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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

短編「異世界ライフ、始めました」

作者: 仙の豆
掲載日:2025/12/03

目が覚めると、草原にいた。


最初の感想は、「草、近っ」だった。


顔の横すれすれまで、濃い緑の草が生えている。鼻の奥まで青臭さが刺さる。土の湿った匂いと、乾いた陽射しの匂いが混ざっている。草の匂いも何だか草臭くない。


ゆっくりと上半身を起こす。


視界が一気に開けた。


見渡す限りの草原。風が吹くたび、草が波みたいにうねる。その向こう、遠くの丘の上に、灰色の石でできた城壁が見えた。塔が何本も突き出している。


空を見上げる。


そこに、二つの月が浮かんでいた。まだ日は明るいのに。


片方は、薄い青。片方は、暗い赤。


同じ空に、二つの月。


「あ……」


声が勝手に漏れた。


その瞬間、胸の内側で何かが爆発した。


「マジか……マジで……異世界……?」


手が笑っている。震えが止まらない。


28歳、田中翔太。都内ブラック寄りIT企業の平社員。年収320万、ボーナスほぼなし。六畳一間、風呂なし、トイレ共同。毎日同じ朝、同じ電車、同じ上司の「お前さぁ」。


終電で帰って、コンビニおにぎりを流し込み、スマホで異世界転生のクソ長い小説を読んで、寝落ちして、また起きて会社行って。


「こんな人生、どっか異世界にでも飛ばされねえかな」とか、何百回も心の中でつぶやいた。


その、バカみたいな願いが、どうやら叶ってしまったらしい。


ゆっくり立ち上がって、深呼吸する。


肺に入ってくる空気が、異様にうまい。酸素濃度が高いんじゃないかと錯覚するくらいだ。何だか不思議なエネルギーが体に吸い込まれていくような感じもした。


「よし……」


周りに誰もいないのを確認してから、こっそりやってみる。


「ステータスオープン」


……。


「メニュー! スキル! インベントリ!」


……静かだ。風と草の音しかしない。


「ですよねー」


ちょっとだけ恥ずかしくなって、頭をかく。


まあ、そううまい話はないか。システム系チートじゃない異世界もある。ラノベで読んだ。


でも、現代日本の知識があれば、なんとかなるはずだ。火薬、石鹸、衛生管理、文化レベルにもよるけど、ワンチャン無双も……。


とりあえず、あの城壁の街まで行こう。


俺は歩き出した。



草は膝まである。ズボンに露がつく。太陽は高い。風が吹いて、二つの月が見え隠れする。


頭上を、見たことのない鳥が飛んでいく。羽が虹色に光っている。翼の形も、地球のどの鳥とも違う。少し爬虫類じみている。そしていきなり空中で爆発し、胞子見たいなのを遠くてばら撒いている。


「ヤべ……」


胸がドキドキする。ここ数年で一番、心拍数が上がっているかもしれない。どう考えても運動じゃなくて、興奮のせいだ。


足元には、奇妙な花が咲いていた。


青と紫の中間みたいな色。花弁の縁が、かすかに光っている。まるでLEDを埋め込んだみたいに。


しゃがんで、一輪つまんでみる。手触りは柔らかいのに、芯はしっかりしている。


指先に、じんわり人のような温かさが伝わる。


「これ、絶対なんか魔法素材だろ……」


ポケットにそっとしまう。


使い道なんて分からない。でも、「何か役に立ちそうなものを拾う」という行為自体が、もう楽しい。


三十分ほど歩いたところで、息が上がってきた。


スーツじゃないだけマシだが、俺の体力は、悲しい現実を突きつけてくる。


「いや、でも、これから冒険で鍛えれば……」


独り言で自分を励ます。


一時間後、喉が焼けるように渇いていた。


汗が、背中をぬるぬるにする。唇がひび割れそうだ。


そこに、小川の音が聞こえた。


チョロチョロという、水の音。


「ナイスタイミング……!」


早足が走りに変わる。足がもつれそうになるのを無理やりこらえる。


丘を一つ越えると、小さな川があった。


幅は二メートルくらい。浅く、底まで見える。


水は驚くほど透明で、太陽を反射してキラキラ光っている。小さな魚みたいなものも泳いでいるが、形は地球の魚とは微妙に違う。ヒレの付き方とか。


それでも、俺の脳はそれを「飲める水」に分類した。


膝をつき、手で水をすくう。


冷たい。たまらない。


一口飲む。


「……っっっっっ!」


うますぎて、変な声が出た。


冷たさが喉を駆け下り、胃に落ちる。体の芯までしみわたる。


地球の水道水と何が違うのか説明できない。ただ、とにかく「うまい」としか言えない。何か不思議なエネルギーが体に吸い込まれていくような感じがした。


我慢していた渇きが、一気に暴れ出す。


二杯目。三杯目。四杯目。


夢中で飲んだ。


「くはー……これが異世界の水……」


完全にバカの顔になっている自覚があった。


でも、そのときの俺は、「異世界の水は魔力で浄化されてる」とか、「こういうファンシーな世界の水で腹壊すとか、それはないでしょ」とか、訳の分からない理屈で自分を納得させていた。


