いよ。ほら、彼方行くぞ」
「ああ。少し休んでいると良い」
男子2人がそう申し出てくれたのでそのお言葉に甘えることにしたところ
「あっ、私も行きたいです!」
と旭さんが主張したため1人ぽつんとベンチで待つ事になってしまいました。
「はぁ……」
周囲には楽しそうに行き交う人達。
どうして私は今、ここで、こんな表情で居るのでしょう。
母の教えの通り「慎ましく淑やか」で「気丈」に「おおらか」であろうと努めていましたがそろそろ挫けそうになっています。
本当は、2人でお出かけがしたかっただけなのに……。
思わずポロリと涙が1粒零れ落ちました。
慌ててハンカチを取り出して抑えようとしましたが決壊した涙腺は1粒、また1粒と涙をこぼして行きます。
必死に皆が戻って来る前に止めなくては、と思うのですけれど情けなくて寂しくてポロポロと零れるそれをどうしても止める事ができません。
どうしようどうしようと考えていると不意に頭上から声が降ってきました。
「雫?」
その声に反射的に顔を上げると心配そうにこちらを見る彼方君と目が合ってしまいました。
「かなた……く……」
「お前どうした、どこか痛いのか?」
手に持った飲み物を傍らに置いて涙を流す私をおろおろと覗き込んでくる彼。
「ちが……違いま……」
喉に小石が詰まったようにうまく言葉が紡げません。ただただ涙が零れるばかりです。
心配させてはいけない。こんなところで泣いたりして空気を悪くしてはいけない。そう思うのに——。
そんな私の頭にポンと大きな手が載りました。
え、と思うとその手がそっと私の頭の上を滑って——彼が、私の頭を撫でているのでした。
「何か、あったか?」
その優しい手にますます悲しくなって私は彼のシャツを握りしめて彼の胸とお腹の中間辺りに自分の顔を埋めました。
「しっ、雫!?」
慌てる彼方君の声が聞こえますが知りません。
嗚咽を漏らさないように歯を食いしばって泣くだけです。
「っ……ど、してっ」
それでも懸命に声を、言葉を発します。
「ど、してっ!私のことっ、見て、くれないんですか……?2人が、良かったのにっ……!あの子とばっかり、楽しそうにしてっ!私がっ、彼方君の、婚約者なのに……妻なのにっ!」
ひっくひっくとしゃくり上げながら彼方君にだけ聞こえる声で叫びます。
「彼方君はっ、私より、あの子が良いんでしょう!?私なんかよりっ、もっと可愛くて明るい子がっ!もう、嫌です。何考えてるのか、分からない。寂しい。辛い。苦しいんです」
「言いたい事は、それだけか?」
彼方君の冷たい声が降ってきます。
熱くなった頭で私はそれを受け止め小さく頷きました。
「分かった」
そう小さく言われると彼方君の体から引き剥がされました。
もう、ダメになってしまった。ダメにしてしまったのは私だ。そう思いながらその後の言葉、別れの台詞であろう言葉を待ちました。
でも告げられたのはその台詞ではありませんでした。
「ごめん」
「え……」
「お前がそんな風に思ってるなんて知らなかった。気付かなかった。気付けなかった俺の責任だ。そこまで追いつめて、すまなかった。婚約を破棄するのだけは勘弁してくれ……好きなんだ。言葉が足りないなら改める。要望があるなら聞く。だから『もう嫌だ』なんて言わないでくれ」
本当に、心底辛そうな表情でそう言われ私はぽかんと彼の顔を見つめる事しか出来ません。
「す、き……?」
「ああ」
「でも。じゃあ、なんで」
「言葉でも態度でも示せなかったのは気恥ずかしかったからだ。……そういうキャラでもないしな。でもお前が他の異性と親しげにしているのは……正直、腹立たしかった」
だから、あの時篠宮君は慌てた様子を見せたのか。私が見ていない所で、嫉妬してくれていた……?
「側に、居てもいいんですか……?」
「むしろ居てくれないと困る」
居てくれるか?と尋ねられて、私は顔を真っ赤にして頷くことしかできませんでした。
「何か要望は……?」
「要望、ですか」
言われ、私は前から少しだけ憧れていた行為を口にしてみることにしました。
「じゃあ、その、手を……」
「手?」
「手を、繋いでもいいですか?」
思い切って言ってみるときょとんとした顔を見せた後すぐに彼は破顔しました。
珍しい……。
「ああ、それくらいお安い御用だ」
手を取られ立ち上がらせられます。
「じゃあ、行くか」
「えっ、だって篠宮君と旭さんが……」
「篠宮に頼んでこっそり離れて来た。旭から逃げるなら今のうちだ」
だから、な?といたずらっ子のように微笑まれ私は小さく噴き出しました。
「はいっ!」
ずっとずっと憧れていた<恋人繋ぎ>で私たちは人ごみの中へとまぎれて行きました。