サイダーと陽炎
秘密の往復書簡は、思いがけず長く続いた。
それは会話と呼ぶにはあまりに断片的で、詩と呼ぶにはあまりに拙い、感情の欠片の交換だった。
彼女は本棚の隙間に、あるいは返却ポストの底に、自分の一部を切り離すように栞を隠した。
『蝉の声がうるさくて、耳の奥が痛い』
『今日は海が濁っている』
『消毒液の匂い、いつになったら消えるかな』
僕はその日の放課後、誰もいなくなった図書室で宝探しをするように彼女の言葉を見つけ出し、万年筆の青いインクで返事を添える。
『蝉は七日で死ぬから、必死なんだと思う』
『濁った海も、明日には砂が沈んで透き通るよ』
『図書室の古い紙の匂いで、上書きすればいい』
僕たちは直接言葉を交わすことはなかった。
彼女が図書室に来て、いつもの席に座る。僕はカウンターで作業をする。ただそれだけだ。
けれど、静寂の質は明らかに変わっていた。かつて僕を守っていた孤独な壁は、今では二人を包み込む柔らかな膜のようになっていた。ページをめくる指先の微かな擦過音や、彼女が息を吐くたびに揺れる後れ毛の気配が、僕の意識の端に常に引っかかっている。
ある湿度の高い午後のことだった。
空調の効きの悪い図書室には、気怠い熱気が淀んでいた。窓の外では、アスファルトから立ち上る陽炎が、校舎の輪郭を揺らしている。世界全体が微熱を帯びているような日だった。
彼女はいつもの席ではなく、僕がいるカウンターのすぐ近くの閲覧机に座っていた。
机の上には、購買で買ったばかりのサイダーの瓶が置かれている。緑色のガラス瓶の表面を、結露した水滴がゆっくりと滑り落ちていく。
彼女はストローでサイダーを一口飲むと、小さく息をついた。
ふう、という溜息と共に、甘い炭酸の匂いがふわりと漂う。それは、古い本の乾いた匂いとは対極にある、瑞々しい「今」の匂いだった。
「ねえ」
不意に、彼女が口を開いた。
数週間ぶりに聞くその声は、少しハスキーで、驚くほど近く感じられた。僕は書きかけの図書カードから顔を上げ、彼女を見る。
逆光の中で、彼女の輪郭は光に溶けかけていた。長い睫毛が落とす影が、頬骨の上で揺れている。
「……なに?」
僕の声は、長く使っていなかった楽器のように掠れた。
「おすすめ、教えてよ」
彼女は顎で書架をしゃくった。その仕草はぶっきらぼうだったが、瞳だけは迷子のような色をして僕を見つめていた。
「本の中でなら、時間は止められるんでしょ?」
僕が以前、栞に書いた言葉だ。
心臓が早鐘を打つ。僕はカウンターを出て、彼女の前に立った。
汗とシーブリーズ、そしてサイダーの甘い香り。彼女の存在が発する鮮烈な生命力が、僕の肌を刺すようだった。彼女の怪我をした足は、まだ痛々しい包帯に巻かれたままだ。けれど、その傷さえも、青春という季節が刻んだ残酷で美しい装飾のように見えた。
僕は迷った末に、一冊の文庫本を選び出した。
派手な冒険活劇ではない。けれど、静かに心に灯りをともすような、古い海外の児童文学だ。
差し出された本を受け取るとき、彼女の指先が僕の指に触れた。
ひやりと冷たかった。
サイダーの瓶を握っていた冷たさが、僕の体温へと伝播する。その一瞬、図書室の空気が真空になったかのように張り詰めた。
「……ありがとう」
彼女は短く呟き、少しだけ口角を上げた。
それは初めて見る、彼女の笑みだった。
強い日差しに目を細めたような、眩しさと寂しさが同居した、儚い笑顔。
瓶の中のサイダーが、パチパチと小さな音を立てて泡を弾けさせている。その音はまるで、僕たち二人の間で生まれては消えていく、言葉にならない感情の音そのもののようだった。
彼女はその日から、本を読むようになった。
窓の外を見る時間は減り、活字を目で追う時間が増えた。
時折、ふと顔を上げて僕の方を見ることがある。目が合うと、どちらからともなく視線を逸らす。けれど、その拒絶ではない視線の交錯は、どんな饒舌な会話よりも雄弁に僕たちの距離を語っていた。
栞のやり取りは続いていたが、内容は少しずつ変化していた。
独り言のような悲鳴から、問いかけへ。
『この主人公、最後はどうなるの?』
『それは読んでからのお楽しみ』
『ケチ』
『とっておきなんだ』
そんな穏やかな日々が永遠に続けばいいと、僕は本気で願い始めていた。
窓の外で揺れる陽炎のように、確かな形を持たない僕たちの関係。名前をつければ壊れてしまいそうな、硝子細工のような季節。
けれど、秋の気配は確実に近づいていた。
入道雲の峰が崩れ、風に少しだけ涼気が混じり始める。
そして、サイダーの炭酸がいつか必ず抜けてしまうように、この時間にも終わりの予感が満ち始めていた。
ある日、彼女の松葉杖が一本になった。
それは回復の証であり、同時に、彼女が「あちら側」の世界へ戻っていくカウントダウンでもあった。




