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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第6章 好きの因果

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ep. 68 未唯の過去が作用する

 夕方の図書館は、いつもより静かだった。期末前でもないし、特別なイベントがあるわけでもない。ただ、窓の外で風が強く吹いているせいか、建物そのものがわずかに震えているように思えた。それが、目の前の彼女が抱えている沈黙とどこか共鳴しているように感じられて、俺は手元のノートを閉じた。


「真くん、さっきの……“好きには単一因果がない”って話、たぶんその通りなんだと思う」


 未唯がぽつりと言った。視線は机に落ちたまま動かない。指先がぎゅっとシャーペンを握りしめるたび、葉擦れのようなかすかな音がした。


「でもね……好きがどうして生じるのか考えると、私はどうしても、自分の過去のことを思い出しちゃうんだよ」


 その言葉が喉に引っかかった。

 これまで、未唯が自分の過去を語ることはほとんどなかった。いつも慎重で、必要以上に自分を開かない。明るく笑っていても、感情の深いところが水底みたいに隠れて見えなかった。


「……話してくれるのか?」


 そう聞いた俺の声は、思っていた以上に静かだった。誰かの過去を無理に聞き出すべきじゃないと知ってる。それでも、聞きたいと思ってしまった。


 未唯は少し肩を震わせ、弱く微笑んだ。


「話すっていうより……真くんの話と結びつけたら、少し分かった気がするの」


 彼女は深い息を吸い込み、ゆっくり吐きだした。

 まるで心の底に沈んでいた記憶を、一つずつ引き上げるような呼吸だった。


「私ね、小さい頃、ほとんど母と二人きりで育ったんだ。父は……まあ、いたけど、家計にはそこまで関わらなかった。お金の管理も、家の中のことも、全部母だった」


 その“全部”に含まれる重さを、俺は想像することしかできなかった。


「母は休みなく働いてて……私は、ずっと『お母さんを困らせちゃいけない』って、そればっかり考えてた。欲しいものを言ったことなんてほとんどない。欲望を抑えるのが当たり前だった」


 未唯が視線を上げた。

 その瞳に浮かぶものは、単なる回想じゃない。いまも形を変えて残っている傷跡のようだった。


「だから、“好き”って言葉……すごく困るんだよね」


「困る?」


「好きって、欲望とか感情とくっついてるでしょう? 何かが欲しい、何かを求めたいって。その“欲しい”が、私には本当に苦手で……怖いというか、いまだに扱い方が分からないんだ」


 俺は息を飲んだ。

 未唯にとって“好き”は、誰かを求める行為そのものが、生活史的な禁止事項と結びついていたのかもしれない。


「だから、真くんに“好き”って言われたとき……私、どうしても、感情だけで動いてるように見えて……」


 言いながら、未唯は胸元に手を当てた。


「私の世界では、感情で動く人はいつも……誰かを困らせてたから」


 それを聞いた瞬間、俺の胸の奥でなにかがひび割れた。


 俺が“好き”だと伝えたとき、未唯の表情が曇った理由。

 それを思い返すたび、俺は自分の未熟さに気づく。


 彼女にとって“好き”は、俺が思う以上に重い。

 自由な気持ちの発露なんかじゃなく、誰かが責任を負わされる予兆みたいに映ったのかもしれない。


「俺が……負担になったんだな」


「違うよ、真くん。」


 即座に否定した未唯の声は強かった。

 けれどそのあと、悲しそうに言葉が続く。


「ただね……私が“好き”って言うと、お母さんが倒れちゃうんじゃないかって、どこかで思ってしまうの」


 その比喩に、俺は言葉を失った。

 “欲望”の代償を、幼い頃からずっと母に背負わせてきてしまったという負い目。

 好きという言葉が母の疲労や負担と結びついているなんて、俺には想像もできなかった。


 机の上で、俺はそっと手を伸ばした。

 彼女の手に触れることはしなかった。ただ、距離の近い場所まで手を置いた。それを見た未唯は驚いたように目を瞬かせ、そのあと少しだけ表情を緩めた。


「真くん……なんで手を伸ばすの?」


「俺が今できる契機は、それくらいだと思ったからだよ」


「契機?」


「そう。未唯にとって好きが怖いなら……俺がまず、“怖くないもの”として目の前にいる必要があるんだろうなって」


 未唯は目を伏せ、くすっと笑った。


「真くんって、そういうところ……本当にずるいよね」


「ずるい?」


「なんか……ちゃんと考えてくれるから。」


 その笑いは、どこか照れくさそうで、でもあたたかかった。


 沈黙が落ちる。

 けれど、その沈黙は重くなかった。

 むしろ、未唯の過去を通して、彼女の心の奥底の層が、ひとつ、俺に向かって開かれたような感覚があった。


「真くん……。私ね、ずっと“好きは自由な感情”だって思ってた。だから、自由に生きられない私には持っちゃいけないって、無意識で決めてたんだと思う」


 未唯は胸元を押さえながら、ゆっくり続けた。


「でも今日、真くんの話を聞いて……“好きの原因”って、きっと一つじゃないって、ちゃんと分かった。私が“好きの感情を持てなかった理由”も、ただの欠陥じゃなくて、“過去”という条件の一つだったんだって」


 それは“理解”だった。

 そして、ほんの少しの“自己受容”でもあった。


「未唯の過去は……未唯が悪いわけじゃないだろ」


 俺がそう言うと、未唯は小さくうなずいた。


「うん。でもね、過去が私を縛ってるって思うと、真くんみたいに誰かを好きになることが……すごく怖かった」


「今は?」


「……少し、変わったかもしれない。」


 未唯は頬をほんのりと赤くした。

 その変化は、たぶん俺にしか気づけない。

 でも確かにそこには、小さな芽のようなものがあった。


「真くんのせいだよ」


「俺のせい?」


「うん。真くんが……“原因を特定できない好き”を追いかけすぎるから。」


 未唯は微笑む。


「でも、そんな真くんだからこそ……私は“好きの再定義”を、少しだけ信じてみようかなって思えるんだよ」


 胸の奥がじんわり熱くなる。

 好きの因果が単一じゃないように、

 未唯が俺を理解するプロセスも単線じゃない。

 そしてその“多原因の重なり”が、いま確かに、俺の前で形になりつつあった。


「未唯。俺は……」


「言わなくていいよ、真くん。今はまだ。」


 未唯は顔を上げ、やさしく笑った。


「でもね、“好きは定義できない”って前に思ってたけど……もしかしたら、誰かと一緒なら、定義に近づけるのかもしれないね」


 それは、

 彼女が初めて“俺との共同作業”を肯定してくれた瞬間だった。

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