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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第0章 告白と拒絶:原初的非対称

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ep. 8 欲求の輪郭:未唯の沈黙の奥

 休憩を挟み、二人は大学の中庭に出た。

 風は冷たく、芝の匂いが弱く漂っていた。学生たちの雑談が遠くで聞こえたが、二人のいるベンチの周囲だけ、不思議なほど静かだった。


「さっきの話の続きなんだけど……」


 真が言うと、未唯は紙コップの温かい紅茶を両手で包みながら応じた。


「うん。まだ考えてる」


「どの部分?」


「“価値承認”っていうところ……。

 あれって、そんなに大事なの?」


「すごく大事だと思う。

 好きは……価値の勾配に沿って動くから」


「価値の……勾配?」


「うん。たとえば、未唯は読書に価値を置いてる。

 だから読書する人に自然と関心が向く」


「まぁ……それは、そうかも」


「逆に、暴力的な人や嘘つきは……価値がないと思うから、近づきたくない」


 未唯はコップの表面に視線を落とす。

 その反応の鈍さに、真は気づいた。


「……未唯?」


「価値がない人でも……わたしは避けられないよ」


 その一言に、真の胸がわずかに凍る。

 価値の有無に関係なく、距離を取れない──それは、自尊の弱さ、あるいは過去の傷の匂いだ。


「どうして?」


「……分からない」


「本当に?」


「本当」


 未唯は何でも論理で捉えようとするタイプだ。

 だから“分からない”と口にするときは、本当に手がかりがないときだ。


 真はあえて静かに問うた。


「未唯は……誰かに嫌われること、すごく恐れてない?」


「……」


 未唯は沈黙した。

 それは否定ではなかった。


「誰かを嫌いだと思っても、“嫌い”って言えないんじゃない?」


「……言えない」


「どうして?」


 数秒の沈黙。

 未唯は紅茶を見つめたまま、小さな声で言った。


「嫌われたくないとかじゃなくて……

 わたし、“誰かを嫌っていい”って思ったことがないんだよね」


 その言葉は、異常でも病的でもない。

 ただ、徹底的に他者に合わせてきた子どもの生き方が、そのまま大人になった形だった。


「……自分を犠牲にしてでも?」


「犠牲とかじゃないよ。

 なんていうか……“嫌う”って感情そのものが、わたしにはよく分からない」


「嫌うのが分からない……?」


「うん。

 “好き”が分からないのと同じくらい、“嫌い”も分からない。

 どっちも、生まれた瞬間に消えてしまう」


 真は息を呑んだ。

 それは、砂の地面に言葉を落とすような感覚だった。


「じゃあ、好きと嫌いの区別は……?」


「境界がない。

 どっちも“反応”でしかない感じ」


「反応……」


「うん。

 誰かが優しくすると、ドキッとする。

 誰かが怒ると、胸が痛くなる。

 でも、それが“好意なのか恐怖なのか”が分からない」


「未唯は……ずっとそんな感じだった?」


 未唯は答えなかった。

 ただ、冷えた風が頬を掠めていき、それが小さな合図のようだった。


「……もしかして」


 真は慎重に言葉を選んだ。


「家で、感情表現をあまり許されなかった?」


 未唯の肩が、かすかに震えた。

 その反応は、真の推測が偶然ではないことを示していた。


「……話したくないなら、いい」


「話したくないわけじゃない」


 未唯はゆっくりと顔を上げた。

 紅茶の湯気が揺れ、その奥で彼女の瞳が淡く濡れていた。


「ただ……話しても、広曽木くんには分からないと思う」


「それは──」


「責めてるんじゃないよ」

 未唯はかぶせるように言った。

「わたしの家のことって……“普通じゃない”から。

 説明しても、共感とかじゃなくて、“理解”しようとされると思う」


「理解しちゃいけないの?」


「……広曽木くんに“分析”されると、全部が“構造”にされちゃう気がするの」


 その言葉は、真の胸を真っ二つに割るほど鋭かった。

 まるで自分の武器が、未唯にとっては刃物でしかないように感じられた。


「ごめん……」


「違う」未唯は小さく首を振る。「ごめんって言わないで」


「でも……」


「広曽木くんの分析って、わたしは嫌じゃない。

 ただ……分析されると、自分の内側が全部“形式”に変わる気がして、怖い」


 真は息を静かに整えた。


「じゃあ……分析じゃなくて、聞くだけにするよ」


「……本当に?」


「うん。

 未唯が話すなら、俺はただ“聞く側”になる」


 未唯はしばらく真を見つめ、その言葉が本気かどうかを確かめるように、小さく瞬きをした。


「……じゃあ、広曽木くんは“分析しない”って……約束できる?」


「できるよ」


「絶対?」


「絶対」


 未唯は躊躇い、深い呼吸をし、そしてゆっくりと言った。


「わたしね……“欲求”ってものが、ずっと怖かった」


「欲求……?」


「うん。

 人の欲求を見ると……世界が歪むような気がする。

 怒りとか、独占欲とか、優越とか、愛情とか……

 全部が“相手の欲求”に見えるから」


「欲求=圧力、って感じ?」


「そう。

 わたしは、人の欲求に触れると……

 その人に“合わせなきゃ”って思ってしまう」


 真は胸の奥が痛くなる。


「だから──」


 未唯は小さく震える声で続けた。


「広曽木くんの“好き”も……もし本物の欲求だったら、わたしは逃げるしかない」


 その一言は、真にとって鋭すぎるほどの真実だった。


「……でも」

 未唯は小さな声で続けた。

「広曽木くんの“好き”は……なんか、圧力じゃない」


「圧力じゃない?」


「うん。

 わたしが“理解できないこと”を、そのままにしてくれるから」


 真は言葉を失った。

 恋でも友情でもないこの関係が、未唯の心のどこかにちゃんと届いている──それを知るだけで、胸が熱くなった。


「……未唯」


「なに?」


「俺は欲求をぶつける気はないよ」


「うん。

 だから今は……怖くない」


 その言葉に、真は初めて安堵の呼吸を落とした。


 しかし──次の瞬間、未唯は急に立ち上がった。


「ごめん。今日はここまでにしよ」


「え……?」


 未唯は紅茶の紙コップを握りしめたまま、視線を合わせなかった。


「これ以上話すと……

 わたし、自分の中の“境界”が無くなる気がする」


 その言葉は、真に向けた拒絶ではない。

 自分を守るための防壁だった。


「また……明日でいい?」


 真はゆっくり頷いた。


「うん。明日話そう」


 未唯は小さく会釈をして去っていく。

 その背中は、昨日よりもずっと細く、しかし確かに前へ進んでいた。


 真はしばらくその姿を見つめながら、胸の奥に静かな熱を灯していた。

 未唯が逃げたのではなく、自分の境界を守るために距離を取った──その違いを、真は痛いほど理解したから。


 関係はまた一歩進んだ。

 不完全で、脆くて、それでも確実な歩幅だった。

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