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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第6章 好きの因果

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ep. 70 言葉の外側にあるもの

夜の図書館は、いつもより静かだった。

期末試験が近いわけでもなく、皆が一斉にいなくなるタイミングというだけで、

そこに理由のような理由がない空白が生まれる。

俺と未唯はいつもの隅のテーブルに座って、

もう二時間以上もノートを開きっぱなしにしていた。


「ねぇ、真くん。」

未唯が、ページの端を指でなぞりながら言った。

その声は、議論を始めるとき特有の、

どこか静かな緊張を含んでいる。


「今日の話、なんだったっけ?」

俺が軽口を叩くと、未唯は少し眉を寄せた。

怒っているわけではない。真面目さのスイッチが入っただけだ。


「好きが“何によって起こるか”を考えてたんだよね。

 外的なものとか、内的なものとか、偶然とか……。」

「契機の重なり、ってやつだろ?」

「うん。でも、ひとつ気になってることがあって。」


未唯が少しだけ視線を上げた。

その動作はごく自然で、でも俺にはどうしてか、

いつもより意味深に見えてしまう。


「ねぇ真くん。

 もし“好き”って、いくつもの小さな要因が重なって生まれるものなら、

 どれか一つだけ取り出して、『これが原因』って言えないよね?」


「そうだな。」

俺は頷く。

「だから単一因果じゃ説明できない。

 さっきも話したけど、俺が未唯を好きになった理由だって、

 ひとつには絞れない。最初に声をかけられた偶然もあるし、

 一緒に議論してて、話の組み立てが綺麗だと思ったとか、

 真面目さとか……いろいろある。」


未唯は、ふっと息を漏らした。

溜息じゃない。

でも、言葉を整えるための小さな呼吸のようだった。


「真くんは、理由をちゃんと探そうとするよね。」

「癖だな。19世紀哲学史なんて因果ばっかり追う学問だし。」

「でも、恋って……そんなに整理できるものなのかな。」


その瞬間、図書館の照明が一つだけ点滅した。

蛍光灯が寿命を迎えかけているのかもしれない。

白く瞬く光と影の揺れが、未唯の横顔から一瞬だけ表情を奪って、

また戻す。


「ねぇ真くん。」

未唯の声は、光の揺れよりも静かだった。

「もし……全部の要因を取り除いたとき、

 “好き”だけが残るってこと、あるのかな?」


「……どういう意味だ?」

「だって、今までの話をまとめると、

 好きは、外的なもの、内的なもの、偶然、関係……

 いろんな契機の重なりなんだよね?」


「そうだ。俺の理解ではな。」


「でもさ。」

未唯がページを閉じた。

その音が、不思議なくらい大きく響いた。


「その全部を一つずつ検討していっても、

 “好きそのもの”って見えてこない気がするの。」


俺は、返事が遅れた。

なぜかというと、未唯が初めて本音に近い何かを言いかけていると分かって、

言葉を挟むのが怖かったからだ。


「ねぇ真くん。

 私たちがこうやって議論して、

 要素を並べ替えたり、理由を探したりしても……

 本当の“好き”って、

 もっと言葉の外側にあるんじゃない?」


図書館の空気が変わった気がした。

いや、変わったのは空気じゃなくて、未唯の声の温度だ。


「だってね、真くん。」

未唯は目を伏せたまま言う。

「私は……好きって言われても、それが何を意味するのか分からない。

 でも、真くんが私のことをどう見てるか、

 どう感じてるか、

 それを“理由”に置き換えられてしまうと……

 なんか、違うような気もするの。」


「……違う?」


「うん。

 だって、もし理由のどれかが欠けたら、

 好きじゃなくなるの?

 そんなの、怖いよ。」


未唯が怖いと言ったのは初めてだった。

その言葉が俺の胸に、ゆっくり沈んで、沈んだまま動かなかった。


「真くん、理由って……

 本当に必要なのかな。

 好きって……

 “そうなるもの”なんじゃない?」


そう言ったあと、未唯は自分の指先を見つめて、

まるでその問いを自分自身に向け直しているようだった。


俺は、それでも何か答えようとした。


「……でも、俺は……未唯を好きになる理由が欲しかったんだ。」

「うん。分かるよ。」

「理由があれば納得できる気がした。

 俺が何に惹かれたのか分かれば、この感情が“間違いじゃない”って……

 証明できる気がしたからさ。」


「真くんは……優しいね。」

未唯が柔らかく笑った。

その笑みには、どこか寂しさの気配が混ざっていた。


「でもね……」

「……」

「たぶん私……

 “好き”を定義しようとして、

 ずっと分からないままでいる自分が怖かったんだと思う。」


「未唯……。」


「だから今日、真くんの話を聞いてて……

 なんか、逆に安心したの。

 好きって、そんなに綺麗に説明できないんだって分かって。」


未唯の声は、図書館の静けさに吸い込まれるように細くなる。

けれど、その言葉の重さは、静けさに負けなかった。


「好きは……たぶん、

 “どこまで行っても定義しきれないもの”なんだと思う。」


それは告白でも、拒絶でもない。

しかし俺の胸に強く、深く刺さる響きだった。


未唯は続ける。


「もし、真くんがまた……

 好きって言ってくれたら、

 私はその言葉の“意味”を探すんじゃなくて、

 その言葉を言った“真くん自身”を見るんだと思う。」


沈黙が落ちた。

でもその沈黙は、かつてのような拒絶の重さではなく、

まだ名前のない感情が、

ゆっくり形を探している静けさだった。


俺は小さく息を吸う。

未唯が言葉の外側に触れようとしていることに、

気づいたからだ。


未唯は最後に、

俺でも読めるほど微かな声で言った。


「……理由がないから、嫌だとは思わないよ。

 理由がないから……すこしだけ、怖いだけ。」


その瞬間、

“好きは理由では説明できない”という議論が、

抽象のレベルを越えて、確かに現実へ触れた。


そしてそれが、

この章の、そして第一部全体の核心になると俺は悟った。

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