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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第0章 告白と拒絶:原初的非対称

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ep. 7 定義の始まり:論理と恋が交差する場所

 翌日、図書館に入ると、まだ午前の光が差し込む閲覧席で、未唯は静かに本を読んでいた。彼女の周りだけ空気が薄く、光が柔らかく滲んで見えた。真はその姿を見つけただけで、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 未唯は真に気づくと、わずかに会釈した。

 笑ったわけではない。

 表情もほとんど動いていない。

 それでも、昨日までとは違い、そこには「避けない」という意志があった。


「おはよう、広曽木くん」


「おはよう、未唯」


 自分でも驚くほど自然にその名前が出た。

 未唯は一瞬だけ視線を動かしたが、否定も肯定もしなかった。


 席に座ると、真は鞄からノートを出しながら言った。


「昨日、帰ってから……すごく考えた」


「好きのこと?」


「うん。それと……未唯の言ってた“置き場所”の話」


 未唯は本を閉じ、姿勢を正した。それは議論の準備動作というより、感情を一度ゼロに戻すための儀式のように見えた。


「わたしも少し、考えた」


「ほんと?」


「うん。分からないなりに……だけど」


 その言葉は、真にとっては朝から贈られた贈り物のように感じられた。

 分からないけれど考える──未唯にとってそれは、相手への誠実さを示す最大限の行為だったから。


「じゃあ……今日は“好き”の定義を作るところから始めようか」


「定義……ね」


 未唯はペンを握りながら、少しだけ眉を寄せた。


「好きって、定義できるものなの?」


「できないって思われがちだけど……多分できる」


「どうして?」


「好きが“現象”じゃなくて“構造”だとしたら、定義できる」


 未唯はもう少しだけ前傾になった。

 真が“説明モード”に入ると、未唯の注意が自然に向けられる。

 それは恋愛感情ではなく、好奇心の発動だった。


「まずさ、好きって“快楽”の一部でしょ?」


「……そう、なのかな」


「好きな食べ物っていうときの“好き”も、好きな人っていうときの“好き”も、快・不快の軸を使って判断してる」


「たしかに……。不快なものは“嫌い”って言うし」


「そう。でも問題はここから」


 真はノートに三角形を描いた。


「快楽には二種類ある。

 ひとつは“普遍的な快”。

 もうひとつは“主観的な快”」


「普遍と主観?」


「そう。たとえば、“快を感じる能力”は全員にあるよね?