今思えば、ここで乾いて死んでればまだよかったかもしれない。


でも、そのときの俺は、ただの、どこにでもいる「異世界なろう読みの凡人」だった。


川のそばに座り込んで、遠くの城壁を眺める。


「ギルドとかあるのかな」「最初のクエストは草むらのスライム退治かな」とか、どうでもいいことを考える。


お腹も、ほどよく落ち着いていた。


完全に油断していた。



三十分後、腹に違和感があった。


最初は、「あ、飲みすぎたかな」くらいだった。


それが、数分で、「あれ、これ普通じゃなくね?」に変わった。


キュルキュルと、腸がこすれ合う音がする。


それが、次第に、締め付けるような痛みに変わった。


「っ……」


思わず前かがみになる。


冷たい汗が、背中を伝う。


痛い。結構痛い。


立ち上がろうとした瞬間、腹の奥がきゅうっと収縮した。


同時に、下から、強烈な「出ろ」という圧力が来る。


「ちょ、待っ──」


言い終わる前に、俺は草むらに駆け込んでいた。


ベルトを外し、ズボンを下ろし、しゃがみ込む。


ほぼ同時に、下から水が噴き出した。


ビチャビチャという音が、やけに生々しい。


臭い。自分でも顔をしかめる。


次の瞬間、今度は胃がこみ上げてきた。


横を向いて、さっき飲んだばかりの水を、全部吐く。


川の水。胃液。酸っぱい匂い。


目の前がチカチカする。


「……はは」


笑いが、喉の奥から漏れた。


異世界来て一時間で食中毒って、どんなギャグだよ。


でも、笑っているうちに、痛みは本物になってきた。


何度も、何度も、下痢と嘔吐を繰り返す。


もう出るものなんて残ってないはずなのに、体は無理やり何かを絞り出そうとする。


手足が震える。視界が揺れる。


「やべ……」


意識の端で、そんな冷静な声がした。


立とうとしても、足に力が入らない。


這うようにして、川から離れようとする。無意識に、「このままここにいたら、流される」とか、「誰かに見つかりづらい」とか、そういうことを考えていたのかもしれない。


でも、数メートル這ったところで、もう体が言うことを聞かなくなった。


仰向けに倒れる。


空が二つに割れたみたいに見える。赤い月と青い月が、ぐるぐる回っている。


「……こういうとき、普通はさ、気づくじゃん」


脳みその片隅で、誰かが言う。


「生水は危険とかさ。未知の環境なんだから慎重にしろとかさ。そういうの、ちゃんと知ってたじゃん、お前」


知ってた。


知ってたけど、「異世界」という単語に、全部持ってかれた。


「俺、馬鹿だな……」


声にならない声で、そう思った。



どれくらい、そうしていたのか分からない。


腕や足が、土に沈んでいくように重くなっていく。


汗で服はびしょ濡れなのに、体は冷えていく。


ひたすら重たい体を前に、気づいたらちょっと広めの獣道にいた、ギリギリ現代の軽自動車が通れるぐらいの。


街にもうすぐ着く…着きそうなのに。


音が遠くなる。


そのときだった。


ザッ、ザッ、と草をかき分ける足音が聞こえた。


はっきりした、人の足音。


顔を横に向ける。


視界に、エプロンが飛び込んできた。


白いエプロン。ところどころに古いシミがあるが、よく洗ってあるのが分かる。


それをつけた、初老の女性が、息を切らせて立っていた。


髪は灰色混じりの黒。低い位置でひとつにまとめられている。額には深い皺。頬はこけているが、目は丸くてよく動く。


その目が、俺を見て、わずかに見開かれた。


それから、すぐに表情が変わる。


驚きと、判断と、心配。


「…………!」


何か言った。


早口だ。意味は分からない。でも、声のトーンと、表情で、大体の方向性は分かる。


「やだ、こんなところで──」「大丈夫? しっかりしなさい」


そんな感じの言葉だ。


彼女は迷いなく俺に近づき、膝をついて、額に手を当てた。


温かい。


その手は、皺だらけで、節くれ立っている。何十年も家事と畑仕事をしてきた手だと、一目で分かる。


「……」


俺は、言葉にならない声を喉の奥で転がすしかできない。


彼女は俺の頬を軽く叩きながら、カゴを置いて、どこかに行った。


数分経たないぐらいに、遠くから、金属のきしむ音がした。鎧の音だ。


ほどなくして、二人の男とあの女性が走ってきた。鎖かたびらにヘルメット、粗い槍。衛兵か、街の兵士だろう。


エプロンの女性は短く早口で何かを言う。彼らは真剣な顔で頷き、俺を両側から抱え上げた。


視界がぐるぐる回る。


石の壁。空。赤い月と青い月。


誰かの腕の中で揺られながら、俺は意識を手放した。



気がついたら、天井を見ていた。


粗く組まれた木の梁。その間から、白い漆喰みたいなもの。


視線をずらすと、石の壁。窓。半透明の板から、ぼんやりした光が差し込んでいる。


体の下には、柔らかい感触。


ベッドだ。


地球の安いマットレスより、ずっとふかふかだ。背中が痛くない。


「…………」


首を横に向ける。


隣に、あのエプロンの女性が座っていた。


彼女は俺の視線に気づくと、ほっとしたように息を吐き、口元だけで微笑んだ。


近くで見ると、皺の一本一本に、生活の積み重ねが刻まれているのが分かる。


彼女は、木の椀を手に持っていた。


中には、水らしきものが入っている。


「……」


何か言いながら、椀を俺の口元に持ってくる。


言葉は分からない。でも、ジェスチャーで分かる。「飲みなさい」。


俺は、首を横に振った。


全力で。


喉は、砂漠みたいに乾いている。唇はひび割れている。


でも、水が怖い。


彼女は少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと眉を下げた。


困ったような顔。でも、責めていない。


代わりに、自分で椀を持ち上げ、一口飲んで見せる。


「ほら、大丈夫よ」とでも言うように。


それでも、俺の喉は、拒絶していた。


彼女は少しだけ考え込んでから、立ち上がって暖炉に向かった。


石造りの小さな暖炉。灰の中に、まだ赤い火が残っている。その上に、小さな鉄の鍋をかけた。


壺から水を注ぐ。火をくべる。


しばらくして、水がパチパチと音を立て始めた。異世界の水の沸き方は日本のと違っていた。


彼女はそれを見て、何度かかき混ぜ、火から下ろした。


少し冷ましてから、別の椀に注ぎ、俺のもとへ持ってくる。


今度は、湯気がうっすら出ている。ぬるま湯だ。


「……」


彼女はまた何か言い、自分で一口飲んで見せてから、ゆっくりと俺の口元に椀を寄せてきた。


俺は、恐る恐る唇をつける。


一口だけ、飲む。


喉を通って、胃に落ちる。


体が、警戒しているのが分かる。さっきの川の記憶が、フラッシュバックする。


十分後、俺はそれを、全部吐いた。


彼女は、慌てて俺の背中をさする。


さするというより、揉むに近い。力強い手だ。


吐瀉物は、木の桶に全部受け止められていた。いつの間にか用意されていたらしい。


彼女は俺が吐き終わるまで、何も言わず、何度も背中をさすり続けた。


俺がぐったりとベッドに倒れ込むと、彼女は桶を持って部屋を出て行った。


少しして戻ってきたときには、桶はきれいになっていた。



その夜は、地獄だった。


数時間おきに、腹がぐるぐるいい始め、そのたびに下痢と嘔吐に襲われた。


俺は自力で起き上がることもできず、彼女に肩を貸してもらいながら桶のところまで連れて行かれた。


出す。


吐く。


汗をかく。


寒気で震える。


その繰り返し。


彼女は一晩中、付き添っていた。


咳もときどきしていた。乾いた、喉に引っかかるような咳。


それでも、俺の前では必ず笑ってみせた。


「大丈夫、大丈夫」とでも言うように。


言葉は分からないのに、不思議と意味だけは伝わってくる。


途中で、彼女は自分の胸を指差し、「マルタ」と言った。


何度か繰り返して、俺の反応を待つ。


「あ……マルタさん」


かすれた声でそう呼ぶと、彼女は満足そうに頷いた。


マルタ。


この世界で、最初に名前を教えてくれた人。


俺の命の恩人。



翌朝、マルタがスープとパンを持ってきた。


高級そうな真っ白のパン、白すぎて逆に怖くなるけど。柔らかい、しかし切ると中はずっしり詰まっている。どんな食感なのか想像ができない。


これ高級ものじゃないのか?


