糸 ~呪い返し~
玄関のドアが開く音がした。荒々しく荷物を下ろす音がそれに続く。そして、ドアが勝手に閉まる時の大きな音。
「ああ、疲れた」
母の声には、いつものような張りがなかった。
台所で水を飲んでいた僕は、気になって顔を出した。
母は、上がりかまちに座り込んだまま、左手で右の肩をもんだり、右腕を回したりしている。どんな重い物を買ったのだろう?
「お帰り。荷物、運ぼうか?」
声をかけると、振り向いて力なく微笑んだ。
「助かるわぁ」
廊下に出て、買い物袋を下げる。驚くほど、軽い。
僕は、振り返って母の背中を見つめ直した。そして、気づいた。
細い、細い糸が、右肩から伸びている。
赤黒い色は、呪いだ。
「ここ座ってよ。マッサージしてあげる」
食卓の椅子に母を座らせ、肩をもむ。仕上げに糸をはずし、左手の人さし指に巻き付ける。
「あー。すっとした」
伸びをする母に尋ねる。
「何か、嫌なことあったんじゃない。そんな顔してるよ」
「分かる?」
そう言って話し始めた。
「ほら、雨が降ってきたから、傘をさしたのね。そしたら、丁度人が来て」
「当たったの?」
「そう。振り返ったとたん」
「相手は、けがしたの?」
「それはない。けど、傘が壊れたの。それで、近くのコンビニで新しいのを買って弁償したんだけどね……。死んだ方がいいんじゃない、って言われて」
「傘が壊れただけで?」
「そう。道の真ん中で周囲の確認もせず傘を開くような大人は、死んだ方がいいんじゃない、って。ものすごい勢いで、何度も」
「言い返さなかったの」
「だって、悪いのはこっちだし。ビックリしたけどね。死んだ方がいいんじゃないなんて、あんなに簡単に言えるって、どんな育ち方をしたのかって思うと、可哀相になって」
自分に呪いをかけた相手に同情して、どうなの? って言いたい。が、それが母だ。この鈍感さと強さのおかげで、肩こり程度ですんでいる。気の弱い人なら、この程度の呪いでも本当に死んでしまう。
それにしても、どんな奴だろう。
母に呪いをかけた奴をこのまま済ます気はなかった。
「そういや、僕も欲しいものあったんだ。ちょっと出てくる」
「雨、まだ降ってるよ」
「大丈夫。周囲に気をつけます」
人さし指を立てたまま、左手で傘を持つ。細い糸を切らないよう右手でつまみ、指に巻き付けながら辿る。
僕は、人が口にした言葉が色として見える力を持っている。
呪いの言葉は、ほぼ、赤黒い色をしている。思いが強いほど粘着力があって、かけられた人にへばりつく。
しかし、こんな風に糸を引くのは、あまり見たことがない。よほどしつこい性格なのだろう。
交差点のコンビニ前に男はまだいた。母が買った五〇〇円の白いビニール傘を右手に、左手のスマホを見つめている。
男に近づいたとき、僕は本気で驚いた。たくさんの糸が四方八方に広がっていたからだ。まるで蜘蛛の巣だ。そして男は、巣の真ん中で虫を待つ蜘蛛だ。
僕は母のように親切な人間ではない。けれど、思ってしまった。
こんなに簡単に人に呪いをかけられるなんて、どんな人生を送ってきたのだろうかと。
この男は、自分の吐き出す呪いに気づいていない。自分の発する言葉の重大さに気づいていない。だから、簡単に人を呪う言葉を口にできる。
僕は、男から少し離れて、糸を集めながら周りを歩いた。右手でつまんで、引っ張って切る。それを左手で握り込む。束ねると、それらは結構な太さになった。
一つ一つの呪いは細くて小さい。けれど、束になるとどうだろう。
左手薬指に巻き付けてあった糸を解き、束ねた糸を一つにまとめる。そして、男に声をかけた。
「失礼、背中に糸くずがついてますよ」
「あーん?」
くちびるを歪めるようにして、男が振り返る。
「あ、動かないで。取りますよ」
何もない背中をはたき、糸の端を貼り付ける。束が背中にぶら下がる。
「取れましたよ。お気をつけて」
「はーん」
ありがとうとも言えない男は、スマホを見ながら信号を待つ。その言葉があれば、態度があれば、僕の行動や気持ちが変わったかも知れない。
けれど、無かった。
だから、僕が後悔の念に駆られることもないだろう。
僕はコンビニに入り、レジに並んだ。
唐揚げを注文し、お金を払い、出口に向かう。自動扉が開くと同時に、男の声が飛び込んできた。
「死んだ方がいいんじゃない」
隣で信号待ちしていた女性の傘の先が、男に当たったようだ。女の人が怯えたように男を見上げている。見下すように、男はもう一度、呪いの言葉を口にする。
「死んだ方がいいんじゃない」
束ねた糸が、共鳴する。
『死んだ方がいいんじゃない』
その言葉は、男にも聞こえたようだ。顔を上げ、振り返った。その背中を、共鳴した糸が引っ張る。男が、背中から道路に倒れ込んだ。
信号はまだ赤。急ブレーキの音。女性の悲鳴。人々のざわめき。ワンコインの白い傘が、赤い弧を引いて止まる。
そんなすべてに背を向ける。
「思った以上に早かったな」
まだ熱い唐揚げを一つ口に放り込み、言葉と一緒に噛み締めた。
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その昔、雨の日、人を見送り、振り返った拍子にぶつかった相手の傘を壊してしまいました。「死んだ方が良いんじゃない」と何度も言われ、どんな育ち方をしたのかと本気で可哀相に思いました。しかーし、時がたつとだんだん腹が立ってきて、小説の中で呪い返ししちゃいました。人間の心は、マジ、ホラーです。神様、こんな私をお許しください。




