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青インクの静寂

 図書室の空気は、どこか水底のそれに似ている。


 埃と、古い紙と、黴の匂いが入り混じった静謐な澱み。重たい木製の扉を閉ざせば、廊下を走る生徒たちの足音や、遠くから響く吹奏楽部のチューニングの音さえも、水膜を隔てた向こう側の出来事のように鈍く、曖昧なものへと変わる。僕はその隔絶を愛していた。


 放課後の図書室には、西日が長く伸びている。

 窓の外には、圧倒的な質量を持った入道雲が、焼けるような青空に居座っていた。眼下にはグラウンド、その先には防風林を挟んで、光の粒を撒き散らしたような海が広がっている。

 夏の日差しは暴力的なほどに白く、窓ガラスを透過して、古いリノリウムの床に幾何学的な影を落としていた。僕はカウンターの隅に座り、読みかけのハードカバーに視線を落とす。文字の羅列だけが、僕の世界のすべてだった。


 あの日、彼女がやってくるまでは。


 規則的なリズムが、静寂を不器用に切り裂いた。

 かつ、かつ、かつ。

 硬質な音が近づき、扉が開く。熱気とともに流れ込んできたのは、夏の匂いだった。

 入り口に立っていたのは、陸上部のユニフォームを着た女子生徒だった。日焼けした肌は小麦色で、汗に濡れたおくれ毛が額に張り付いている。しかし、何よりも目を引いたのは、彼女の脇に抱えられた松葉杖と、包帯で重々しく固定された右足だった。


 彼女は僕と目が合うと、決まりが悪そうに視線を逸らし、それから逃げ込むように一番奥の席――窓際の、海がよく見える特等席へと向かった。

 松葉杖が床を突く音だけが、書架の間に反響する。

 彼女は本棚には目もくれず、椅子に深く腰掛けると、ただじっと窓の外を眺め始めた。


 それから、毎日が同じように過ぎた。

 彼女は放課後になると必ず現れ、同じ席に座り、本を一冊も開くことなく、硝子戸の向こうにあるグラウンドを見下ろしていた。

 陸上部の掛け声。スタートピストルの乾いた音。それらが聞こえるたび、彼女の華奢な背中がわずかに強張るのを、僕はカウンター越しに見ていた。

 彼女の周りだけ、空気が違う。

 図書室の枯れたような静けさの中に、彼女が持ち込む「シーブリーズ」と汗の匂いは、あまりに鮮烈で、生き急ぐ季節の切なさを孕んでいた。彼女は光そのものでありながら、同時に、光を奪われた影のようでもあった。


 僕は彼女に話しかけなかったし、彼女も僕を風景の一部として扱った。

 ただ、微かな波音と、ページをめくる指の音だけが、二人の間に横たわる共通言語だった。


 九月に入り、空の色が少しずつ高くなり始めた頃のことだ。

 その日、彼女は珍しく一冊の本を手に取っていた。それは詩集でも小説でもなく、古い写真集だったと思う。彼女が帰った後、返却用のブックトラックに置かれたその本を、僕は回収した。

 所定の位置に戻そうとして、本の間から一枚の紙片が滑り落ちる。


 それは、ノートの端をちぎって作られた、即席の栞だった。

 拾い上げようとした指が止まる。

 そこには、青いボールペンで、走り書きのような文字が記されていた。


『夏が、私を置いていく』


 心臓が、トクリと音を立てた。

 それは本の感想ではなかった。誰かに宛てたメッセージでもないだろう。行き場を失った感情が、指先から零れ落ちて、紙に染み込んでしまったような、痛切な独り言。

 僕は顔を上げた。窓の外では、夕暮れの海が紫がかった紺色に染まり始めている。彼女はもういない。けれど、その文字からは、彼女が噛み締めていた唇の形や、窓ガラスに映っていた虚ろな瞳が、ありありと浮かび上がってくるようだった。


 走れなくなった足。仲間たちの声。過ぎ去っていく季節。

 彼女の中で渦巻く焦燥が、この短い一行に凝縮されていた。


 僕は迷った。

 見なかったことにして、ゴミ箱に捨てるべきだ。それが図書委員としての、あるいは他人としての正しい振る舞いだ。

 けれど、僕はその紙片を捨てられなかった。彼女の孤独が、僕自身の孤独と共鳴してしまったからかもしれない。言葉にできない感情を抱えて、活字の森に逃げ込んでいる僕と、走ることを奪われてここへ漂着した彼女。


 僕はポケットから愛用の万年筆を取り出した。

 インクは、海の色と同じブルーブラック。

 白い紙の余白、彼女の文字の下に、ペン先を落とす。震えそうになる指を抑え、僕は一言だけ、返事を記した。


『本の中でなら、時間はいつでも止められる』


 気休めにもならない言葉だ。

 それでも、書かずにはいられなかった。

 インクが紙に染み込み、乾いていくのをじっと見つめる。それは、僕と彼女の間にあった透明な壁に、ほんの小さな穴を開ける行為に似ていた。


 僕はその栞を、元のページにそっと挟み込んだ。

 そして、本を棚に戻す。

 背表紙が他の本と並んで収まった瞬間、奇妙な共犯関係が成立したような気がして、指先が熱くなった。


 図書室には、相変わらず静寂が満ちている。

 けれどその静けさは、昨日までの空虚なものとは、少しだけ違っているように思えた。

 遠くで、波の音が聞こえた気がした。

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