スープには、根菜や葉物らしきものがごろごろ入っている。ハーブの匂いが強いが、嫌な匂いではない。暖炉の上でじっくり煮込んだのか、香りに深みがある。


俺の腹が、正直に鳴った。


マルタはくすっと笑い、パンを小さくちぎって、スープに浸してから俺の口元に運んでくる。


「……」


一瞬だけためらってから、口を開ける。


パンが舌の上に乗る。


噛む。


強く噛まなくても口の中で溶けていくような食感だった。でも、小麦のような穀物の甘みがある。スープの塩気とハーブの香りが広がる。


「……うまい」


思わず呟いた。


マルタは、何を言ったか分からないだろう。でも、俺の表情で分かったのか、目尻に皺を寄せて笑った。


スープも一口飲む。体がじんわり温まる。


「あ、これ、普通に生きていけるやつじゃん……」


ほんの一瞬だけ、そう思った。


一時間後、全部吐いた。


パンも、スープも、胃液にまみれて桶に戻ってきた。


そのあと、下からほぼそのままの形で出てきた。


噛んだ跡はあるのに、消化されていない。


マルタは、悲しそうな顔をした。


でも、彼女は俺を責めなかった。


代わりに、俺の頬をなでて、また何か優しいことを言った。


意味は分からない。


でも、声の響きで分かる。


「いいのよ」「大丈夫」


彼女はそう言っていた。



その日から、毎日が同じような繰り返しになった。


マルタが、いろいろな食べ物を試してくる。


他の色のパン。茹でた野菜。甘い果物のようなもの。干した肉。柔らかく煮込んだ粥のようなもの。


俺は、それを少しずつ口に入れる。


味は分かる。甘いとか、しょっぱいとか、苦いとか、美味いとか不味いとか。


地球と微妙に違う味もあるが、不快ではない。それどころか、中にはちゃんと「うまい」と思えるものもある。


でも、胃に入った瞬間、体のどこかが「違う」と叫ぶ。


しばらくすると、吐く。


吐かなかったとしても、数時間後、ほとんどそのままの形で出る。


噛んだ跡と、胃液の色がついただけのそれは、「食べ物」ではなく、「通過物」だった。


俺の体は、この世界の食べ物を、栄養として受け取ろうとしなかった。


そして、それでも俺は、なぜか、生きていた。



一週間が過ぎた。


頬はこけ、腕は細くなり、手の甲の骨がくっきり浮き出ている。


でも、肺は動いていた。心臓も、弱々しくはあるが、規則正しく打っている。


「何で……?」


地球の常識からすると、とっくに死んでいるはずだ。


水もほとんど受け付けない。マルタが何度も沸かして冷ました湯を、少しずつ飲んでは吐き、飲んでは吐いている。


それでも、体は完全には止まらなかった。


不安と、薄い期待と、訳の分からない罪悪感が、胸の中でごちゃごちゃになっていた。


そんなある日の午後。


ドアが、ノックもなく開いた。



白いローブが、目に飛び込んできた。


真っ白な生地。胸元と袖口に、金糸で複雑な紋章が刺繍されている。円と三角と線が絡み合った幾何学模様。ところどころに、小さな宝石のようなものも縫い込まれている。


最初に目に入ったのは、その「金」と「白」のコントラストだった。


次に、光を反射する髪。


金髪。まさに「金」の髪。陽に焼けたんじゃない、もともとこういう色なのだという、自然な金色。


後ろでひとつに束ねているが、ところどころ短い毛がこぼれて耳元にかかっている。


16歳前後くらいに見える。


顔立ちは整っている。顎のラインはすっきりしていて、鼻筋が通っている。でも、作り物めいた美人じゃない。どこか現実的な「若い研究者」みたいな雰囲気がある。


腰には、小さな革袋がいくつもぶら下がっている。インクや薬草か、何かの部品だろう。


彼女の後ろには、あのとき俺を運んでくれたのと同じような衛兵が二人、控えていた。


衛兵たちは、彼女に対して、明らかに敬意を払っている。姿勢が違う。


彼女は二人に軽く顎を動かすだけで、彼らは黙礼して廊下に下がった。


「……」


一瞬で分かった。


この娘は、偉い。


地位が高い。少なくとも、多分この街では。


そういえば、以前窓の外を見た時、同じような服装をして人を見かけたことがある、しかし服の紋様は彼女ほと複雑ではなかった。最近人が、衛兵も増えている気がする。


マルタが、俺のベッドの横から立ち上がって、少しだけ腰を折るようにして迎える。


娘──後で知る名前、エマ──は、それを「やめて」とでも言うように、苦笑いを浮かべて手を振った。


マルタは、娘の顔に手を伸ばして髪を撫でる。


「あらまあ、また痩せたんじゃないの」とでも言うように。


エマは、母親の手を避けもせず、されるがままにしながら、小さく何かを返す。


二人のやりとりは、完全に「母と娘」だった。


