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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第6章 好きの因果

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ep. 62 契機の多元性

 「好きの原因を一つに絞るなんて、そもそも無理なんだよ、真くん」


 未唯がそう言ったとき、俺は言葉を失った。

 それは否定というよりも、あまりに自然に置かれた事実の確認だった。

 まるで「夕日は沈むよね」と同じような、変わりようのない真理であるかのように。


 その日の昼下がり、大学図書館の五階、哲学書のフロアの一番端。

 人がほとんど来ない旧版全集の書架の横で、俺たちは小声で議論を続けていた。

 カントの全集が背表紙を並べ、ミルやヒュームやアリストテレスの分厚い本が俺の背中を支えていた。

 けれども、未唯の言葉だけはそれらの本よりも重たかった。


「……無理って、どういう意味で?」


 俺は聞き返した。

 好きには必ず原因がある――そう考える俺のほうが少数派なのだろうか。

 あるいは、俺が未唯を好きになった瞬間の記憶を無理に因果で説明しようとしているだけなのか。

 その焦りが自分でもわかるほど声ににじんでいた。


 未唯は少しだけ考えるように視線を下へ向け、それから顔を上げた。


「だってさ、真くん。人を好きになるって……一つの“因果”じゃなくて、複数の“契機”が積み重なって生まれるんだと思うの」


 契機――その語を未唯が口にするたび、俺の心は微妙にざわついた。

 あの夜、未唯に告白して振られたとき、俺は「原因」を探し続けて疲弊した。

 原因を見つければ、振られた理由も、好きになった理由も、綺麗に整理できると信じていた。

 原因さえわかれば、対処の仕方が見つかる気がした。


 でも未唯は言う。


「例えばね……」


 未唯は指を折りながら、淡々と挙げていった。


「声の雰囲気とか、話すテンポとか、表情とか、そのときの自分の気分とか。

 それから、過去の経験や、価値観の重なり、ちょっとした偶然。

 どれか一つ欠けても成立しないわけじゃなくて、むしろ全部が“契機”として積まれていって……それがある瞬間に閾値を超える感じ」


「閾値……」


 俺が呟くと、未唯は小さく頷く。


「そう。“契機”の累積なんだよ。

 一個で人を好きになるんじゃなくて、複数の微小な要因が重なって、あるとき突然“好き”として現れる。

 だから、単一因果で説明しようとすると、必ずどこかで破綻しちゃう」


 未唯の言葉は、俺の論理の隙間に入り込んでくる。

 それは感情論ではなく、分析として整っていた。

 未唯自身、自分が“好き”を理解できていないと言いながらも、こういう構造的な説明になるとやたらと鋭い。


「じゃあ……あのとき、俺が未唯を好きになったのも?」


「もちろん、同じ。真くんが感じた“好き”にもたくさんの契機があったはずだよ」


「……でも俺は自分で“これだ”って思う瞬間があった」


「その瞬間の裏には、気づいてない契機が山ほどあるんだよ」


 未唯は柔らかく微笑んだ。

 けれどもその笑みは慰めではなく、俺の理解不足を淡く指摘するような優しい厳しさを含んでいた。


「例えばね、真くんがあの日、私と話した“場所”も契機なんだよ」


「場所?」


「うん。人は環境の影響をすごく受けるから。

 夕方の光や、教室の静けさとか、真くんのその日の疲れ具合とか。

 そういうのも全部、感情の立ち上がりに影響してるんだよ」


 言われてみれば、確かに思い当たる。

 あの日、俺は未唯と初めて長く話した。

 夕暮れの薄いオレンジの光が教室に差し込んでいて、俺たちの影は長かった。

 未唯の横顔が妙に優しく見えたのも、その光のせいだ。


 光の角度。

 風の匂い。

 未唯が袖を少し巻いていたこと。

 黒髪を片側にかけ直した仕草。


 全部、俺の中で「好き」に向かう小さな契機だったのだろう。


「真くんは“原因”を特定したいんだよね」


「……まあ、そうだな。俺は割と、理屈で整理したいタイプだから」


「それはすごく真くんらしいし、悪いことじゃないよ。でも……好きはその整理を裏切るんだよ」


「裏切る?」


「うん。好きは因果じゃなくて現象だから」


 また“現象”だ。

 第1章でも未唯は自分のことを“現象”として俺に見せた。

 その言葉の使い方は、彼女のカント的な世界理解に基づいているのだろう。


「現象っていうのは、因果を超えて立ち上がる“結果そのもの”なんだよ。

 契機はあるけど、どれか一つが決定打じゃない。

 全部が“一緒になって”生まれるのが好きなの」


「……だから、原因を一つに求めるのは間違い?」


「間違いじゃないけど、たぶん“本質を逃す”と思う」


 未唯の表情は柔らかいけれど、その言葉は容赦がなかった。

 俺の探し求める“因果の一点”は、未唯の理解では“好きの本質”からずれているらしい。


「じゃあ聞くけど、未唯。

 お前が俺を……いや、まだ好きじゃないとしても、俺を“特別扱いしない理由”はなんだ?

 その“契機”の積み重ねみたいなものは……未唯の中にはないのか?」


 未唯は一瞬だけ驚いた顔をした。

 けれども、すぐに視線を軽く伏せた。


「契機がないわけじゃ、ないよ」


 その答えは、俺の心臓をわずかに跳ねさせた。

 まるで普段閉ざされている扉の隙間から、細い光が差し込んだように。


「でも……積み重なっても、“好き”の閾値にはまだ届いてないだけ」


「……届いてない、か」


「うん。でも契機はある。

 真くんの言葉の選び方とか、議論のときにちゃんと聞いてくれる姿勢とか……。

 そういうのは、確かに契機になるよ」


 未唯が俺を見た。

 その視線は、以前より少しだけ長くそこに留まった。


「だからね、真くん。

 好きの原因を一つに求めるより、私は……その契機を“増やす”ほうが大事なんだと思う」


 “増やす”。

 その単語は俺の胸に深く沈み込んだ。


「未唯……それってさ……」


「勘違いしないでね。

 契機が増えるからといって、好きになる保証なんてどこにもないよ。

 でも、もし好きが生まれるなら、そのときはその契機たちのおかげなんだよ」


 好きは因果ではなく、現象。

 契機はあるけれど、そのどれかが決定しているわけではない。

 積み重なって、ある瞬間に立ち上がる。


 俺の思考は、静かに、しかし確実に更新されつつあった。


 好きは説明できないものではない。

 ただ、単一の理由で語れるほど単純でもない。


 未唯が言う。


「真くんが私を好きになった理由は、“一個じゃない”んだよ。

 それを全部ちゃんと見ようとしたら……もっと真くんの気持ちは深くなると思う」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 深くなる。

 未唯は、俺が自分の感情をもっと深く理解することを望んでいるのかもしれない。


 この瞬間、俺は初めて“原因探し”ではなく、“契機の意味”という方向へ歩き始めた。

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