私を虐げた姉は、母の仇の娘として修道院へ行くことを選びました。
序文
これは、由緒正しき血筋を誇る、ある侯爵家での昔々のお話。
あたたかな光の中で育った、一人の美しい令嬢がおりました。
しかし、雪のちらつく冷える朝、最愛の母は帰らぬ人となります。
やがて屋敷には、微笑みの奥に毒を隠した後妻と、感情を凍らせた腹違いの姉がやってきました。
日当たりの悪い北側の小部屋へ追いやられた令嬢は、母の形見である緑色のリボンを抱きしめ、たった一人、小さな手帳に真実を刻みながら、過酷な日々を耐え忍びます。
――その密かに綴られ続けた『記録』は、やがて偽りの平穏に満ちた屋敷を大きく揺るがすことになるのです。
これの物語は、どんな虐げの中でも誇りを失わなかった妹と、冷たい仮面の奥に誰にも告げられぬものを隠した姉が、すれ違いの果てにたどり着く、切なくも美しい真実の物語。
記すのは、わたくし、ラトゥナ・ケートでございます。
◆◆◆
母セレスティーヌが息を引き取った。
雪がちらつく、ひどく冷える朝だった。
長く伏せっていたとはいえ、あまりにも突然の別れだった。
私は冷たくなった母の細い手を握りしめ、ただ涙を流すことしかできなかった。
父ジェラールは、母の寝台のそばで顔を覆っていた。
肩を震わせ、ひどく悲しんでいるように見えた。
けれど、その手の下から見えた目は、思っていたよりずっと乾いていた。
私はその違和感を、あまりの悲しみのせいなのだと自分に言い聞かせようとした。
だが、葬儀が終わって間もなくのことだ。
弔問客の足跡も消えきらないうちに、父はヴィオレットという女性を屋敷へ迎え入れた。
喪に服す時期だというのに、甘い香水の匂いを漂わせる、派手なドレスの女性だった。
そして、彼女の隣には一人の少女が立っていた。
私よりも少し背が高く、まるで陶器の人形のように整った顔立ちの少女だった。
父は、ひどく戸惑う私を見て、淡々と言った。
「シモーヌは、お前の姉だ」
私は言葉を失った。
心臓が、冷たい手で強く鷲掴みにされたように痛んだ。
母が生きていた頃から、父には別の女がいた、ということだ。
しかも、その女との間には私より年上の娘までいた。
母が病の床で苦しんで息も絶え絶えだったとき、父はあのヴィオレットという女性と、この少女を愛していたのだ。
私の中で、父への信頼が音を立てて崩れ去った。
シモーヌは美しい少女だった。
彼女は丁寧にドレスの裾をつまみ、完璧な作法で頭を下げた。
「はじめまして、フランソワーズ様。シモーヌと申します」
礼儀正しく、まったく感情の読めない声だった。
私は彼女の冷たい色の瞳を見つめた。
この人が、母を裏切った父の娘。
母の死を待っていたように、この屋敷へ来た人。
そう思わずにはいられなかった。
◆
ヴィオレットは最初の数日だけ、私に優しい後妻を演じた。
私が泣いているとそっと髪を撫で、亡き母の話をしてはレースのハンカチで目頭を押さえてみせた。
けれど、そんな虚飾の日々はすぐに終わった。
ある日突然、母の部屋に外から鍵がかけられたのだ。
私が抗議しようと父の執務室へ向かうと、そこにはすでに女主人の顔をしたヴィオレットが座っていた。
私の居場所は、瞬く間に奪われていった。
母の遺品は「侯爵家で適切に管理する」という名目で、次々と別の蔵へ運び出されてしまった。
古くから仕えていた忠実な使用人たちも、
「怠慢だ」
「態度が悪い」
という理不尽な理由で次々と暇を出され、屋敷から遠ざけられた。
◆
そしてついに、私の部屋までが移されることになった。
陽の光が差し込む南側の広い部屋から、使用人が使うような日当たりの悪い北側の小さな部屋へ。
引っ越しの作業のとき、シモーヌはヴィオレットの横に立ち、私の荷物を選別していた。
「これは要りませんわね」
シモーヌが手袋をはめた手で持ち上げたのは、母がよく私に読んでくれた古い童話の本だった。
表紙の革が擦り切れるほど、私が何度も何度も開いた大切な本だ。
「待って。それは母が……」
私がすがるように手を伸ばそうとすると、シモーヌはひどく冷ややかな目を私に向けた。