その空気の中に、俺という異物が、一人、転がっている。


仕方がない、俺の部屋からは玄関も、マルタの部屋も殆ど見えてしまうから。



エマは、やがて玄関から歩いてきて、俺の方に視線を向けた。


その目は、マルタと同じ形をしているのに、まったく違う色をしていた。


色は、青い。透き通るような青。


でも、問題はそこじゃない。


視線の「質」が違った。


マルタは、俺を見るとき、「人」を見ていた。言葉も通じない、どこの誰かも分からない、痩せこけた異物。それでも、「助けなきゃ」「守らなきゃ」という目だった。


エマは違う。


興味。疑問。観察。計算。


まるで、顕微鏡のレンズ越しに標本を見ているみたいな目。


決して冷酷ではない。そこにはちゃんと「人としての情」も混ざっている。


でも、その奥に、「研究者」としての目がある。


彼女はベッドに近づき、俺の額に手を当てた。


冷たい。


マルタの手は「土」と「火」の温度だったが、エマの手は、「水」と「ガラス」の温度だ。


長くて細い指。爪は短く整えられている。指先に小さなインクの染みがついているのが見えた。


彼女は、何かを短く呟いた。


「ノモイナウヨツヒ」


意味は、分からない。


ただ、その言葉を唱えた瞬間、彼女の掌が、淡く光った。


柔らかい、薄い金色。


光は、皮膚を通り抜け、俺の体の中に入り込んでくる。


腹の奥に、温かいものが広がった。


さっきまで蠢いていた痛みが、薄紙を一枚一枚はがしていくみたいに、少しずつ、消えていく。


「あ……」


思わず声が漏れる。


体が軽くなる。このベッドから起き上がって、普通に歩けるんじゃないか、と錯覚する。


エマは俺の表情をじっと見て、少しだけ満足そうに頷いた。


マルタも、心底ホッとした顔をして、胸に手を当てた。


──だが、その変化は、続かなかった。


数十秒もしないうちに、腹の奥の痛みが、戻ってきた。


一度消えかけた炎が、むしろ前より勢いを増して燃え上がるみたいに。


「……っ」


思わず体を丸める。


エマの表情が、ピクリと動いた。


眉が寄る。首が少しだけ傾く。


彼女はもう一度、俺の額に手を当てた。


今度は、さっきより長い呪文を唱える。


「ノモイナウヨツヒ・ニウトンホ」


言葉は分からないのに、「強化」「拡張」といったニュアンスだけは伝わってくる。


光は、さっきよりも強く、熱くなった。


腹の痛みが、また引いていく。


……が、やはり、数十秒後には戻ってくる。


さっきと同じ。いや、それ以上。


エマは、ゆっくりと手を離した。


その目は、「理解した」というより、「分からない」を理解した目だった。



その日から、エマが時々この家に来るようになった。


最初は数日に一度、そのうち、ほぼ毎日。


マルタは、娘が来るたびに嬉しそうだった。彼女のために昼ごはんを用意し、帰り際には必ず小さな包みを持たせる。焼いたパンだったり、干した薬草だったり。


エマは、照れくさそうにしながらも、それを受け取っていた。


でも、彼女の本当の目的は、俺だった。


エマは、毎回、違う呪文を試した。


掌を俺の腹に当てて発光させるもの。額に手を置き、細い光の糸みたいなものを体内に送り込むもの。緑色の光。青い光。冷たい光。熱い光。


そのたびに、俺とマルタは期待した。


「あ、今度こそ」「今度こそ」


でも、どの呪文も、長くは持たなかった。


一瞬だけ楽になっても、すぐに元通り。あるいは、むしろ症状が悪化することさえあった。


エマは、失敗するたびに、ポケットから小さなノートを取り出した。


革の表紙で、角がすり減っている。


そこに、びっしりと何かを書き込む。


ページをめくる音が、カサカサと小さく響く。


字は細かく、びっしり。図も多い。彼女は、書いている最中、完全にこちらの存在を忘れているかのような集中ぶりだった。


マルタは、その様子を、少し離れたところから、誇らしそうに、でも心配そうに眺めていた。


「また食べるの忘れて……」「ちゃんと寝てるのかしら」


そんな表情。


俺は、ベッドの上で、黙ってそれを見ていた。



二週間が経つ頃には、マルタの家は、半分「研究所」になっていた──エマが持ってきた車椅子をマルタが押して見せてくれた。


もともと物置だったらしい小さな部屋は、完全にエマの研究室になった


古い農具や壊れた家具は、マルタとエマが二人で外に運び出した。マルタは腰を押さえながら文句を言っているようだったが、どこか嬉しそうでもあった。


代わりに、その部屋には、木の机が運び込まれた。背の高い棚。ガラスの瓶がずらりと並ぶ。瓶の中には、液体、乾燥した草、白い粉末、見たことない虫の死骸などが入っている。


