ep. 9 揺れ始めた自問:未唯が一人で歩く帰り道
大学の正門を出た瞬間、秋の湿った空気が胸の奥まで入り込んだ。
大都乃未唯はリュックの肩紐を握り直し、ゆっくりと歩き出す。
広曽木真と別れてから、まだ数分しか経っていない。
それでも、自分の内側の騒がしさは、まるで一時間以上話し込んだ後のようだった。
(……今日の私は、おかしかった)
本来の自分ならあんなに話さない。
まして、家族のことや幼い頃の記憶のような“領域”は、誰にも触れさせたことがない。
けれど真と話していると、言葉が自然に出てしまった。
──なぜ?
歩くたびに、胸の奥でざわりと波が立つ。
未唯自身、その正体を掴めない。
幼い頃から未唯は、人に心を預けることに慎重だった。
父の支配的な態度と、母の静かな忍耐。
優しさよりも“義務”が家庭を支配していた。
愛情表現の乏しい家で育ったせいか、他者への感情にも距離を置く癖がある。
だから今日、真にあれほど素直に話せた自分が信じられない。
(……あの人、なんで怖くないんだろう)
真は未唯を分析しようとはしない。
ただ理解しようとする。
その姿勢は、未唯がこれまで出会った誰とも違っていた。
欲望も押しつけもない。
ただ「知りたい」と言う。
それは未唯にとって初めての“安全な他者”のように思えた。
(それが……危ない)
思った瞬間、未唯は歩を止めた。
夕方の光が沈みかけ、街路樹の影が長く伸びる。
安全だと感じる他者に心を預けるのは、未唯にとって怖い。
誰かに期待すれば、裏切られるかもしれない。
期待が大きければ大きいほど、失う痛みも鋭くなる。
だから未唯はいつも、自分を律してきたのだ。
義務に従い、生きるための規範を守るために。
感情を鋭く意識する暇がなかった。
なのに今日の真との会話は、その“壁”を揺らした。
(どうして……あんなに気を許してしまったの)
未唯は深呼吸をし、また歩き出す。
街灯がつき始め、夜の色がゆっくりと街を覆う。
スマホを取り出し、時刻を見る。
真と別れてからほんの少ししか時間が経っていないのに、胸が落ち着かない。
(広曽木くん……今、何してるんだろう)
その考えが、未唯自身を驚かせた。
(ちょっと待って……どうしてそんなことを気にしてるの?)
気にする必要はない。
未唯は恋愛経験がほぼなく、そもそも“好き”がどういう感情なのか分からない。
だから今胸に生じているざわつきの名前も知らない。
──でも確かに、関心が向いている。
真の言葉、真の視線、真の沈黙。
その全てが、今日だけ妙に鮮明だった。
未唯は小さく息を吐く。
(これって……好き? 違う……よね。
わたしには“好き”なんて分からないんだから)
否定しようとすればするほど、胸は熱くなる。
その熱は不快ではなく、むしろ心を静かに満たすような温かさだった。
家に着く。
ドアを閉めると、外の喧騒が消え、一気に静けさが降りる。
未唯はソファに腰を落とし、膝を抱えた。
──真の言葉が頭から離れない。
「好きは、価値承認だと思う」
その一言が、未唯の内側に長く残響していた。
価値……承認。
誰かの価値を認めること。
誰かに価値を認められること。
(……そんな経験、私にはなかったな)
母を手伝うこと。
成績を保つこと。
役割を果たすことで、なんとか家庭という場所に存在してきた。
“自分という存在”そのものが認められた経験は、多分、一度もない。
(だから……価値承認なんて言葉が、こんなに胸に刺さるの?)
未唯は自分の胸に手を当てる。
(広曽木くんは……どうしてあんな風に話せるんだろう)
真は、自分の欲望で迫らない。
期待もしない。
ただ思想として未唯を理解しようとする。
そんな人に出会ったことはなかった。
だからこそ、恐ろしくて、同時に惹かれる。
(……ずるいな)
ぽつりと呟く。
(あんな風に優しくされたら……どうしたらいいの)
未唯は、合わせてしまいそうになる自分が怖かった。
誰かに寄り掛かる自分は、想像したことがない。
寄り掛かれば、きっと崩れる。
でも。
(明日……また話したい)
心の底から湧いたその言葉に、未唯は我ながら驚き、そして戸惑った。
(これが……“関心の偏り”ってやつ?)
真が今日言っていた概念が、急に現実味を帯びた。
意識すればするほど、未唯の思考は真へと引き寄せられる。
胸の奥に小さな熱が灯る。
その熱の名前を、未唯はまだ知らない。
ただ一つだけ分かったことがある。
(広曽木くんと話すの……落ち着く)
未唯にとって、
“落ち着き”はもっとも危険で、もっとも欲していたものだった。
その夜、未唯は長く目を閉じられずにいた。
恐さと温かさが交差するまま、意識は静かに揺れ続けた。