「今のあなたには、ふさわしくないものですわ」
シモーヌは淡々と告げ、使用人に命じてその本を廃棄用の木箱へ放り投げさせた。
バサリと音を立てて本が底に落ちるのを見て、私は息が詰まった。
母の温かい声が、母の優しい指先が、ごみとして捨てられたのだ。
悲鳴を上げそうになる喉を、私は必死に押さえつけた。
抗議しようと口を開きかけたが、ヴィオレットに氷のような目で睨まれ、言葉を飲み込むしかなかった。
床に落ちた本を拾い上げることもできない自分の無力さに、涙が溢れそうになる。
シモーヌは、間違いなく私からすべてを奪う側にいたのだ。
◆
冬が終わっても、私の北側の部屋に暖かな陽が差すことはなかった。
屋敷の庭には美しい春の花が咲き乱れているはずなのに、私にはそれを見る自由すら与えられていない。
季節が巡るにつれて、私のドレスの裾は擦り切れ、靴は足に合わなくなり、柔らかかった指先はひび割れていった。
孤独と寒さのなかで、私はただじっと耐えていた。
まるで、この屋敷に住み着いた幽霊にでもなってしまったかのようだった。
シモーヌは、私を助けようとはしなかった。
彼女はいつも美しい新しいドレスを着てヴィオレットの斜め後ろに立ち、ただ黙って惨めな私を見ていた。
ある夜、私は母の形見のリボンを握りしめていた。
深い緑色の、手触りの良い絹のリボンだった。
母が私の髪を結うとき、いつも最後に指先で軽く撫でてくれた。
その優しい感触まで、私はまだはっきりと覚えている。
荷物を調べられる前に、これだけは絶対に渡したくなくて、ドレスの裏に隠して持ち出したものだ。
枕の下から取り出して、胸に押し当てていたときだった。
ノックの音もなく、不意に戸が開いた。
シモーヌだった。
私はとっさにリボンを背中へ隠した。
けれど、私の指先は恐怖で震えていた。
握りしめたリボンの端が、膝の横のシーツに落ちていた。
シモーヌの視線が、そこへ落ちる。
「そんなものを、隠していたの?」
声は静かだった。
叱られているというより、もう結果だけを告げられているような声だった。
私はベッドから降りて逃げようとした。
けれど、狭い北側の部屋に逃げる場所などなかった。
慌ててリボンを胸元へ抱え込んだ瞬間、シモーヌが白い手を伸ばした。
その手は容赦なく私の指をこじ開け、リボンを掴み取った。
母の匂いが、指先からふっと消えた気がした。
「返して、ください」
私は喉の奥から絞り出すように、やっとそれだけ言った。
涙で視界が滲み、呼吸がうまくできない。
「貴重品は、お母様が管理することになっているわ」
「それは、私の……」
「フランソワーズ様」
シモーヌが、真っ直ぐに私を見て名を呼んだ。
その呼び方は丁寧だった。
けれど、そこには姉妹としての親しみなど少しもなかった。
「今のあなたに、守れるものではありません」
その言葉は冷たかった。
けれど、なぜかほんの少し、声が掠れているように聞こえた。
私はそのとき、その言葉の意味を、完全に誤解していた。
私から最後の思い出まで奪い尽くすための言葉だと思った。
抵抗する気力すら残さないよう、私を徹底的に踏みにじるための言葉だと思った。
シモーヌは私の緑色のリボンを持ったまま、振り返りもせずに部屋を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかるまで、私は声も出せずに立ち尽くしていた。
◆
私は弱い。
侯爵家の娘とはいえ、力もないし、味方もいない。
けれど、何もしないわけではなかった。
私は夜になるたび、わずかな月明かりを頼りに、小さな手帳に日記を書いた。
父が私にどんな冷たい言葉を投げかけたか。
ヴィオレットが私から何を奪い、何を強要したか。
母の遺品がどこへ移され、誰の手に渡ったか。
どの使用人が、どんな理由をつけて追い出されたか。
私の食事がいつから減らされ、どれほど粗末なものになったか。
小さな手帳に小さな文字で、子供なりに必死に記録を残し続けた。
書くことだけが、私にできる唯一の抵抗だった。
暗い部屋で一人、ペンを走らせている間だけ、私は母の誇り高い娘でいられた。
