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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第6章 好きの因果

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ep. 61 単一因果説の否定

晩秋の大学は、風の色まで落ち着いて見える。木々の葉が細かく震える音が、講義棟の廊下にまで微かに届く。こういう季節になると、俺は決まって“原因”という言葉を考えたくなる。世界がゆっくり変化していく背後には、必ず理由や法則があるように感じるからだ。哲学科の悪い癖と言われればそれまでだが──原因の地図を描こうとする姿勢は、俺の性に合っていた。


今日も未唯と“好きの定義会議”は続いている。大学生が昼下がりにこんな議論をしているという事実を、もし他学部の学生が知ったら笑うかもしれない。でも俺たちにとっては、むしろこの議論こそが生活の中心にある出来事だった。


「真くんって、なんでも“原因”から考えようとするよね」


未唯が言った。講義棟裏のベンチに腰掛けたまま、ノートも開かず、ただペットボトルの水のキャップをいじっている。相変わらず視線は揺れていて、意識が一点に定まらない。その落ち着かなさが、むしろ未唯らしい。


「原因を考えるのは癖だよ。19世紀哲学って“因果ネットワークの整理”みたいなもんだし」


「でも、“好き”に単一の原因があると、真くんは思ってるんでしょ?」


未唯の声は、柔らかいのにどこか刺さった。

図星だからだ。


俺は好きという現象を単純化したかった。

“これが原因で好きになる”という一本の線があれば、混乱せずに済む。

未唯のことを好きになった理由も、一つに特定できれば──拒絶されたときのショックも、多少は整理しやすかっただろう。


「……できれば、ひとつであってほしいと思ってる」


正直に言った。


未唯は目を細め、ほんの少しだけ微笑む。

その微笑みには、俺より一歩前にいる人間だけが持つ、理解の余裕があった。


「でも、好きって“つくられる”ものでしょ? だったら──」


言いかけて、未唯は言葉を探すように空を見た。


「──ひとつの理由じゃ説明できないんじゃないかな」


曖昧な表現だけれど、その曖昧さこそが未唯の強さだった。

一つに決まらないものを、無理に決めつけない。

決められない状態そのものを受け入れる。

彼女はその態度でいつも俺を揺さぶる。


俺は少し反論したくなった。


「でも、好きになる瞬間ってあるだろ? ある一言とか、ある出来事とか。そういうのが“引き金”じゃないのか?」


「“引き金”と“原因”は違うよ」


未唯は即答した。


「引き金は、“最後の一押し”っていうだけで、それ以前に積み重なってる要素があるんだよ。……真くん、因果を一本の線だと思うから苦しむんだと思う」


一本の線。

その言い方は、俺が内心で考えていた比喩と同じだった。


「じゃあ、どう捉えればいい?」


そう聞くと、未唯は少し躊躇するように眉を寄せた。でも次の瞬間、彼女はふっと息を吐き、ゆっくりと俺を見た。


「……“契機”って言葉、知ってる?」


「19世紀哲学で出てくるやつか」


「うん。それ」


未唯はベンチに置いた水を両手で包みながら、まるで大事な宝物を扱うみたいに慎重に言葉を続けた。


「好きって、“一本の因果”じゃなくて、いくつもの“契機”の集合なんじゃないかな。条件が重なって、関係が形づくられて、感情が芽生えていく。……そういう現象だと思う」


その説明を聞いた瞬間、俺の中で何かが軽く鳴った。

カチリ、と音を立ててハマった。


単一因果ではなく、“契機”。

それなら、未唯に惹かれた理由を一つに特定できないことにも説明がつく。


「たとえば?」


俺が続きを促すと、未唯は指を折りながら静かに言葉を並べた。


「相手の性格、話し方、考え方、距離感、生活史、偶然の出会い、その日の気温、声のトーン……。それら全部が重なって、その瞬間だけの関係が作られて……好きって生まれるんだと思う」


「……ずいぶん複雑だな」


「複雑だよ。だから真くんは“好きの原因は何か”って悩むんだと思う」


真正面から言われて、俺は苦笑いした。


「たしかに俺は単純化したがる。でも……“契機”って考え方、悪くないな」


「うん。私もそう思う」


未唯はそう言って微笑む。

その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で何かがゆっくり温かく広がった。


──ただ、それも“契機”のひとつなんだろう。


笑った未唯を見て、胸が温かくなる。

その温度がまた別の“契機”となって

次の感情の層をつくっていく。


「じゃあ結論として、俺の“好きの原因”を一つに特定しようとしていた考え方は──」


「たぶん、間違いだよ」


未唯はきっぱりと言った。


でも、その否定は優しかった。

俺を切り捨てる否定ではなく、

俺を前に進ませようとする否定だった。


「ねえ真くん。

好きに“単一原因”を求めるのって、

“世界は単純に説明できる”って信じたいからだよね?」


「……まぁ、そうだな。俺は整理したいんだよ。複雑なまま抱えるのが苦手だから」


「ふふ、真くんらしい」


未唯は嬉しそうに笑った。


「でもね、複雑なものを複雑なまま理解しようとするのが哲学じゃないかな。──私も全然できてないけど」


その言葉に、俺は少しだけ息を呑んだ。


未唯は時々、俺より哲学者みたいなことを言う。

カントを扱っているからか、

あるいは彼女の生き方そのものが、

理論よりも先に“現実の倫理”に触れてきたからか。


「つまり、好きには単一因果はない。“契機”の集合体だと」


「うん。そうだと思う」


「……わかった。じゃあ、俺の“未唯を好きになった原因”も──」


「“たくさんの“契機”が重なった結果”だよ」


未唯の声は小さく、でも確信に満ちていた。


それを聞いた瞬間、

俺の中で固まっていた何かが静かにほどけた。

“なぜ好きになったのか”という問いに、

決して一つの答えを与えられなくてもいい。


未唯がそこにいて、

彼女の声があって、

彼女の表情があって、

彼女の過去があって、

季節があって、

俺の性質があって、

お互いの時間が交差して──


それらの“契機”が重なって、

ただ“好きになった”。


それで十分なのかもしれない。


「……ありがとう、未唯」


俺がそう言うと、未唯は少しだけ驚いた顔をしたあと、

どこか照れたように視線を逸らした。


「なに、急に」


「いや。単一原因じゃなくてもいいって気づいたら……ちょっと楽になった」


未唯は黙っていた。

代わりに、風が銀杏の葉を揺らし、

落ちていく光の粒が足元に散った。


俺はその光を見る。

それもまた、ひとつの“契機”になる。


そして、未唯もまた小さく呟いた。


「……私もね、真くんを見てると、

なんでかわからないけど、ちょっと落ち着くときがあるよ」


その言葉が、この章を締めくくる

最後の“契機”になった。


──因果ではなく、“契機”。

好きは、複数の契機が重なって生まれる現象である。

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