初秋の風
季節の変わり目は、いつも唐突に訪れる。
ある朝、図書室の窓を開けると、肌に触れる空気がふわりと軽くなっていた。
夏の湿気を含んだ重たい幕が取り払われ、透明度の高い、乾いた風が書架の間を吹き抜けていく。入道雲は姿を消し、代わりに刷毛で掃いたような薄い雲が、淡い水色の空に滲んでいた。
彼女がその場所に現れたのは、そんな十月の放課後だった。
いつもの規則的な打刻音――松葉杖の音は、もうしない。
軽やかな上履きの音が近づき、僕の聖域の前で止まる。
「……久しぶり」
カウンター越しに見た彼女は、眩しかった。
ずっと着ていたジャージではなく、きちんとアイロンのかかった制服のスカート。包帯の取れた足は白く細かったが、そこには確かに大地を踏みしめる力が戻っていた。
彼女はもう、「逃げ込んできた怪我人」ではなかった。この静止した図書室の住人ではなく、流動する時間の世界へ帰るべき人になっていた。
僕は、手元の貸出カードを整理するふりをして、動揺を隠す。
「足、治ったんだ」
「うん。今日から部活、復帰するから」
彼女の声は弾んでいた。以前の、ガラス片を含んだような痛みのある声ではない。
彼女は持っていた本をカウンターに差し出した。僕が貸した、最後の一冊だ。
「これ、返すね」
受け取った本の表紙は、ほんのりと温かかった。
「面白かった?」
「うん。……でもね」
彼女は悪戯っぽく目を細め、窓の外のグラウンドへ視線を投げた。
「やっぱり私は、本の中で時間を止めるより、自分の足で時間を追い越したいみたい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて解けた。
それは安堵でもあり、鋭い喪失でもあった。
僕たちは、傷を舐め合う獣のように寄り添っていたけれど、傷が癒えれば群れを離れるのは自然の摂理だ。
「行ってらっしゃい」
僕は精一杯の平熱を装って言った。
「うん。行ってきます」
彼女は短く頷くと、一度も振り返ることなく、扉の向こうへと駆けていった。
スカートの裾が翻り、廊下の光の中に消える。
あとに残されたのは、微かなシーブリーズの香りと、再び訪れた深い静寂だけだった。
僕は彼女が返した本を開いた。
予感はあった。そして、それは裏切られなかった。
見慣れたノートの切れ端で作った栞が、最後のページに挟まれている。
そこには、彼女の癖のある丸文字で、こう書かれていた。
『ありがとう。この青いインクの色を、私は忘れない』
ただそれだけ。
さよならも、好きという言葉もない。けれど、その短い一行は、どんなラブレターよりも深く僕の胸を穿った。
僕はポケットから万年筆を取り出そうとして、やめた。
もう、返事を書く必要はないのだ。
この往復書簡は、これで完結したのだから。
僕は椅子を立ち、窓際へ歩み寄った。
眼下のグラウンドには、準備運動を始める陸上部員たちの姿がある。
その中に、ポニーテールを揺らして走る彼女を見つけた。
まだ全速力ではないけれど、その足取りは軽やかで、美しいフォームでトラックを蹴っている。
夕陽が彼女の背中を黄金色に照らしていた。
僕の手の中にある「言葉」の世界と、彼女が駆けていく「身体」の世界。
二つの世界はもう交わらない。
けれど、寂しくはなかった。
炭酸が抜けたサイダーのような、甘く、気の抜けたような、けれど澄み切った透明な感情が、僕の身体を満たしていた。
窓から吹き込んだ秋の風が、机の上の本のページをパラパラとめくる。
遠くから、スタートのピストル音が乾いた音を立てて響いた。
その音は、僕にとってもまた、新しい季節の号砲のように聞こえた。