机の上には、金属の器具。丸いレンズがいくつかついた、地球で言うところの「顕微鏡」にしか見えないもの。細いガラスの板。小さなナイフ。糸。針。


それを見て、俺は以前七色に光っている花を森で拾わたのを今更思い出した。あれは、どこに行ったのだろうか。


壁際には、本棚。


分厚い本がぎっしり並んでいる。革の装丁。背表紙には、この世界の文字で何かが書かれている。読み方は分からないが、雰囲気だけで、「教科書」とか「論文集」に見えた。


エマは、その本棚の前に立ち、速度だけで言えば完全に速読のレベルでページをめくる。


時々、「ブラっ」と小さく声を上げて、特定のページを指で押さえたまま、机に持ってきて開く。


そこに書かれた呪文や図を見ながら、自分のノートに書き写し、アレンジし、新しい呪文を組み立てる、しかも立体的に。


その合間に、俺をまた寝室に連れて行きに新しい呪文を試す。


うまくいかない。


戻る。


ノートに記録する。


また本を読む。


また呪文を試す。


その繰り返し。



エマは、俺の血を採った。


小さな光のスポイト魔法で、吸い上げた血をガラスの板の上に一滴垂らす。


それを、顕微鏡らしき器具の下に置き、一枚のレンズを覗き込む。まるでVRメガネの様に、そのレンズに光っている文字が表示しているように見えた。


長い時間、覗き込む。


目を離し、ノートに何かを書く。


また覗き込む。


便も採られた。


正直、地獄のように恥ずかしかった。


こんな可愛い女の子に、俺の下痢を採取される人生、想像したことあるか? ないよな。


でも、俺の羞恥心なんて、今さらどうでもよかった。


俺は生きたかったし、それは彼女も同じだった。


エマは、便を薄く伸ばし、何かの液体と混ぜてから、同じようにレンズ越しに覗き込む。


ときどき、「ブラっ」とか、「マイ」とか、意味は分からないが明らかに「何かを理解したときの相槌」を漏らす。


マルタは、そのたびに台所から顔を出して、「何か分かったの?」みたいな顔をして聞く。


エマは、笑って肩をすくめる。「まだ」とでも言うように。


そして、またレンズに向かう。


彼女の周りには、いつも紙とインクと、本とガラスと金属が散らばっていた。


それでも、不思議と「散らかっている」という感じはしない。


すべてが、必要な場所に、必要なだけ、積み上がっている。


混沌と秩序の間にある、あの独特な「研究室の空気」が、マルタの家を満たしていた。


外は人がまた多くなって気がする、以前見た研究員の服装の人や、また別の医者の服装をしている人達だ。なんかイベントでもやるのか慌てている様子もあった。


そんな中、俺はまだ生きている。



三週間目のある日。


いつもと少し違う空気で、エマは俺の部屋に入ってきた。


いつもの小さなポケットノートではなく、もっと分厚い、背表紙に革紐が巻きつけられた大きなノートを抱えている。あと、土ごと入っている枯れた植物の標本も。


机のところに座ると、ノートをを開いた。


前半のページは、すでにびっしり埋まっていた。細かい文字と図。インクの色が少しずつ違う。たぶん、何年も前から少しずつ書き足してきたんだろう。


エマは、真ん中より少し後ろのページを開き、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。


ページが、数枚、数十枚と、インクで埋まっていく。


彼女の目は、完全にトランス状態だった。口元が少し開いていて、時々、何か小さく呟いている。


図が描かれていく。


小さな丸いもの。


その周りに、さらに小さな点が、ぎっしり。


線で囲まれている。


その一部が矢印で別の場所に移動している。


全体として、地球で見たことのあるイメージに、よく似ていた。


「……細菌」


かすれた声で、俺は呟いた。


中学の理科室の匂い。顕微鏡とプレパラート。先生の声。「これがバクテリアです」。


エマは俺の呟きの意味を知らない。


でも、俺の視線がその図に吸い寄せられているのを見て、一瞬だけ目を細めた。


そして、ペンを止めないまま、ちらりとマルタの方を見た。


マルタは台所から顔を出し、娘の様子を見て、笑った。


何も分かっていない笑顔。


でも、「娘が何か大きなことを見つけた」ということだけは、母親の勘で分かったのかもしれない。


エマは、その笑顔を一瞬見ただけで、すぐに視線をノートに戻した。


その横顔は、興奮と緊張と、うっすらした恐怖で、こわばっていた。



四週間目の朝。街の研究員服の人たちがまた増えた気がする、一回しかもだいぶ厳重に衛兵に囲まれた重要人物らしい人も通り過ぎていた。


マルタが、いつもより深く、長く、咳をしていた。


コンコン、ではなく、ゴホゴホ。


胸の奥から、何かがこすれるような音がする。


今までも、たまに咳はしていた。


年齢的なものだろうと、勝手に思っていた。


でも、その日は明らかに違った。


咳の合間に、彼女は一瞬、息を吸えなくなったみたいに肩を震わせていた。


エマは、最初、その咳を軽く受け流していた。


母親が咳をするのは、彼女にとっても「いつものこと」だったからだろう。


だが、その日の午後、彼女はふと動きを止めた。


マルタが、鍋をかき混ぜながら、台所で咳をしている。


その音に、エマの目が、顕微鏡のレンズ越しから、ゆっくりと引き戻される。


ほんの数秒。


そして彼女は、顕微鏡に載せていたガラス板から視線を、もう一度母親の背中に移した。


その瞬間、彼女の顔色が変わった。


何かが、「繋がった」という顔。


立ち上がる。


研究室の棚から、小さなガラス瓶とナイフを掴む。


母親のところへ行き、「ちょっと指を貸して」とでもいうようなジェスチャーをする。


マルタは、「何よもう」とでも言いたげな顔で笑いながら、言われるまま指を差し出す。


光のスポイト魔法。


赤い血。


それを、すばやく瓶に受ける。


エマは、ほとんど走るように研究室へ戻った。


数分後。


エマは、研究室から出てきた。


顔は、紙みたいに白かった。


俺の部屋に、ふらりと入ってくる。


ポケットから、小さなノートを取り出す。


すでに、そこには俺の血の図、俺の便の図、俺の吐瀉物の図が描かれている。


その横に、新しく描かれた、小さな丸いものの群れ。


母親の血の中にも、同じ「何か」がいる。


エマは、それを見比べていた。


俺の方を見る。


マルタの方を見る。


ノートを見る。


そして、ゆっくりと目を閉じた。


彼女の肩が、ほんの一瞬だけ、小さく震えた。



その日から、街の空気が変わった。


窓の外から、咳の音が聞こえるようになった。


研究員服の人がまた増えた、魔法の杖みたいなのを常に持ち歩いている。


行き交う人々の中に、背を丸めて歩く者も増えていた。