いつか母方の親族か、婚約者であるエティエンヌにこの事実を伝えるのだ。
そう思わなければ、孤独な夜の暗さに耐えられなかった。
けれど、そのささやかな抵抗すら、長くは続かなかった。
◆
季節が夏に差し掛かる頃。
ある夜、私が短い蝋燭の灯りを頼りに、震える手でペンを握っていると、不意に扉が開いた。
シモーヌだった。
私は慌てて手帳を隠そうとしたが、遅かった。
シモーヌは無言で近づき、私の手元から手帳をふいっと取り上げた。
「こんなものを書いて、誰に読ませるつもりだったの?」
シモーヌは手帳のページをパラパラとめくり、冷たく言い放った。
「返して……それは、私の……」
私は手を伸ばしたが、彼女は手帳を高く持ち上げて避けた。
「くだらないわ」
手帳が、私の目の前で閉じられた。
パタン、という乾いた音が、私の心をへし折った。
これで最後の抵抗まで奪われてしまったのだ。
私はベッドに突っ伏して、声を殺して泣いた。
もう何もできない。
私はこの暗い部屋で、誰にも気づかれないまま朽ちていくのだ。
シモーヌは手帳を持ったまま、私の泣き声に耳を貸すこともなく部屋を出ていった。
数日後、奪われたはずの日記が、私の部屋の机に戻っていた。
私は罠かと思い、恐る恐るページをめくった。
文字は消されていなかった。
だが、私がヴィオレットの行動や使用人の名前を詳しく書いた、いくつかのページの端に、小さな折り目がついていた。
私にはその意味がまったく分からなかった。
日記が戻ってきた数日後、母のリボンが、私の引き出しの奥に戻っていた。
布に皺はなかった。
むしろ、シモーヌに取り上げられたときよりも丁寧に畳まれていた。
私はその緑色のリボンを胸に押し当てた。
嬉しいはずなのに、ひどく怖かった。
私から奪ったのも、返したのも、きっと同じ人だ。
そう思うと、シモーヌという人が、ますます分からなくなった。
◆
ある日、ヴィオレットが苛立ち、言いがかりをつけて私を鞭で打とうとしたことがあった。
私が絨毯の上にへたり込み、怯えて目を閉じた瞬間、シモーヌがすっと前に出た。
「お母様。その役目は、私がいたします」
ヴィオレットは少し驚いたようだったが、機嫌良さそうに笑って鞭をシモーヌに渡した。
シモーヌは無表情のまま私の腕を掴み、強引に立たせると、廊下を引きずって私の部屋へ連れていった。
そして、私を突き飛ばすように中へ入れ、外から鍵をかけた。
私は、罰として食事も与えられずに部屋に閉じ込められたのだと思った。
しかしその夜、廊下を通りかかった侍女たちのひそひそ声が聞こえた。
「奥様は鞭を用意していらしたのに」
「シモーヌ様は、どうしてあんな中途半端な罰で済ませたのかしら」
「本当に閉じ込めただけで、一発も打たなかったそうよ」
私は冷たい扉の裏で、その言葉を何度も反芻した。
シモーヌは本当に、私を罰したかったのだろうか。
◆
その後も、何事もなかったかのように、シモーヌは私に対して冷たい態度を崩さなかった。
すれ違っても挨拶すら返さず、私を見下ろすような目をしていた。
だが、直接的な暴力や悪意からは、私を遠ざけるようになった。
ある日の夕食。
私の前にだけ、少し酸っぱい匂いのするスープが出された日があった。
私がスプーンを持つ手を止めていると、シモーヌが眉をひそめて言った。
「嫌な匂いがするわ」
シモーヌは使用人を呼びつけ、先に私の食事をすべて下げさせてしまった。
私は食事を奪われたと思った。
空腹で眠れない夜を過ごすのだと絶望した。
けれどその夜、ふと部屋の棚を開けると、その奥に硬いパンと水の入った水差しが隠すように置かれているのを見つけた。
パンはひどくパサパサしていたが、私はそれを水で流し込みながら、静かに泣いた。
◆
秋の気配が近づく、ある夜のことだ。
私は喉が渇き、厨房へ行こうとして暗い廊下を歩いていた。
すると、父ジェラールとヴィオレットの寝室の扉の隙間から、話し声が聞こえた。
「あの薬はもう処分したのだろうな?」
「ええ、もちろんよ。庭の隅に埋めさせたわ」
「医師への口止め料も払った」
「遺言書も書き換えたし、あとはフランソワーズの婚約を変更するだけね」
