ep. 69 真が“原因を特定したい執念”
原因という言葉を、俺はいつからこんなにも強迫的に追いかけるようになったのだろう。たぶん、未唯と出会ってからだ。いや、それより前、もっと幼い頃から「理由」を探す癖はあったのかもしれない。父の無言の圧力、母の沈黙の疲労、どちらにも「なぜ」が付属していた。俺にとって世界は「説明されるべきもの」で、理解できない現象は不安の源だった。
そして今、その対象は未唯になっている。
俺は、彼女の何に惹かれているのか。
その問いを、俺はずっと追ってきた。声のやわらかさか、目の奥の静けさか、貧困を背負いながらも崩れない誠実さか、カントを語るときの細い体からは想像できない力強さか。どれも理由として成立する気がするし、どれも決定打ではない気がする。
昼下がりの図書館で、俺は資料を閉じて溜息をついた。
未唯は向かいに座り、筆箱を手に持ったまま俺の表情をちらりと見て、首をかしげた。
「真くん、また悩んでる?」
その声音が、いつものように柔らかかった。指摘というより、ただ目の前の現象をそっと触るような言い方。
「……悩んでるっていうか、考えてるというか」
「好きの“原因”?」
「まあ、そんな感じ」
未唯は小さく息を吐いた。呆れとは違う、もっと深いところで肩の力を抜かせるような吐息だった。
「真くんって、どうしてそんなに原因にこだわるの?」
「だって、原因が分かれば整理できるだろ。論理的に理解できたら、振り回されずに……」
「振り回されずに?」
「……落ち着ける。感情ってさ、理由がないと不安だろ」
未唯はペン先を軽く机に置いた。
その動作だけで、俺は「あ、また言った」と気づく。
未唯は、言葉と沈黙で俺を導く人だ。
いまの沈黙は「真くん、そのまま続けていいよ」という沈黙だった。
「俺、説明できないものが怖いんだと思う。特に感情。機嫌とか、好意とか――そういう、形のないやつ。理由がわかれば、安心できる」
未唯は数秒考え、視線を落として、少しだけ笑った。
「真くんは、たぶん“好き”に構造を与えたいんだね」
言葉としては理解できる。
けれど俺の胸の奥をくすぐるような、不思議な言い回しだった。
「構造、か。……そうだな。構造があれば、因果があれば、全体像が把握できる。だから好きにも因果があるはずだって、思ってた」
未唯はゆっくり顔を上げ、俺を見た。
とてもやわらかく、だけど逃げ場を与えない視線。
「それって、真くんが“私を理解したい”ってこと?」
「そうだよ。理解したい。全部知りたいわけじゃなくて、俺が何に動かされてるのか知りたいんだ」
言いながら、自分でも驚くほど素直な言葉だった。
未唯の前だと、変に取り繕えない。
「でもね、真くん」
未唯は、言葉の重みを測るように間を置いた。
「好きには“原因”が重なっていくけど、《決定的な一つ》はないんだと思う」
「……契機の集合、だよな。前にも話したけど」
「うん。契機は重なるけど、ひとつに還元できない。私たちの生い立ちも、価値観も、顔も声も、授業態度も、たまたま隣に座ったことも――全部が“条件”になる。でもどれが“好きの決定因”かなんて、選べない」
俺はその言葉にすぐ反論しようとして、やめた。
未唯は視線を俺の胸元に落とし、ぽつりと言った。
「真くんは、自分が“未唯のどこを好きになったのか”を特定したいんでしょ? でも、それってたぶん……無理だよ」
「どうして?」
「だって、好きって結果だもん。前に話したよね。快と価値と関心の偏りの“結果”が好きなんだって。結果に“単一の原因”があるわけないよ」
ああ、そうか。
未唯は、俺の論理を逆手に取ってくる。
俺は、恋という現象の因果構造を探し続けて、
そのたびに未唯がふっと視界を揺らし、
俺の仮説を一歩先で笑いながら崩していく。
それが、苦しくて、気持ちいい。
「じゃあ……俺が原因を特定したがるのは、意味ない?」
「意味はあるよ」
未唯は強く否定しなかった。
むしろ、その表情に“肯定の火”が灯っていた。
「真くんの“原因を探す執念”は、私にはできないことだから」
「できない?」
「私は、原因を言語化するのが苦手だから。モヤモヤしたまま残る。でも真くんは、形がないものにも構造を見つけようとするでしょ? それ、すごいと思う」
不意に胸の奥が熱くなる。
未唯は俺の“欠点”だと思っていた部分を、肯定の言葉で包んできた。
「でもね、真くん。原因を探すときにひとつだけ気をつけてほしいことがある」
「なんだよ」
未唯は、俺の目の前で静かに手を組んだ。
その仕草は、祈っているようにも見えた。
「好きの原因を求めすぎると、“好きそのもの”を見失うよ」
「……どういうことだ?」
「原因って、“説明できる部分”しか扱えないでしょ? でも好きには、“説明できない部分”がある。むしろ、言葉にできない部分のほうが大きい」
未唯の声はとても静かだった。
図書館の空白に、溶けていくような静かさ。
「好きは、契機の重なりで生じるけど、契機だけでは説明しきれない。“因果”と“現象”のあいだに落ちる、余白みたいなものがある。その余白が、好きの本質なんじゃないかなって」
「……余白、か」
「うん。真くんは、その余白も“説明”しようとする。でも余白は説明しきれない。説明しきれないから、恋は成立する。私はそう思うよ」
俺は言葉を失った。
いつもロジックで先を行くのは俺だと思っていた。
なのに今、未唯に完全に追い抜かれた気がした。
「真くんの執念が悪いとは思わないよ。むしろ、好き。……あ、いや、その……そういう意味じゃなくて!」
そこで未唯は顔を赤らめ、慌ててノートに視線を落とした。
その仕草が可愛くて、胸がまた熱くなる。
「でもね、原因を全部特定しても、たぶん真くんは満足しない。だって、好きは説明の外側にあるんだもん」
俺はゆっくり息を吸った。
そして、自分でも驚くほど素直に彼女へ言った。
「俺は、原因を求めるのを完全にやめることはできないと思う。だけど――」
「だけど?」
「俺は、“余白”を怖がらずにいたい。未唯が言うその余白が、好きの本質に近いなら……俺はそこに手を伸ばしてみたい」
未唯は数秒黙り、そして微笑んだ。
それは、今までで一番やわらかく、深い笑みだった。
「……うん。真くんらしいね」
このとき俺は初めて、
“因果を探す執念”そのものが、
好きという現象を形作っていることに気づいた。
未唯を理解したい。
彼女の言葉、沈黙、価値、過去、痛み、優しさ――
その全部がどう作用して、俺の心を動かしているのかを知りたい。
その執念こそが、
たぶん俺の“好き”の核心なんだ。
そして、未唯がそれを肯定してくれたことに、
俺は気づかぬうちに、深く救われていた。