道端に座り込んでいる人がいる。


誰かが駆け寄り、介抱している。


マルタは、その様子を窓から見て、胸に手を当てて祈るような仕草をした。


エマは、歯を食いしばって窓を見たあと、すぐにノートに目を戻した。


彼女は、衛兵を呼んだ。


二人の衛兵が家に来て、エマから何通かの封書を受け取る。


封には、金の紋章の刻印が押されている。彼女のローブの紋と同じだ。


衛兵はそれを恭しく受け取り、真剣な顔で頷いて、街へと走っていった。


何を命じたのか、俺には分からない。


でも、その後、街の門が早く閉まるようになった。


通りを行く人の数も減った。


それでも、咳の音は止まらなかった。



マルタの咳は、日に日に悪化していった。


夜になると、ほとんど眠れないくらい咳き込んでいた。


それでも、朝になれば、ふらふらの体で台所に立ち、俺とエマの食事を用意する。


パンを切り、スープを温め、ハーブを刻む。


味見をして、少し顔をしかめて塩を足す。


その動作ひとつひとつに、「いつも通りにしよう」という意地のようなものが滲んでいた。


エマは何度も母親に治癒魔法をかけた。


光は、確かに効いているように見えた。


咳が一時的に収まり、顔色も少しよくなる。


でも、数時間後には、元以上に悪化する。


エマは、そのたびに、唇を噛んだ。


自分の魔法が、逆に「何か」を活性化させていることに、気づき始めていたのかもしれない。



俺は、そのすべてを、ベッドの上から見ていた。


言葉が通じない。


体も動かない。


知識は、ある。


地球で見たニュース。新型インフルエンザ。SARS。COVID。エボラ出血熱。


テレビで流れる専門家の言葉。「手洗い」「うがい」「マスク」「ソーシャルディスタンス」「隔離」。


教科書で習った、「病原体」「感染経路」「宿主」。


バイト先の食品衛生講習で聞いた、「生水は危険」。


全部、知っていた、街の様子からも、エマも咳をし始めていた事からも、自分だけ弱っていて咳する様子すらない事からも……エマのノートに細菌の図が現れた事からも。


でも、それをこの世界の言葉に翻訳する手段がない。


たとえ翻訳できたとしても、俺はベッドから起き上がれないし、多分この異世界には細菌感染とかの概念が存在しない、異世界人からしたら現代人が量子力学に直面した時の感覚で意味が分からないでしょ。


自分の吐瀉物を自分で処理することさえできず、それをマルタにやってもらっている。


俺がもしここで、「俺から離れろ」「触るな」「俺の呼吸を吸うな」とジェスチャーで必死に伝えたとして、彼女たちは離れてくれただろうか。


離れない気がした。


マルタは、「そんなこと言ってないで」と笑いながら、また俺のベッドの横に座っただろう。


エマは、「危険を知った上で」なお、研究を続けただろう。


その確信が、逆に、俺を何もできないまま固まらせていた。


俺は何をしに異世界に来たんだよ。



ある夜。


エマが、研究室の机に座り込んだまま、動かなくなっていた。


眠っているわけじゃない。目は開いている。


手には、いつもの分厚いノートではなく、小さな、古びたノートを持っている。


引き出しの奥から取り出したらしいそれは、表紙の革がすっかり柔らかくなっていた。


エマは、そのノートを開いた。


最初のページに、拙い絵が描いてあった。


家。


畑。


太陽。


その下に、小さな三つの人影。


若い頃のマルタらしき女性。隣に、見知らぬ男。真ん中に、小さな女の子。


女の子は、両親と手を繋いで笑っている。


その絵の横には、丸っこい文字で、子どもの字が書かれていた。


読めない。でも、「エマ」って書いてあるんだろうな、ということだけは分かる。


エマは、その絵を、じっと見つめていた。


指で、母親の顔をなぞる。


父親の顔をなぞる。


自分の顔をなぞる。


その指先が、小さく震えていた。


深く、一度だけ、息を吸う。


引き出しにノートを戻す。


そして、立ち上がった。


俺をベットに戻し、母親の部屋へ向かう。


俺の部屋は、マルタのベッドが、見える位置にある。


マルタは、息を荒くして横になっていた。


顔は汗で濡れ、唇は乾いている。


それでも、エマが近づいてくるのを見ると、弱々しく笑おうとした。


「大丈夫よ」「心配ないわよ」


そう言おうとしている。


エマは、母親の手を握った。


その手は、もう冷たくなりかけていた。


彼女は、何かを呟いた。


謝罪の言葉なのか、感謝の言葉なのか、祈りなのか、俺には分からない。


でも、その声は、今まで聞いたことのないほど、か細くて、壊れそうだった。



翌日。


マルタの咳は、ほとんど途切れなかった。


エマは、狂ったように治癒魔法をかけ続けた。


光の色がどんどん変わる。金、緑、青、白。


呪文の長さも、複雑さも増していく。


彼女は本棚からどんどん新しい本を引っ張り出し、ページに指を走らせ、そこに書かれている古い呪文を読み、現代語らしき言葉に直しながら、自分なりに組み替えていった。


その合間に、薬草を煎じ、粉を混ぜ、液体を滴らせる。


煎じ薬。塗り薬。飲み薬。


マルタは、娘の作るものを、全部受け取った。


苦い顔をしながらも、口に運んだ。


喉を鳴らして飲み込んだ。


それでも、咳は止まらなかった。


むしろ、呼吸はどんどん荒くなっていく。


胸の音が、ゼーゼーという音から、ズーッという、何かが詰まっているような音に変わっていく。


俺はベッドの上から、かすれた声で叫んだ。


「マルタ! マルタ! エマ! エマ!」


名前しか言えない。


でも、言わずにはいられなかった。


エマは、一瞬だけこっちを見て、目をそらした。


その目には、怒りとも絶望ともつかない感情が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。


彼女は、自分が何をすべきだったか、全部分かっている。


もっと早く、俺と母親を引き離すべきだったこと。


もっと早く、俺をこの家から追い出すべきだったこと。


あるいは、もっと極端な方法を取るべきだったこと。


でも、それをしなかった。


母親が、「あの子を見捨てるなんてできない」と言ったからかもしれない。


自分自身も、目の前の「未知」があまりにも魅力的だったから。


エマは、その両方に縛られていた。


その結果が、今だった。



八日目。


衛兵は何度もドアをノックしにきた、何かを話して、エマは首を振ってドアを閉めた。


やがて、服が少し光っている研究服のおじいさんがまた衛兵に囲まれながらやってきた、話した、エマは首を振った。おじいさんは最初は慌てて何かを言っていた、そして沈黙した、去る際にもう一枚緑に少し光ったらさらに細かく紋様が刻まれたローブと杖をエマに渡してた。