私はその場に立ち尽くした。
血の気が引き、足の先から凍りつくような感覚があった。
母の病は、自然なものではなかったのだ。
父とヴィオレットが、少しずつ毒を盛り、母を死に追いやった。
母が痛みにうなされ、ひどく苦しんだあの時間は、すべて彼らが作り出したものだったのだ。
胃の奥から、激しい吐き気が込み上げてきた。
耳の奥で、自分の心臓の音がうるさいほどに鳴り響いている。
恐怖と、それ以上にドロドロとした真っ黒な憎しみが、私の全身を激しく震わせた。
ふと視線をずらすと、少し離れた廊下の陰にシモーヌが立っているのに気づいた。
シモーヌもそこにいて、両親の恐ろしい会話を聞いていたのだ。
私は、シモーヌも父たちと一緒に母の死の真相を知っているのだと思った。
やはりあの親子は、全員が私の敵なのだと。
けれど、月明かりの暗がりで見えたシモーヌの顔は、死人のように真っ白だった。
ドレスの裾を強く握りしめる彼女の指先が、微かに、けれどはっきりと震えているように見えた。
◆
翌朝、シモーヌは私の前に立ったとき、いつもより少しだけ視線を逸らしたように見えた。
そして、その日からシモーヌの行動が、さらに大きく変わった。
戻ってきていた私の日記が、再び彼女の手によって取り上げられた。
夜になると、封筒を持った顔の見えない下男が、裏口からこっそりと出ていくのを窓から見た。
私には、シモーヌが証拠を消して回っているようにしか見えなかった。
私の婚約者、エティエンヌ・ド・ヴァレーヌからの手紙はすっかり届かなくなっていた。
ヴィオレットは私を見て、あざ笑うように言った。
「ヴァレーヌ侯爵家も、あなたにはすっかり失望しているのよ」
父ジェラールも、私の婚約をシモーヌへ移すための手続きを進めている話を、私の前で露骨に匂わせ始めた。
私は絶望の底にいた。
私の母の家も、婚約も、誇りも、名前も、全部奪われるのだ。
その夜、シモーヌが私の部屋にやってきた。
私は身構え、壁際まで後ずさった。
シモーヌはいつものように冷たい声で言った。
「明日は、誰に何を聞かれても、余計なことは言わないで」
私はたまらず反発した。
「どうしてですか。私から、まだ何を奪うつもりですか。もう何もないのに!」
シモーヌは少しだけ黙った。
そのあと、いつもの冷たい声で言った。
「あなたが口を開けば、あなたはまた傷つくわ」
私には、それが口封じのための脅しにしか聞こえなかった。
◆
翌日、私は父の執務室に呼ばれた。
ヴィオレットが、私に不利な証言をさせようと巧妙に誘導してきた。
「あなたは最近、侯爵令嬢としての務めをひどく怠っているわね。ふさわしくない振る舞いばかりだわ」
私が理不尽な言葉に反論しようと口を開きかけた瞬間、横からシモーヌが口を挟んだ。
「お母様、フランソワーズ様は体調が優れないようです。今日は下がらせたほうがよろしいかと」
シモーヌは私の腕を取った。
そのまま部屋の外へ連れ出すのかと思った。
けれど、彼女は一歩だけ足を止めた。
私ではなく、ヴィオレットの方へ、静かに視線を向ける。
「それに、お母様が以前おっしゃっていた『令嬢の務め』とは、私に婚約を譲ることでしたか?」
シモーヌの言葉に、ヴィオレットが一瞬だけ得意げに笑った。
「ええ、そうよ。ヴァレーヌ侯爵家もそれを望んでいるわ」
シモーヌはそれだけ聞くと、私の腕を強く引き、強引に退室させた。
私は部屋に戻り、悔しさに涙を流した。
また何も言えなかった。
またシモーヌに邪魔された。
私はシモーヌをひどく恨んだ。
そして、その日は突然やってきた。
◆
ド・ノール侯爵家に、ヴァレーヌ侯爵家の人々が訪れたのだ。
私の婚約者であるエティエンヌ。
その父であるヴァレーヌ侯爵。
さらには、母セレスティーヌの親族や、皇家の厳格な監査役までが同席していた。
父ジェラールとヴィオレットは、予定にない突然の訪問にひどく動揺していた。
応接間に通された私は、自分の惨めな姿をひどく恥じた。
ドレスは古く、髪もろくに整えられていない。
エティエンヌは私を見て、ひどく痛ましそうに表情を変えた。
だが彼はすぐに前を向き、静かに父とヴィオレットに向き直った。
