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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第6章 好きの因果

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ep. 65 偶発性の役割

 偶然、という言葉ほど、恋愛と相性の良い概念はないかもしれない。俺はその日、図書館のいつもの席にいた。木目の机の端に、読みかけのシュトラウスの本とノートを広げたまま、ただぼんやりと窓の方を眺めていた。秋の光が差し込み、埃がきらきらと漂っている。それ自体はよくある風景だ。だが、その風景の中をひょいと横切った影が、俺の注意のすべてを奪っていった。


「……真くん?」


 未唯だった。

 なんでもないタイミングで、なんでもない歩き方で、ただそこに現れただけだ。何の前触れもない。俺の視界がほんの少しだけずれた結果、そこに彼女がいた。


 それだけのことだった。


 だが、俺は思った。

 ──これを 偶然 と呼ぶなら、好きの半分くらいは偶然で決まってしまうのではないか。


「授業、終わったのか?」


「うん。今日は倫理学史の講義でね……なんかちょっと疲れちゃった」


 未唯はそう言って、俺の向かいに座る。ほんの数秒前まで俺の世界には存在していなかったのに、座った瞬間から、俺の全視界の中心に滑り込んでくる。

 その変化の急激さに、俺はまだ慣れないでいる。


「真くんは何読んでたの?」


「ん? ああ……シュトラウス。ヘーゲル研究のやつ。まあ……気分転換みたいなものだな」


「気分転換にヘーゲル?」


「いや……確かに言われてみると気分転換になってないかもな」


 未唯がクスッと笑う。その一瞬の笑い声に、俺の注意はすべて持っていかれる。

 ここでようやく気づく。

 ──俺が未唯を特別に感じている理由の一つは、「出会うタイミングが絶妙すぎる」ということだ。


 授業終わり。夕方。光の角度。図書館の静けさ。

 それらが揃った“瞬間”に未唯が現れると、ただそれだけで、好きの輪郭は濃くなる。


 これはどう説明すればいいのか。

 価値でも、快でも、関心でもない。

 ただの“出来事”だ。

 だけど、その出来事が心の底に沈んでいって、あとからじわじわと積み重なっていく。


「真くん?」


「あ、悪い。ちょっと考えごと」


「また難しいこと考えてたでしょ?」


「……まあ、好きの因果の話だな」


「さっき言ってた“偶発性”の?」


「そう。好きって、偶然の積み重ねなんじゃないかって思って」


 未唯は少し首をかしげる。

 彼女の癖だ。分からないとすぐに軽く傾く。

 この仕草も、出会った頃は気にも留めなかったのに、今は気にならずにいられない。


「偶然って……どういうこと?」


「こうやって、たまたま図書館で会うとか。たまたま席が空いてるとか。たまたま話す時間があるとか。全部、もし少しでもずれてたら起きなかったことだろ?」


「……うん、分かるよ」


「好きって、そういう“一瞬の条件”の積み重ねで生じる気がしてさ。何か一つ欠けたら、もしかしたら俺は未唯に惹かれなかったかもしれない」


 未唯が、驚いたように目を見開いた。


「……それ、なんか少し、さみしいね」


「いや、違う。逆だ」


 俺は慌てて続ける。


「偶然が積み重なって、そこから好きが生まれたってことは──その全部が意味を持ってるってことなんだ。偶然が“理由”に変わっていく、というか」


「意味……?」


「ああ。俺にとっては、偶然も全部、好きの“契機”だったってこと」


 未唯は静かにうつむく。

 その横顔に、秋の光が斜めに差し込む。

 俺はその瞬間を見て、胸の奥で温かいものが少しだけ膨らんだ。


「たとえばさ」

 未唯が、ぽつりと言う。


「わたしが疲れて図書館に来たのも偶然で……でも、真くんがここにいてくれたことも偶然で……」


「うん」


「そういうのって、確かに理由ではないけど……でも、優しさっていうか、安心にはつながってる気がする」


「……未唯」


「わたし、好きとかは分からないけど……偶然であっても、嬉しいことはあるんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は思った。

 ──偶然は因果になりうる。

 偶然の“出来事”が、心の奥で“意味”に転換される瞬間が確かにある。


「真くん」


「ん?」


「もし今日、ここで会わなかったら……わたし、ひとりで落ち込んでたと思う」


「授業で疲れたのか?」


「それもあるけど……うまく理解できなくて。なんかこう……世界が曖昧に見える時ってあるんだよね」


「……わかる」


「でも、真くんと話すと、ちょっとはっきりするんだよね。不思議」


 それは俺にとって、あまりにも大きな言葉だった。

 未唯が俺に向ける言葉はいつも端的で、飾らない。

 だからこそ、胸の奥にまっすぐ刺さる。


「……それも偶然の産物かもな」


「うん。でも、偶然でも、わたしはこういうの……嫌いじゃないよ?」


 未唯は小さく笑う。

 その笑顔が、胸の奥の何かを決定的に揺らした。


 ──偶然が重なると、必然のように感じてしまう。


 好きの原因を特定しようとしていた俺は、ここで初めて認める。

 好きの“契機(Momente)”には、偶然の連続が含まれている。

 その偶然一つひとつが、自分でも気づかないうちに価値へと変換されていく。


 そして、その変換のプロセスこそが、好きの正体の一部なのかもしれない。


「じゃあ……もう少しだけ話そうか」


 未唯が言う。


「真くんと話す偶然が、わたしにとってどう変わっていくのか……自分で見てみたい気がするから」


 その言葉に、俺は静かにうなずいた。

 偶然は、いつの間にか必然へ向かう。

 そう思わせてくれる時間が、確かにここにあった。

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