外の通りには、人が倒れていた。


窓から見える範囲だけでも、数人。


誰かが駆け寄って、揺すっている。でも、起きない。


遠くから、鐘の音が聞こえる。教会か神殿か。いつもより、早い時間に鳴っている。


エマは、母親の床に膝をついたまま、その音に一度だけ顔を上げた。


街が、静かに崩れていく音だった。


彼女は、それを理解していた。


そして、その原因がどこにあるのかも。



五週間目。


マルタは、夜明け前に、一度大きく息を吸った。


胸が、大きく持ち上がる。


それから、ゆっくりと、息を吐いた。


もう一度、吸うことはなかった。


エマは、母親の名前を呼ばなかった。


ただ、手を握ったまま、肩を震わせていた。


泣き声は、一切漏らさなかった。


それが、余計に痛々しかった。


しばらくして、彼女はマルタの瞼をそっと閉じた。


白い布を取り出し、母親の顔にかける。


その指は、小刻みに震えていた。


それでも、布は、丁寧に、皺ひとつなくかけられていた。


なんで。なんっsfdで。



マルタの遺体を、運ぶ人はいなかった。


外に出れば、自分も倒れるかもしれない、とエマは思っていたのかもしれない。


街にはもう、人がほとんど歩いていなかった。


だから、マルタは、そのまま、しばらくベッドに横たえられていた。


エマは、マルタの部屋を出て、まっすぐ研究室に向かった。


ノートを開く。


手が震えている。咳も出る。額には汗。ローブは常に光っている。


それでも、ペンは動き続けた。


母親の発症から死に至るまでの経過。


咳の頻度。熱の変化。脈拍。呼吸の音。


自分が使った魔法の種類と、その効果。


自分自身の症状の始まり。


街の人々の様子。死んだ植物達。


そして、何より──


俺の存在。


彼女は、「原因」が何かを知っていた。


そして、「運んだ」のが誰かも。


俺だ。


俺の体の中にいた、地球の細菌か、ウイルスか、何か。


それが、この世界にとっては、「未知」であり、「敵」だった。


俺の腸の中では、ただの共存者だったものが、この世界の人間の肺や血管では、猛獣になって暴れ始めた。


エマは、その正体を、顕微鏡のレンズの向こうに見ていた。


ノートに描かれた、細菌の図。


それを囲む、何重もの円。


そこから外に出ないように引かれた線。


それは、「本当はこうしなければいけなかった」という、彼女の悔恨の形だったのかもしれない。


俺を、ここに置いたこと。


俺を、ここに置き続けたこと。


隔離せず、殺さず、研究対象としても、母親の「預かり子」としても、半端に受け入れ続けてしまったこと。


その全部が、ノートのインクの中に滲んでいた。


俺はそのままだった、その後エマが描いている図も全然分からないもになった。異世界で使える知識なんて一つもなかった、異世界は仕組みが違った、俺はただの害だった。



エマは、その後も、研究をやめなかった。


エマは自分の咳がひどくなっても。


熱で視界が霞んでも。


手が震えて字が乱れても。


ページは、黒く埋まっていく。


そこで初めてマスクの図が現れてた。


布を何枚重ねるべきか。


目と鼻と口を、どう覆うべきか。


布をどう洗い、どう乾かせば、また使えるか。


患者をどう隔離するべきか。


部屋の空気をどう入れ替え、どう遮断すべきか。


全部、描き始めた。


この世界の誰も知らなかった概念を、エマは、自分の頭だけで辿り着いていた。


でも、そのすべては、「手遅れ」の上に乗っていた。



六週間目。


エマは、研究室の椅子に座ったまま、死んでいた。ローブの光は緑から黄色にわかっていた。マルタの遺体の如く、腐敗する様子もなかった。


彼女は手にはペンを握ったままだった。


机の上には、開かれたノート。


最後のページの最後の行に、描きかけの図。


小さな丸い点。


その周りを、数重の輪が囲んでいる。


外側の輪には、何か書き込みをしようとして、途中で止まった文字。


その横に、もう一つ、小さな丸い点が描かれている。


「次の世代」という意味の点かもしれない。


あるいは、「他の世界」という意味かもしれない。


ペン先から、インクが一滴、紙にこぼれていた。


そのインクのしみと、彼女の手首の温度が、同じくらい冷たかった。


俺はエマが設計してくれた魔動車椅子で部屋の中を移動できるようになっていた。しかし部屋の隅で、俺は車椅子に座ったまま気づいたら数十時間エマの遺体を眺めていた。



喉が乾きすぎて、音は出なかった。


この家には、俺一人になった。


マルタの家。


エマの研究室。


俺を、拾ってくれた家。


俺が、壊した家。



外は、静かだった。


窓から見える街の通りには、もう、人影はなかった。


代わりに、転がるものがあった。


体。


布をかけられたもの。


かけられていないもの。


遠くから、カラスの鳴き声が聞こえる。


鐘の音は、もう、鳴らない。


街全体が、呼吸を止めていた。


誰も、俺を責めない。


誰も、俺を罰しない。


誰も、俺を殺さない。


俺も俺を殺す力はない。


だからこそ、それは罰だった。



二ヶ月ほど経った頃。


誰も、この家に来ない。


家からも出られない、魔動車椅子も最後にエマの本棚にぶつかっり、本を地面に散らかし、そもまま電池らしい物のエネルギーがなくなってしまった。


マルタの作り置きのパンや干し肉は、とっくに尽きている。


それでも、死ななかった。


まるで、何かが、意地でも俺を生かしているみたいに。



ある日、壁に緑色の苔が生えているのを見つけた。


エマの部屋の、北側の壁。いつも陽が当たらない、少し湿った場所。


そこに、うっすらと、ぬるぬるした苔が広がっていた。


最初は、ただの汚れだと思った。


でも、腹が、空っぽを通り越して、とっくの昔に痛みに変わっていた。


水も、ほとんど受け付けない。


手足は、皮と骨だけ。


脳みそが、「何か」「何でもいい」「試せ」と命じていた。


俺は、壁に顔を近づけて、舌を伸ばした。


苔に触れる。


冷たい。ぬるぬるしている。


味は、最悪だった。


土。カビ。湿った石。全部を混ぜて腐らせたような味。


すぐに吐いた。


それでも、また舐めた。


何度も、何度も。


何日も続けた。


エマの体はそのままの姿。



季節が、何度か巡った。


春。夏。秋。冬。


歯は抜け落ち、髪も抜けた。


