ep. 65 偶発性の役割
偶然、という言葉ほど、恋愛と相性の良い概念はないかもしれない。俺はその日、図書館のいつもの席にいた。木目の机の端に、読みかけのシュトラウスの本とノートを広げたまま、ただぼんやりと窓の方を眺めていた。秋の光が差し込み、埃がきらきらと漂っている。それ自体はよくある風景だ。だが、その風景の中をひょいと横切った影が、俺の注意のすべてを奪っていった。
「……真くん?」
未唯だった。
なんでもないタイミングで、なんでもない歩き方で、ただそこに現れただけだ。何の前触れもない。俺の視界がほんの少しだけずれた結果、そこに彼女がいた。
それだけのことだった。
だが、俺は思った。
──これを 偶然 と呼ぶなら、好きの半分くらいは偶然で決まってしまうのではないか。
「授業、終わったのか?」
「うん。今日は倫理学史の講義でね……なんかちょっと疲れちゃった」
未唯はそう言って、俺の向かいに座る。ほんの数秒前まで俺の世界には存在していなかったのに、座った瞬間から、俺の全視界の中心に滑り込んでくる。
その変化の急激さに、俺はまだ慣れないでいる。
「真くんは何読んでたの?」
「ん? ああ……シュトラウス。ヘーゲル研究のやつ。まあ……気分転換みたいなものだな」
「気分転換にヘーゲル?」
「いや……確かに言われてみると気分転換になってないかもな」
未唯がクスッと笑う。その一瞬の笑い声に、俺の注意はすべて持っていかれる。
ここでようやく気づく。
──俺が未唯を特別に感じている理由の一つは、「出会うタイミングが絶妙すぎる」ということだ。
授業終わり。夕方。光の角度。図書館の静けさ。
それらが揃った“瞬間”に未唯が現れると、ただそれだけで、好きの輪郭は濃くなる。
これはどう説明すればいいのか。
価値でも、快でも、関心でもない。
ただの“出来事”だ。
だけど、その出来事が心の底に沈んでいって、あとからじわじわと積み重なっていく。
「真くん?」
「あ、悪い。ちょっと考えごと」
「また難しいこと考えてたでしょ?」
「……まあ、好きの因果の話だな」
「さっき言ってた“偶発性”の?」
「そう。好きって、偶然の積み重ねなんじゃないかって思って」
未唯は少し首をかしげる。
彼女の癖だ。分からないとすぐに軽く傾く。
この仕草も、出会った頃は気にも留めなかったのに、今は気にならずにいられない。
「偶然って……どういうこと?」
「こうやって、たまたま図書館で会うとか。たまたま席が空いてるとか。たまたま話す時間があるとか。全部、もし少しでもずれてたら起きなかったことだろ?」
「……うん、分かるよ」
「好きって、そういう“一瞬の条件”の積み重ねで生じる気がしてさ。何か一つ欠けたら、もしかしたら俺は未唯に惹かれなかったかもしれない」
未唯が、驚いたように目を見開いた。
「……それ、なんか少し、さみしいね」
「いや、違う。逆だ」
俺は慌てて続ける。
「偶然が積み重なって、そこから好きが生まれたってことは──その全部が意味を持ってるってことなんだ。偶然が“理由”に変わっていく、というか」
「意味……?」
「ああ。俺にとっては、偶然も全部、好きの“契機”だったってこと」
未唯は静かにうつむく。
その横顔に、秋の光が斜めに差し込む。
俺はその瞬間を見て、胸の奥で温かいものが少しだけ膨らんだ。
「たとえばさ」
未唯が、ぽつりと言う。
「わたしが疲れて図書館に来たのも偶然で……でも、真くんがここにいてくれたことも偶然で……」
「うん」
「そういうのって、確かに理由ではないけど……でも、優しさっていうか、安心にはつながってる気がする」
「……未唯」
「わたし、好きとかは分からないけど……偶然であっても、嬉しいことはあるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思った。
──偶然は因果になりうる。
偶然の“出来事”が、心の奥で“意味”に転換される瞬間が確かにある。
「真くん」
「ん?」
「もし今日、ここで会わなかったら……わたし、ひとりで落ち込んでたと思う」
「授業で疲れたのか?」
「それもあるけど……うまく理解できなくて。なんかこう……世界が曖昧に見える時ってあるんだよね」
「……わかる」
「でも、真くんと話すと、ちょっとはっきりするんだよね。不思議」
それは俺にとって、あまりにも大きな言葉だった。
未唯が俺に向ける言葉はいつも端的で、飾らない。
だからこそ、胸の奥にまっすぐ刺さる。
「……それも偶然の産物かもな」
「うん。でも、偶然でも、わたしはこういうの……嫌いじゃないよ?」
未唯は小さく笑う。
その笑顔が、胸の奥の何かを決定的に揺らした。
──偶然が重なると、必然のように感じてしまう。
好きの原因を特定しようとしていた俺は、ここで初めて認める。
好きの“契機(Momente)”には、偶然の連続が含まれている。
その偶然一つひとつが、自分でも気づかないうちに価値へと変換されていく。
そして、その変換のプロセスこそが、好きの正体の一部なのかもしれない。
「じゃあ……もう少しだけ話そうか」
未唯が言う。
「真くんと話す偶然が、わたしにとってどう変わっていくのか……自分で見てみたい気がするから」
その言葉に、俺は静かにうなずいた。
偶然は、いつの間にか必然へ向かう。
そう思わせてくれる時間が、確かにここにあった。




