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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第6章 好きの因果

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ep. 66 美的快の役割

 未唯と俺の間で「好きの因果」をめぐる議論が続いていると、自然と話題は「美しさ」という、より曖昧で、けれども誰もが一度は感じたことのある契機へと流れ込んでいった。


 授業が終わった午後、俺たちはキャンパスの中庭にあるベンチに並んで座っていた。秋の風が乾いて、心地よい冷たさを頬に触れさせる。落ち葉が芝生に散らばり、ひっそりと季節の移ろいを告げていた。


「真くんは……美しいって、どういうことだと思う?」


 未唯は突然そう問いかけた。ノートも開いていない。ただ、両手を膝に置いたまま、風を見つめるようにしている。


「美しい、か……」

 俺は少し言葉を選んだ。

「理屈抜きで“いい”って感じること……じゃないか?」


 未唯は小さく首を振る。


「ううん。私は、全部がそんなに単純じゃない気がしてる。カントは、美の快は“利害から自由”って言うよね。だから、美的快は他の快楽とは違って、主観的だけど、どこか普遍性の要請をしてくる。まるで、誰もが同じように感じるはずだって……そう思わせる。」


「たしかに……」

 俺は未唯の横顔を見ながら答えた。

「絵を見て『これ好きないわ』って思っても、誰かに“いや、この美しさは普遍的なんだよ”と力説されたりすることって、あるよな。」


「でしょ。美って、すごく強引なんだよ。主観的なのに、なぜか自分の感覚が“みんなもそうであるべき”って言ってしまうの。」


 未唯の言葉には、どこか嬉しそうな響きがあった。カントの話になると、彼女は本当に生き生きする。俺はその様子が自然と胸に沁みるのを感じた。


「でもさ、美的快って……恋にも関係あると思わない?」

 俺は恐る恐る切り出してみた。


 未唯は少し驚いたように目を見開き、それから少しだけ困ったように笑った。


「……ある、と思うよ。たぶん。だって、人を見たときに『きれい』って思う瞬間って、その人の価値評価より先に生まれてる気がするから。」


 俺は続けた。


「例えば、未唯を見て……最初に俺が“いいな”って思った瞬間。あれは、価値とか性格とか、どんな人かなんて全然知らなくて……ただ、立ち姿とか、声のトーンとか、表情が“美しい”って感じた。それだけだった。」


 未唯はうつむき、両手をぎゅっと握った。


「……言わなくていいよ、そういうの。」


「でも、美的快って、好きの契機にはなってるだろ?」


「……うん。でも、それは因果の一つだと思う。単一原因じゃなくて、たくさんある契機の一つ。」


 未唯は静かに息を吸い、言葉を続けた。


「美的快ってね、普遍化を要求してくるの。“この美しさは、誰にとってもそうであるべき”って。でも、それは違うんだよね。本当はすごく主観的な反応で、その瞬間の気温とか、疲れとか、照明の角度とか……いろんな偶然に左右されている。」


「そう考えると、人の外見を見た瞬間の“美しい”って感覚も、けっこう偶然の産物なんだな。」


「うん。だから、真くんが最初に私を“美しい”って思ったのも、偶然の一つなんじゃないかな。もちろん否定してるんじゃなくて……その偶然も含めて、価値の判断に重なったり、感情の契機になるってこと。」


「……契機か。」


 俺はその言葉を反芻した。

 “契機”という概念は、単一因果を否定する第6章全体のテーマにもぴったり重なる。


「俺……未唯のことを美しいって思ったのは、偶然だとしても、それが全部じゃない。そこから話して、笑って、議論して……それで“美しい”が別の意味を持ち始めたんだよ。」


 未唯は頬をわずかに染めた。


「それは……美的快から価値承認へ移る道のこと、だよね。」


「たぶん、そうかもしれない。」


 俺は正直に言った。

 最初はただの“美的快”だった。でも、それが未唯の性格や思考、価値観と繋がっていくことで、たしかに別の次元へ移った。


「真くんは、外見の美しさと、内面の価値って……どうやって区別してる?」


「してない。区別できないと言った方が近いかな。というより、区別しようとしても……いつの間にか結びついてしまう。」


「そういうふうに考えるの……真くんらしい。」


 未唯はやわらかく笑った。

 その笑顔は、美しい、と俺に思わせた。

 美的快の瞬間だった。


 だが次の瞬間、未唯は真剣な表情に戻る。


「でもね、私……美しさって、人が一番誤解しやすい要素だと思うの。外見の美しさは、一番最初に心を揺らす強い契機なのに、それが好きの“本質”だと錯覚しやすいから。」


「たしかに。見た目だけを好きだと思いこんで、その後の関係が続かないってパターン、よく聞くもんな。」


「うん。“美しい”は、好きの理由じゃなくて……好きが始まるための、一つの契機にすぎない。しかもすごく偶発的な。」


「でも、契機としては強いよな。」


「うん。だからこそ、危ないんだよ。強すぎるから、勘違いしやすい。」


 未唯はため息のようにゆっくり息を吐いた。


「真くんが、私を好きって言ったとき……私、すごく戸惑ったんだ。だって、“美的快”と“価値承認”と“感情”が全部混ざった状態で渡されて……どれがどれだか、わからなくなったから。」


「……ごめん。」


「違うよ。責めてない。むしろ……あれは、真くんが真くんである証拠だと思った。」


「どういう意味?」


「真くんは、美的快をすごく素直に受け取る人なんだと思う。美しいと思ったら、美しいと感じる。その感じたことを隠さない。だから、私を“美しい”と感じたことも、全部そのまま真くんの中で大事になってしまった。」


 俺は返す言葉を見つけられず、視線を落とす。

 未唯は続けた。


「私はね、美しさって……怖いの。だって、それだけで相手が揺れることがある。自分じゃない“外側”が勝手に誰かの心を動かしてしまう。」


「……未唯。」


「だから、真くんが“美しい”って言ってくれた時も……少しだけ怖かった。私じゃなくて、私の“外”が真くんの心を動かしたんじゃないかって。」


 その言葉は、俺の胸の奥に深く沈んだ。

 未唯にとって、美的快は喜びと同時に恐れの契機でもあったのだ。


「でもね……」

 未唯は小さく息を吸い込んだ。


「最近、思えるようになってきたの。真くんの言う“美しい”は……外見のことだけじゃなくて、私の考え方とか、弱さとか、努力とか……そういうもの全部が結びついて、変化していった言葉なんだって。」


「……そうだよ。」


「だから、美的快は最初の契機。でも……それだけじゃ終わらないものなんだよね。」


 風が吹き、未唯の髪を揺らした。

 俺はその一瞬を、美しい、と感じた。

 けれど、それはもう単なる外見の反応ではなかった。


 未唯の声、その考え方、怖がりながらも誠実に言葉を紡ごうとする姿――

 それら全部が、俺の中でひとつにまとまり、“美しい”という意味を変えていた。


 未唯は最後に、少しだけ照れたように言った。


「美的快って……真くんと話してると、すごく複雑なんだね。でも……悪くない複雑さだと思う。」


「それ、ほめてる?」


「うん。ほめてるよ。」


 その一言に、俺の心は、確かに快を感じていた。

 美的快が、価値承認に繋がり、関係の深まりの契機になっていく――

 その流れを、俺たちは今、まさに対話の中で確かめているのだった。


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