皮膚は薄くなり、あちこちにひび割れができる。


それでも、心臓は動いている。


肺も、しぶとく空気を出し入れしている。


体は、どんどん「人間」から遠ざかっていくのに、今になってやって体の中にある何かのエネルギーが俺を生かして、正気に保たせていることを感じた。



「帰りたい」


「ごめん」


それだけは、いつまでも、脳のどこかで鳴り続けていた。


エマはまだそこにいる、俺は本棚にぶつかったまま。


地面に広がる一面の本に落ちた衝撃で開かれたのがあった。


エマの写真が載っていて、少し微笑んでした、ページの一番上に大きく載っていた。あとは読めないけど、様々な魔法の刻印がそれぞれ並べていたのがわかった。


こんな立派な本に搭載できる程の人物だったんだ、エマは。功績も讃えられてたんだ。


それを僕は殺してしまった。



またそれから数ヶ月が経ったある日。


ドアが、開いた。

足音。


ゆっくりとした、重い足音。


俺は、壁に張り付いたまま、ぼんやりとそちらを見た。


白いローブ。


あのとき、エマを連れ帰ろうとした、あの人。


近くで見ると、彼のローブにはエマと同じ金の紋章が刺繍されている。


ただし、さらに複雑で、宝石も多い。


顔には、布を何重にも重ねたマスク。


エマのノートに描かれていた、あの図と同じ形。


白い髭。深く刻まれた皺。背は丸まっている。


あのとき、エマに緑色のローブと杖を渡して去っていった、あの研究服のおじいさんがやってきた。



彼は、俺を一瞥した。


その目には、何の感情もなかった。


ただ、「何か汚いもの」を見るような目。


そして、すぐに視線をそらし、奥へ向けた。


グッタリと動かなくなったエマの方。



しばらくして、声が聞こえた。


低く、かすれた、獣のような声。


泣いていた。


老人は、エマの遺体の前で、膝をついていた。


肩が震えている。


彼女の頭に手を置き、何かを呟いている。


言葉は聞き取れない。


でも、その声の重さだけは、伝わってきた。


「エマ……エマ……」


その名前だけは、はっきりと聞こえた。



やがて、彼は立ち上がろうとして、懐のノートを落とした。


革装丁のノート。


床に落ちて、ページが開く。


開かれたページ。


そこに描かれた、マスクの図。


細菌の図。


隔離の図。



同じ革装丁。


同じ模様。


角が同じようにすり減っている。


開かれたページはエマが最後なくなり際に書かれた物とまったく同じ内容だった。しかし、エマのノートはまだ遺体の手元にあった。


老人はその手を振るわせながら、地面にしゃがみその全く同じエマのノートを拾い上げた。


だから彼はマスクを付けていたんだ。



彼は、エマの最期を、すべて、見ていた。


「未知の患者を保護した」という最初の記述から。


母親の発症。


街の崩壊。森の死滅。


治癒魔法の無効化。


エマ自身の発症。


そして、可能な予防方法、マスクが現れた日、それ以外のまだ仮説でしかない予防、対処、解決法。



でも、ある日から、ノートは更新を止まった。


ページは、途中で止まった。


描きかけの図。


インクの染み。


それから、何も。


彼は、一週間、ノートの前で待った。


何も現れなかった。


そのとき、彼は理解した。


エマは、もう、書いていない。


書けない。


老人は、ゆっくりと顔を上げた。


その目が、俺を見た。


今度は、感情があった。


憎しみ。

絶望。

怒り。

悲しみ。悲しみ。悲しみ。


全部が、涙と共にぐちゃぐちゃに混ざった目。



彼は、ゆっくりと立ち上がり、俺の方へ歩いてきた。


杖を構える。


先端が、淡く光り始める。


彼は、何か呟いた。


短い呪文。



その瞬間、杖の先から、炎が放たれた。


でも、地球の炎じゃない。


赤くない。


オレンジでもない。


白い。


真っ白な炎。


それが、俺の体を包んだ。



痛みは、なかった。


ただ、温かかった。


でも、次の瞬間、皮膚が焼ける音がした。


ジュウ、ジュウ、という音。


でも、黒くならない。


俺の体は、白くなっていった。


まるで、焼けた陶器みたいに。


あるいは、あのとき、マルタがくれた、真っ白なパンみたいに。


あの、異様に白くて、柔らかくて、でも中がずっしり詰まっていた、あのパン。


やっぱり魔法の高級品だったんだろうな、と今になって思った。



「あ……」


声にならない声が、喉の奥から漏れた。


その瞬間、俺の体が、七色に光り始めた。


胸の奥から。


腹の奥から。


光が溢れ出てくる。


虹色。


青と紫の中間みたいな色。


花弁の縁が光るような、LEDを埋め込んだみたいな光。


それは、あのときの、あの花の色だった。



草原で拾った、七色に光る花。


「これ、絶対なんか魔法素材だろ……」


そう思って、ポケットに入れたまま、忘れていた花。


「……花」


かすれた声で、呟いた。


「俺の中に、あったんだ」


ずっと。


最初から。


体の中で、溶けて、染み込んで、俺の一部になっていた。



その光が、白い炎に呑まれていく。


視界が、白く染まる。


音が、遠くなる。


温かさが、冷たさに変わる。


最後に、脳の片隅で、誰かの声がした。


「帰りたい」


その言葉だけが、最後まで残った。


そして、消えた。



老人は、何も残っていない車椅子の上を、じっと見つめていた。


灰すら、残っていなかった。


白い炎は、すべてを、跡形もなく消し去った。


ただ、一瞬だけ、七色の光どこかに飛んで行ったのが見えた、強烈な思いを乗せて。


それが何だったのか、彼には分からない。



彼は、ゆっくりと杖を下ろし、エマのノートを抱えた。


もう一冊のノートも、懐にしまう。


それから、研究室を出た。


マルタのベッドの前で、もう一度、短く祈りを捧げた。


そして、家を出た。


連れてきた兵士に一年以上かけて改良された魔法をかけ、マスクはそのままで、エマとマルタの遺体を袋の中に入れ担がせて、去って行った。



街は、静かだった、悪臭だけを漂わせて。


誰もいない。


風だけが、枯葉を転がしている。


老人一行は緑の光を輝かせ、そのまま、街を後にした。


二度と、振り返らなかった。

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