「フランソワーズ嬢への不当な扱い、ド・ノール侯爵家の財産管理について」
「それに、遺言書の改竄、そしてセレスティーヌ様の死について、確認すべきことがあります」
エティエンヌの声は冷たく、そして力強かった。
父とヴィオレットは顔を見合わせ、慌てて否定した。
「何を馬鹿なことを!」
「言いがかりですわ! 証拠もないのに、よくもそんなことをおっしゃるのね!」
エティエンヌが視線を送ると、彼の従者が次々と書類をテーブルに並べた。
それを見て、私は息を呑んだ。
そこにあったのは、見覚えのある小さな手帳の束だった。
私から奪われたはずの日記の写しだった。
それだけではない。
私の婚約をシモーヌに移すための、父の署名入りの手紙。
医師への不自然な支払い記録。
ヴィオレットが買い求めた薬草の記録。
監査役は、それが母の病を悪化させるには十分な量だったと告げた。
さらに、庭の土が付着した薬箱まで証拠として並べられていた。
私が泣きながら書いた日記が、外に出ている。
母を死に追いやった薬の証拠も、追い出された使用人たちの証言も、誰にも届かないと思っていた真実が、外へ運び出されていたのだ。
エティエンヌが静かに言った。
「これらを最初に届けたのは、シモーヌ嬢です」
頭の中が真っ白になった。
私は弾かれたようにシモーヌを見た。
シモーヌは、何も言わずにただ静かに立っていた。
父ジェラールが怒鳴った。
「シモーヌ、お前、裏切ったのか!」
ヴィオレットも狂乱したように叫ぶ。
「あなたは私の娘でしょう! どうしてこんなことを!」
シモーヌは答えなかった。
ただ静かに、目を伏せていた。
私は、ようやく思い出した。
奪われたはずのリボンが、丁寧に畳まれて戻ってきたこと。
同じように、奪われたはずの日記が、いつの間にか戻ってきたこと。
閉じ込められた夜、鞭の痛みを避けられていたこと。
食事が下げられた夜、棚の奥にパンがあったこと。
「余計なことを言うな」と言われた日。
シモーヌは私が不利になる発言を止めるため、わざと話を遮ったのだ。
そして、父たちの言葉を引き出し、その矛盾を、シモーヌが外へ伝えていたのだ。
全部、意味があったのだ。
ジェラールとヴィオレットの罪は、白日の下に晒された。
ジェラールは、ド・ノール侯爵家の当主代理としての権限をすべて剥奪された。
ヴィオレットは母の死への関与、私への虐待、財産横領の罪で裁かれることになった。
二人は監査役が連れてきた兵士たちに囲まれ、連行されていった。
ド・ノール侯爵家は、母方親族とヴァレーヌ侯爵家の後見のもと、正統な血筋である私が継ぐ方向で話がまとまった。
長い悪夢が終わったのだ。
◆
だが、これで終わりではなかった。
シモーヌもまた、監査役の前に立たされていた。
彼女は最初、ヴィオレット側に立っていた。
私の部屋が移されるのを止めなかった。
童話の本を捨て、母の遺品没収に加わっていた。
母の形見のリボンを取り上げ、私の日記も奪った。
表向きには、私を虐げる側にいたのだ。
証拠を送った功績はある。
けれど、無罪放免というわけにはいかない。
シモーヌは、静かに自分の罪を認めた。
「私は、母の行いを止めませんでした」
「違います!」
私はたまらず叫んだ。
すべては、意味があったのだ。
リボンも、日記も、パンも。
私を傷つけるためではなかった。
すべては、私を、この屋敷の暗闇から生きて出すためだったのだ。
「シモーヌは……シモーヌお姉様は、私を助けてくれたのです!」
私は初めて、はっきりと彼女を「お姉様」と呼んだ。
シモーヌは私を見た。
そして、静かな声で言った。
「おやめください、フランソワーズお嬢様」
私は凍りついた。
たった今まで、私の姉としてそこにいたはずの人が。
急に、私との間に見えない壁を置いた気がした。
シモーヌは続けた。
「私は、あなたにそのように呼んでいただける者ではありません」
私は首を振った。
「どうしてですか……お姉様は、私を守ってくれたのに」
シモーヌは静かに目を伏せ、そして答えた。
「私は、あなたを守った人間ではありません……守るのが、遅すぎた人間です」
