ep. 60 好きの定義が一歩前進
夜の学食は、いつもより静かだった。閉店間際の蛍光灯が少しだけ薄暗くて、その陰影の中で俺たちは向かい合っていた。夏休み前の時期で、試験もレポートも近く、キャンパス全体が少し張り詰めた空気に包まれている。だがその緊張とは別に、俺と未唯のあいだには、もっと別種の緊張があった。
さっきまで俺たちが議論していたのは、「好き」という現象がなぜこんなにも複雑になるのか、というテーマだった。性的欲望、利他性、未来志向、独占欲、行動傾向――それらが全部“好き”の派生形であっても、“核”ではないということ。そして俺は“母概念としての好き”を提示し、そこに未唯が微かに揺れた。
その続きを、俺たちはまだ整理しきれていなかった。
「真くん、さっきの話……まだ私、全部ちゃんと理解できてるわけじゃないんだけどね」
未唯はそう言って、紙コップを両手で包んだ。中身はもうぬるくなったミルクティーだ。
「でも、“好きが枝分かれする”っていう考え方そのものには、確かに納得できるところがある。快とか、価値承認とか、関心の偏りとか……その全部が絡まって一つの現象になってるっていうのは、なんとなくわかる気がする」
「うん。全部が“側面”なだけで、“本体”じゃないってことだな」
「そう。だから……どれが本当の好きなんだろうって悩むのは、そもそも問いの立て方が違ってたんだって、少し思ったの」
未唯はそう言って、ふっと息をついた。机に置いたペンがわずかに転がった。
「でもね、真くん。じゃあ……“本体”って何?」
その質問は、真正面からぶつかってくる。逃げ道はない。俺がずっと考えていた核心だ。
「……本体は、核だ。たぶん三つある」
「三つ?」
「快の感情、価値の承認、そして関心の偏り。この三つが同時に起きてる状態を、人は“好き”って呼んでるんだと思う」
未唯の目が一瞬だけ揺れた。何かを計算するみたいに、ゆっくり瞬きをした。
「快と価値はわかるよ。でも……関心の偏り、って?」
「たとえばさ、教室に人が二十人いても、俺は無意識に未唯を探す。視線の優先順位が勝手に変わるっていうか」
「……」
「それが、“注意の重みづけ”だと思う。情報の選び方が変わる。そこに快や価値が結びついた瞬間、“好き”になる」
そう言ったあとで、俺は少し後悔した。あまりにも直接的だったかもしれない。
だが未唯は驚くよりもむしろ、深く、それこそ哲学の読書をしている時のような真剣さで、俺の言葉を飲み込んでいた。
「それは……真くんの場合、“私がそういう対象だ”ってことなんだよね?」
「ああ。俺の場合は、な」
「……でも、それは真くんの主観だよね?」
「もちろん主観だ。でも、主観だけど、構造は普遍的だと思う。対象が誰であっても、“好き”って現象が起きてるとき、これら三つは絶対ある」
未唯はしばらく黙った。ミルクティーに視線を落として、ストローをくるくる回した。
「……やっぱり私、まだ“快”がわからないんだよね」
「いいよ。わからなくて」
「でも、価値は判断できる。関心だって……真くんのことを、他の人よりちょっと気にしちゃう、っていう瞬間はあった」
――息が詰まった。
こんなにも率直な言葉を未唯から聞くことは、めったにない。彼女は慎重で、自分の感情について語るときは、とくに言葉を選ぶ。だからこそ、その「ちょっと気にしちゃう」という曖昧さの中に、どれほどの本音が隠れているのかを直感的に理解してしまった。
「でもね、それが‘好き’なのかは……まだ全然わからない」
未唯は続けた。
「価値判断は確かにできるよ。真くんは——」
言いかけて、言葉が止まる。あえて続きを言おうとしている。言語化に苦手を抱える未唯が、それでも言葉にしようとしている。
「真くんは……やっぱり、誠実だと思う。嘘をつくときでも、相手を傷つけないように、とか、気を使っているように見える。倫理的な判断と言えばそうだけど……もっと違う、なんていうか……」
未唯は眉を寄せた。額にかかる髪が少し揺れた。
「うまく言えないや。でも、その“価値”を認めているのは確か」
俺は何も返せなかった。胸の奥が熱くて、声にならなかった。
「だけど、それと快がつながらないの。価値があるって思っても、だから“好き”なのかが、全然わからない」
「……価値承認は好きの一部だけど、全部じゃないってことだな」
「そう。だから、さっき真くんが言った“三つの核”って、すごく大事だと思う。でも……それが全部揃うと“好き”なのかって、実はまだピンときていない」
「いいよ。そこで止まってて」
「え?」
「未唯が感じてる“わからなさ”は、たぶん正しい。好きは“理解した瞬間に生まれる”もんじゃない。構造がわかっても、感情が追いつくわけじゃない」
未唯は少し驚いたように目を瞬いた。
「……真くん、なんか変わったね」
「そうか?」
「うん。なんか、“押しつけない”感じが強くなったというか……前よりずっと、私のペースを尊重してくれてる気がする」
それは、俺が自覚して変わった部分だった。未唯に拒絶されて、議論を重ねて、カント倫理学を学び直して……その全部が俺の態度を変えていた。
「未唯。好きは、定義するためにあるんじゃない」
「え?」
「生きるためにある。行為するためにある。定義はその“補助線”だよ」
そう言った瞬間、未唯の表情に微細な揺れが走った。まるで、価値承認という言葉の意味を初めて身体で理解したみたいに。
「……じゃあ、私はまだ補助線の上にいるんだね」
「それでいい。補助線は必要だし、未唯はずっとそれを丁寧に引いてきた。俺と一緒に」
「……そっか」
未唯はゆっくり笑った。その笑顔は、儚くて、でも確かで、それは俺の中の“三つの核”のうち一つを確実に刺激した。価値承認の輪郭が、少しだけくっきりしたような気がした。
「ねえ、真くん」
「ん?」
「“好きの母概念”って言ってたよね」
「ああ」
「それは……私にも作れると思う?」
「もちろん。未唯なら絶対に作れる。むしろ、俺よりずっと正確に」
「そう、かな……」
「うん」
未唯は窓の外を見た。外の街灯がぼんやり揺れていた。遠くで誰かの笑い声が聞こえた。さっきまで冷たかった夜風も、今は少しだけ暖かい。
「……じゃあ、真くん」
「ん?」
「私たちの“好き”の定義、もう一歩進んだね」
その一言は、たぶん、これまで議論したどの言葉よりも確かな“前進”だった。
好きは、まだ完成していない。だけど、確かに少しだけ輪郭が見えた。未唯と俺の間で、確かに何かが進んだ。
それだけで、今日は十分だった。