 顔が綺麗な人を見たら、だいたいの人が“美しい”って思う。それは普遍的な快」


 未唯は頷いた。


「でも、どんな顔を好きになるかは人によって違う。

 それは主観的な快」


「……それなら、分かる気がする」


 未唯の表情が、ごくわずかだが明るくなった。


 真は続けた。


「つまり“好き”って、

 〈普遍的な快の構造〉と

 〈主観的な快の内容〉

 が合わさってできてる」


「普遍と主観の混合……」


「そう。これはカントの感性論に近い考え方だよ」


 未唯の目がわずかに輝いた。

 “カント”という単語にだけ反応が鋭い。

 真はすぐに気づいた。


「もちろん、未唯のほうが詳しいけどさ」


「……褒めても何も出ないけど」


「褒めてるんじゃなくて……事実を言っただけだよ」


 未唯は少しだけ頬を赤くした。

 感情反応ではなく、単に“慣れない”だけだ。

 しかしその反応が、真の心臓を無駄に跳ねさせた。


「じゃあさ──」


 真は新たにノートを書き始めた。


「“好き”を構成する普遍的な核を三つに絞ると、こうなる」


 未唯は身を乗り出し、ペンを止めて真のノートを覗き込んだ。

 その距離の近さに、真の呼吸はわずかに乱れた。


「一つ目、主観的快。

 二つ目、価値承認。

 三つ目、関心の偏り」


「三つ……?」


「そう。

 どれか一つでも欠けたら、“好き”とは言えないと思う」


 未唯はペンで机をトントンと軽く叩いた。

 考えるときの癖だ。


「主観的快……価値承認……関心の偏り……」


 未唯はしばらく考え込んだあと、小さく息を吐いた。


「……分かるような、分からないような」


「どこが引っかかる?」


「“価値承認”って……どういう意味?」


「相手の存在を肯定すること」


「存在の肯定……」


「たとえば、未唯の考え方とか、歩き方とか、喋り方とか……

 そういう一つひとつに、“価値がある”って認めた瞬間に“好き”が生まれるんだと思う」


 未唯は静かに真を見つめた。

 その瞳の揺れは、昨日よりもずっと透明だった。


「広曽木くんは……わたしに“価値”を見てるの?」


「……見てるよ」


 未唯は視線を落とした。

 深い呼吸をし、少し間を置いてから言った。


「わたし、自分の価値って分からないんだよね」


「そんなこと──」


「分かってる」

 未唯はかぶせ気味に言った。

「分かってるけど……。

 でも、自分の価値って、自分以外の誰かが決めるものじゃない?」


「違うよ」


 真は即答した。

 その速度に、未唯がわずかに目を見張る。


「価値は……

 “他者が見る価値”と

 “自分で立てる価値”の両方で決まる」


「両方?」


「うん。

 片方だけだと、きっとバランスを崩す。

 未唯のいう“自分の形がない”っていうのは……

 あまりにも他者に合わせて生きてきたから、自分の価値を自分で立てられなかったんだと思う」


 未唯は息を呑んだ。

 それは理解というより、触れてはいけない場所に触れられた痛みに近かった。


「……どうして、そんなふうに言えるの?」


「分かるからだよ」


「分かる……?」


「俺も、自分を定義できなくて迷ったことがあるから」


 未唯の目が真に向けられた。

 その目は“共感”ではなく、“理解の予兆”だった。


「じゃあ──」


 未唯はゆっくりと続ける。


「好きって……

 〈価値を見つけてくれる人〉に向かう気持ちなの?」


「部分的には、そうだと思う」


「じゃあ、広曽木くんがわたしを好きなのは……

 わたしの中に、価値を見つけたから?」


「……そう」


 未唯はほんの少しだけ震える声で言った。


「それなら……わたしが“好き”を分からない理由も……説明できるのかな」


「どういうこと?」


「わたし……自分に価値を見つけたことが、ほとんどないんだよ」


 その言葉は、真の胸に深く沈んだ。

 まるで長い間閉じられていた箱が開いた音が聞こえた気がした。


「だから、誰かに好きって言われても……

 “どの部分に?”って思ってしまうの。

 それが分からないから、怖いの」


 真はペンを置き、未唯の方へ身体を向けた。


「未唯」


「……なに?」


「俺は、未唯の“価値”を……たくさん見てるよ」


 未唯は驚いたように目を大きくした。

 しかし、逃げなかった。


「昨日の……あの一言で、俺は救われた」


「一言?」


「“分からないままでもいい”って言葉に、嘘がなかった」


 未唯は息を詰めた。


「俺は、ああいう誠実さに……価値を見てる」


 未唯は静かに俯いた。

 指先が小さく震えていた。


「……そんなこと、言わないでよ」


「なんで?」


「分からなくなるから」


「何が?」


「この気持ちが……“好き”なのか、“快”なのか、ただの“反応”なのか……分からなくなる」


 真の胸が一度ズキリと痛んだ。

 それは恋に近い痛みではなく、彼女の葛藤を真正面から受け取った哀しさに似ていた。


「分からなくていいよ」


 真は優しく言った。


「“分からない”から始めるのが……俺たちの関係なんだよ」


 未唯はゆっくりと顔を上げる。

 その瞳は揺れていたが、逃げてはいなかった。


「……広曽木くん」


「うん」


「分からないけど……

 わたし、広曽木くんと話す時間……嫌いじゃない」


 その言葉は、告白でも肯定でもない。

 しかし、そのどれよりも誠実で、重かった。


 真は静かに頷いた。


「俺もだよ」


 静かな朝の図書館で、二人は“好きの定義”の最初の地点に立った。

 まだ恋は始まっていない。

 でも──関係は確実に動き出していた。


 そしてこの瞬間、未唯は初めて

 “真の視線が快として立ち現れる”

 という、ごく小さな感情の変化を覚えていた。


 その変化は、彼女自身さえまだ気づいていない。

しかし、間違いなくそこに“存在”し始めていた。

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