その言葉が悔恨なのか、私には分からなかった。
けれど、今まで聞いたどの声よりも低く、重かった。
「私は知っていました」
シモーヌの声は、静かだった。
けれど、その静けさがかえって痛かった。
「あなたが日当たりの悪い北の部屋で、声を殺して泣いていたことを」
彼女の指先が、わずかに震えた。
「知っていて、最初の夜は、扉を開けなかった」
シモーヌの顔が、かすかに歪んだ。
「あなたのお母様の大切な本を捨て、形見が奪われるのを、私はただ見ていました」
私は何も言えなかった。
反論したかったのに、シモーヌの声に滲む後悔が、それを許してくれなかった。
「それでも私は、すぐには手を伸ばさなかった」
私は息を呑んだ。
シモーヌが初めて、自分自身を責めるような顔をした気がした。
「そんな人間が、姉などと呼ばれていいはずがありません」
私はそれでも彼女を庇おうとした。
「でも、最後には助けてくれました」
言葉を重ねなければ、シモーヌがどこかへ行ってしまう気がした。
「お姉様がいなければ、私はどうなっていたか分かりません」
シモーヌはゆっくりと首を横に振った。
「それに私は、あなたのお母様を死に追いやった女の娘です」
その事実が、重くのしかかる。
「私がこの家に残れば、あなたはこれからも、仇の娘を姉と呼ばなければならなくなる……そんなことを、ド・ノール侯爵家の正統なご令嬢に背負わせるわけにはまいりません」
その言葉が、私と彼女の間の姉妹関係を、彼女自身の手で完全に切り離しているように聞こえた。
私は涙が止まらなくなった。
「私は、あなたを許します。だから、お願いです」
シモーヌは静かに微笑んだ。
初めて見る、穏やかで、けれどひどく悲しい微笑みだった。
「そのお言葉だけで、十分でございます」
シモーヌは残らなかった。
彼女は自ら、遠く離れた修道院へ行くことを受け入れたのだ。
◆
数日後。
修道院へ向かう質素な馬車が、屋敷の前に停まっていた。
飾り気のない簡素な服に着替えたシモーヌが、馬車に乗り込もうとしていた。
私はたまらず、屋敷を飛び出して彼女を追った。
「お姉様」
私の声に、シモーヌは足を止めた。
でも、振り返った彼女の顔は、とても静かで、他人行儀なものだった。
「フランソワーズお嬢様」
その呼び方に、胸が痛んだ。
やっと、お姉様と呼べたのに。
その人は、私を妹ではなく、侯爵令嬢として見ていた。
「そう呼ばないでください」
私は泣き出しそうな声で、すがるように言った。
シモーヌは何も答えなかった。
私は、震える手で一枚のハンカチを差し出した。
母の形見ではない。
私が夜なべをして自分で刺繍をした、たった一枚のハンカチだ。
「持っていってください」
シモーヌはそのハンカチを見て、静かに目を伏せた。
「私には、いただく資格がありません」
私は首を振った。
「資格ではありません。私が、渡したいのです」
シモーヌは長く黙っていた。
風が吹き、彼女の髪を小さく揺らした。
やがて彼女は、そっと両手でそのハンカチを受け取った。
大切そうに、胸に抱くように。
けれど、彼女は最後まで私を愛称で呼ぶことはなかった。
「どうか、お健やかに……ド・ノール侯爵令嬢様」
それが、最後に聞いた言葉だった。
シモーヌは馬車に乗り込み、扉が閉められた。
車輪の音が響き、馬車がゆっくりと遠ざかっていく。
私は、その場に立ち尽くしたまま、遠ざかる馬車をいつまでも見送っていた。
◆
私はまだ、シモーヌお姉様を許せていない。
母を奪った女の娘であることも、最初に見捨てられたことも、冷たい言葉で傷つけられたことも、胸の奥で今も燻っている。
けれど。
あの人がいなければ、私は今も暗い北側の部屋で、誰にも気づかれずに朽ちていただろう。
私は机に向かい、真っ白な便箋を広げた。
ペン先が小さく震える。
返事が来るかは分からない。
それでも、私は今日も手紙を書く。
いつか、あの人が私のことを「フラン」と呼んでくれる日まで。
お読みいただきありがとうございました。
フランソワーズが手紙を書き続ける限り、この物語はまだ終わっていないのかもしれません。




